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共に生きるために、マニュアルは必要か?
叶谷凜生
こんにちは、ELLインターン生の叶谷です。
大学3年の夏、友人の「障害の有無で分けられているのは結局のところしょうがない」という諦めが頭から離れず、気づけば福祉のことばかり考えるようになりました。
今は「障害の有無をこえて共に活動しえる場は、居場所にも、学びの場にもなりえる」と仮説をもち、コーヒーハウスをフィールドに卒論に取り組んでいます。
コーヒーハウスは、参加者(=スタッフ)と、障害者(=メンバー)が一緒にスポーツや料理、時には喫茶店を運営しているコミュニティです。40年以上、国立で息づいている実践です。
障害のあるメンバーと、多くが障害者と関わりのないのスタッフ。この場では、「支援する/される」の違いはありません。
実践活動誌には、葛藤しながら実践し続けるスタッフの姿がありました。
「福祉施設なら、当然マニュアルがつくられ、同じ失敗はしないようにする。でも、ここは違う。スタッフの話し合いの中で出た『○○さんがこうだった』というような意見は、これまで何度も出ていた。同じことが何度も繰り返され、同じ失敗が何度も起こる。でも、それでいい」
それは、障害のある人と接するときに、不具合が起きてもいいとか、失敗を反省しなくてもかまわないということとはまるで違う。
私は、何度もこの場所で過ちを繰り返し、困ったり悩んだりしてきた。差別する気持ちがないと、決して胸を張っては言えない。しかし、そうしたことが繰り返されること、それを可能にする場所があることを、私は「貴重」ではなく「普通」だと言いたいと思う。
私たちが友達や恋人や家族と接するとき、そこにマニュアルがあるだろうか。(一部略)
この文章を読んだとき、動揺しました。無意識化されたところに障害者との摩擦はさけねばならないと考えている自分がいたことに気づいたのです。
あるスタッフはこの実践を「居心地の悪さや葛藤も含めて共に生きる」と表現していました。
同じような人と生きるだけでは、分からない。違いがある。この社会は誰かにとっては、もっと息が詰まるようなものかもしれない。福祉は、それに気づかせてくれる材料がいっぱいある。
違いが起点となって、個人が地域や社会にひらかれていくと思います。
まだ、何をしていけるのか分かりませんが、地域で試行錯誤しながら、いつかは健常者と障害者という前提をこえるような福祉の関わりしろをつくっていきたいです。
叶谷凜生
2002年秋田県生まれ。東京学芸大学教育学部ソーシャルワークコース4年。
ELLインターン生。一般社団法人ぼくみん学生メンバーとして「ふくしデザインゼミ」に携わっている。