問題は異なるが、解決するための道具は同じ
東大入試だって、教科書の中から出題されている。
東大入試が理解できないと、教科書の知識を活用できない
(出題する側も教科書だけからよくあんな問題がひねり出せるものである)
(努力次第で合格できるように設計されているのだろうが…)
問題=東大入試 道具=教科書の知識
病気の人にできる治療方法は、既存の医薬品や放射線治療などで行われる
病気の症状を理解できないと、処置できない
(病気に対する理解度と、既存の治療方法をどれだけ把握しているか)
問題=病気の症状 検査道具=超音波・放射線等 処置道具=医薬品・放射線等
本だって、日本語を元に書かされている。
知識と発想がなければ、本は生まれない
問題=内容 道具=日本語
曲だって、楽器から作られる
知識と発想がなければ、曲は作れない
問題=曲 道具=楽器
ソフトウェアだって、パソコンとプログラミング言語から作られる
知識と発想がないと、ソフトウェアは作れない
問題=ソフトウェア 道具=PC、プログラミング言語
詰め将棋だって、限られた駒の活用でできる
知識と発想がないと、詰ますことはできない
問題=詰め将棋 道具=将棋の駒
まずは既存の物で解決できないか考えてみる必要はある。
あの東大入試だって、教科書の中から出題されているのだから。
解決できないのは、道具ではなく、問題に対する理解度の低さが原因なのではないだろうか?
解決する為の道具が揃っているのに、問題を解決できないのは本人の問題である。
現実の問題は入試よりももっと複雑。
入試くらい(語弊はあるが)解決できないで、現実の問題が解決できるのだろうか?
入試はまだ言語化されているが、現実の問題は言語化されていない。
まず現実の問題を言語化しないことには問題解決への一歩は踏み出せない。
問題の理解とは問題に対する言語化ではないだろうか。
入試も詰め将棋のようなものなのかもしれない。
実際にはその知識は、他者との議論の中で活用されるからだ。
実際の将棋の対局が本番であって、詰め将棋は練習である。
入試も詰め将棋と同じで、本番は他者との議論の場である。
入試の知識は他者との議論の中で活用される。
入試の目的は、入試に合格することではなく、入試を作った出題者との対話にあるのだ。
出題者と対話できる人間を、入試を通して集めているのだ。
今更ながら、入試の目的について考えてみた。
昔の自分は、他者と対話することなんて微塵も考えていなかった。
だから、駄目だったのだろう。
それが学生時代の反省点である。
私の学生時代の過ちは自己完結に徹した事である。
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