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「スター・ウォーズ」続三部作は何を間違えてしまったのか ※ネタバレあり

私はスター・ウォーズが大好きな人間だ。もちろん第一作から劇場でリアルタイムで鑑賞し、その体験に胸を震わせてきた。スター・ウォーズがなければ、たぶん私の人生は幾何かは変わったものになっていただろう。1~6までのスター・ウォーズには少なくともそれだけの「力」があった。

観客が感情移入できて楽しめる映画には、小説と同じように必要十分な「叙述」と「描写」と「会話」が必要不可欠である。ストーリーとは、この3つの絡み合いによって観客を別世界へと運ぶ。ストーリーの前提たる設定と主題ももちろん必要だ。変奏される主題によって映画は観客の心に何かを訴えかける。

「スター・ウォーズ」サーガの全編を通した主題はもちろん「善と悪」(光と闇)だ。特に旧三部作(オリジナル・トリロジー)エピソード4~6ではフォースとその暗黒面をめぐるシンプルなストーリーによって作品が統御されていた。4で物語の謎だった(観客の感情移入の対象たる)主人公ルークの出自は5で明らかにされ、それにともない敵役ダースベーダーの、ルークの父だという正体も明らかになる。父ベーダ―が我が子ルークの命をシスの魔手から助け、結果、ルークがベーダ―を暗黒面から救い出すという、大団円を迎えた6を終えて残された大きな「謎」は、ジェダイであったはずのダースベーダーがなぜ暗黒面に落ちてしまったのか? という、これも実にシンプルな謎であった。

新三部作(プリクエル・トリロジー)エピソード1~3は、この謎を解明することだけが主目的といってもいい作品群だった。最終的にはダースベーダーとなるアナキン・スカイウォーカーの出自が描かれ、アミダラとの恋と結婚が描かれ、同時にジェダイとしての修行と成長が描かれる。簡単にいうとアミダラの死を予知したアナキンは、アミダラを救うべく暗黒面に手を染める。愛するアミダラを救えるのは生死すらコントロールできる暗黒面のフォースだけだというシスの甘言に一縷の望みを託すのだ。
何が言いたいかというと、スター・ウォーズ世界で「善」から「悪」へと転向するジェダイを映画的に、説得力をもって描こうとするならば、三作分の「叙述」と「描写」と「会話」が必要だったということだ。実際、1~3までの長い丁寧なストーリーを観客が経てきていることで、3のラストにおけるアナキンとオビ・ワンの対決パートからダースベーダーの誕生シーンまでは、シリーズ随一といっていい感動を観る者に与えた。ああ、これでダースベーダ―が生まれ、親子の悲劇が生まれたのかと。

そして時間的には6から数十年後の続三部作(シークエル・トリロジー)エピソード7~9。物語の(「善」側の)主人公はレイに替わる。7~8でレイの出自は「謎」だ。存在自体が「謎」だと言っていい。もう一人の(「悪」側の)主人公はカイロ・レン(ベン・ソロ)。フォースを操るレイアとハン・ソロの息子。だが7ではなぜかすでに暗黒面に落ちていて、祖父であるダースベーダ―を崇拝している。なぜ暗黒面に落ちたのかが「謎」であり、なぜベーダ―を崇拝しているのかも「謎」だ。通常は、というより面白い映画ならば、最初に提示されたこの「謎」を解いていくことを大きなストーリーの推進力として映画は進行していかなければならない。ところがこの続三部作ではそんなふうに物語が進まないのだ。ルークの失踪と不在という設定が前提として付与されているため、主人公二人の謎が謎として放置されたまま「ファースト・オーダー」という悪の軍団と「反乱軍」との戦いがストーリーの主軸となる。
特にレイは、自らが抱えた謎に対して主体的な行動を起こすことなく、事態に巻き込まれていくことで行動せざるを得なくなる形となっているため、観客の感情移入がいっそう難しいキャラクターとなってしまっているのだ。せっかく、何かに「欠けている自分」という感情移入のしやすいキャラ設定がされているにもかかわらず、その「欠けている」ものを探しに行かない主人公。なんとも歯がゆいと言わざるを得ないのである。9でようやくレイは本来進むべき道を歩み始めはするものの、明かされるのは、アナキンを暗黒面に導いた皇帝シスの孫娘だったという、唐突すぎる事実。驚くというよりもあっけにとられる展開というべきだろう。なんじゃこりゃと。カイロ・レンはカイロ・レンで、「謎」が観客に対して説得力のあるかたちで映画のなかで解かれることはなく終わった。もちろん謎解きの説明がないわけではないが正直私にはよく理解できなかった。とても観客の心を揺さぶるようなものではないといっていいだろう。え、そうなの? それでいいの? というのが私の感想だった。適切な、必要十分な、映画的な、「叙述」と「描写」と「会話」がまったく欠けていた。つまるところ、レイの所与の「謎」についても、レンの「謎」についても、それぞれ映画一作品分くらいのボリュームが必要だったのではないだろうか。特にレンの「謎」については、アナキンの転向に三部作一つが費やされたように、簡単に済ますことのできないテーマである。

