zuihitsu#2:双子の少女が佇む回廊で

映画が嫌いだ。多くの映画は大衆が一生かかっても体験できないようなストーリーを繰り広げ、それを私たちに追体験させてはくれない。2時間前後の時間を拘束された果てに温かい気持ちや、人生の糧となる何かをくれるとも約束してはくれない。だから、映画が嫌いだ。身体と相性が悪く、食した後に必ず頭痛をもたらすアンコを使ったまんじゅうと同じくらい嫌いだ。

母親は映画が好きだった。「フォレスト・ガンプ」や「羊たちの沈黙」と言った不朽の名作はリアルタイムに映画館で鑑賞していたし、ヒット作品を先んじて見つける嗅覚が凄かった。しかし、そんな母親の英才教育なのか、私が幼少期に与えた作品は「シャイン」や「ミザリー」といった不気味な作品ばかりだった。一家団欒の場でテレビから流れる「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」といった山田洋次監督作品はあんなにいいのに、何故、こんな仕打ちを!?と映画の間口の広さに恐る慄いていた。

20代中盤の頃、母君とBUMP OF CHICKENの LIVEに行った際、帰りの途中でご飯を食べる段取りとなったが、母君は同会場にいた会社の同僚を呼んでも良いか?と聞いてきた。断る理由がないので二つ返事で快諾したが、母親の同僚と聞きイメージしたのは、母親と同世代の人間だった。しかし、結果は大きく異なっていた。自分よりも若い美人が来た。私は気をよくし、お酒も入ったこともあって、食後にカラオケに行く流れとなった。そんな楽しい一日の後で私と母親の同僚はなんとなく母親には秘密裏で会い、付き合うことになった。

彼女は派遣社員をしながら、映画のライターを目指す日々を送っていた。同じ畑の人間だと言うこともわかり、二人は意気投合をしたように思えたが、彼女が食い込もうとしている業界の壁は厚く、うまくいかない中で、私はどんどん仕事が増えていった。そのことが軋轢を生む発端となったのか今は定かではないが、次第に関係は悪化していき、二人の仲は幕を閉じた。

しかし、彼女と過ごす日々の中で観てきた映画はどれも素晴らしいものばかりだった。見聞を広げてくれ、感受性を豊かにしてくれた。リアルの延長線を描いたような、ハートフルな作品が好きな彼女のラインナップはどれも素敵なものだった。「ペニーレインによろしく」や「南極の料理人」といった彼女が教えてくれたタイトルを見る度にあの頃がフラッシュバックする。それが悪いことや良いことだったと振り返る必要はないが、映画に対する価値観を変えてくれたことだけは確かだ。

母親は二人の関係を知らない。これも映画のような出来事だと思うと、エンディングはいい物じゃなかったなと後悔することもあるが、これはリアルである。映画だったらどうなったのかと考えると馬鹿馬鹿しい。リアリスト気取りではないが、自分のストーリーは自分が良くする他無い。

だから、映画が嫌いだ。その魅力に取り込まれ、自分の人生と比較してしまわないように、しかし、その中に糧を見出そうと、私はまた映画を観るのであった。まったく。

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