しかし、じつは上記の続三部作への不満は、あくまで出来上がった作品への不満であり、もっと本質的な不満がある。この新三部作はもっとシンプルな物語として構想されるべきではなかったのかという不満だ。

本来「善」側のレンがすでに暗黒面に落ちていて、本来「悪」側のレイが「善」側にいて不明の暗黒面の恐怖に怯えている、この二つの捩れた設定が、続三部作の映画すべてをダメにしてしまったのではないのか。ひねりすぎ、複雑すぎ、強引であり、それらを実際の映画が消化しきれていない。だからツッコミどころが満載なのだ。いちいちそれをあげることはしないが。「どう語るのか」ということ以前の、「何を語るのか」についての考えが足りなすぎる。

レイがパルパティーンの孫娘という設定でいくなら、謎としてそれを使うのではなく、続三部作の当初、7からその出自と成長を描くべきだ。パルパティーンの息子夫婦の物語とともに。大きな区分けでの「悪」のサイドで育つ「善」の心の葛藤が、そこでのテーマとなる。そのときベン・ソロは善のなかで育つジェダイの正当な後継者ながら、何らかの弱さにより暗黒面に導かれカイロ・レンと化す。そのストーリーも、謎とすべきではなく、まっすぐ描かれるべきだった。レイアやハン・ソロとの確執もそこでは描かれるだろう。どこかで必ずレイとレンの二人は出会い、互いに影響を及ぼし、フォースは「治癒の力~生命の再生」という次元のちがう新たな局面を迎える。そんなまっすぐなストーリーによる映画(続三部作)を私は観たかった。たとえ予定調和であろうとも。そんなまっすぐで単純明快な設定とストーリーこそが、本来のスター・ウォーズの活劇的な面白さにも必ずや貢献したはずである(映画内で処理し切れていないストーリーをめぐる「複雑さ」と「混乱」が、本来明確なはずの、レイとレンのすべてのバトルシーンの意味を不明瞭なものにしている。ただ闘っているようで、何のための闘いなのかがわからないのだ)。
「物語を語る」ということのすべてを知り尽くし最先端にいるはずのディズニーが、この程度の物語しか作り得なかったという驚きが大きい。いったいぜんたいこの続三部作はなんだったんだ!?

と問うてはみたものの、答えは明らかなのだ。ルーカス的世界観をベースとしながら過度にそこに依拠することなく、縮小再生産に陥ることのないよう、新たな「謎」(とキャラクター)を強引に設定して新たな観客の開拓を狙いながら、肝腎のストーリー性を充実させることができなかった失敗作、ということになる。私たちの生きる「世界」がどんどん雑になっていることの証明のような作品だった。

※本稿を書くにあたり、ルーカスによる7、8、9の構想は公表されているのか調べてみたところ、1で触れられた「ミディクロリアン」の世界を描くもの、という情報を見つけた。《あらゆる生命体の細胞内に生息していた、知的な共生微生物である。充分な数のミディ=クロリアンの持ち主は、フォースと呼ばれるエネルギー場の感知能力に恵まれた。ミディ=クロリアン値はフォースの潜在能力に関連しており、標準的な人間の場合、ひとつの細胞に生息するミディ=クロリアンは2,500体未満だった。 》(ウーキーペディア)  世界観を貫徹させるという意味では、そして新たな衝撃を観客に与えるという意味では、現行の新三部作よりもむしろこのルーカス構想のものを観てみたかった。

※以上は9を鑑賞して4日後に考えたことをまとめたもの。7と8を見直してからもういちど書き直すかもしれない。

※サーガの三部作の表記を間違えていましたので訂正しました。2020/01/04
・エピソード4、5、6=旧三部作(オリジナル・トリロジー)
・エピソード1、2、3=新三部作(プリクエル・トリロジー)前日譚
・エピソード7、8、9=続三部作(シークエル・トリロジー)後日譚


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