「メロつく」は身の程を知らない~言語学を齧ったオタク用語の見地

1.まえがき

私がこのフリック入力のキーボードで文字を打つときに、頑なに「言葉」ではなく「ことば」とひらがなで書き表すのは、大学生時代の指導教官が目ざとくそう言っていた影響である。「言葉」ということばは、「単語」を指すのか、より広い形態的な「形式」を指すのか、より広い「表現」を指すのか、もっと言えば一つの「言語」それ自体を指すのか、不明瞭になるというのがその理由であった。それでも使わざるを得ないこれの扱いを、ひらがな表記の「ことば」と書き表すことで指導教官はせめてもの妥協点としていたのだろう。

いつの時代にも若者ことばというものがあるように、インターネットが普及したいまではオタク用語といわれるようなネットスラングが広く使われている。もっとも、この「スラング」という単語も意味が不明瞭であるため加筆するよう指導教官に指摘されたのだが。

2.補助線

①:理解語彙と使用語彙

ところで、一般に語彙と呼ばれるものは、理解語彙と使用語彙に区別される。区別といっても両者は包含関係にある。名称の通り、読んだり聞いたりして理解できる語彙を理解語彙、実際に自分で書いたり話したりして使うことができる語彙を使用語彙と呼ぶ。「理解語彙⊇使用語彙」という関係にあるわけである。記憶が正しければ、使用語彙は理解語彙の半分か3分の1であったはずだ。
なぜ理解語彙と使用語彙の話をしたかというと、前述のオタク用語のなかにも、理解語彙であるものと使用語彙であるもの、そして理解語彙ですらないものとがあるからである。

②:「エモい」について

オタク用語というより若者ことばかもしれないが、よく俎上に上げられる印象があるのは、「エモい」である。はじめ、この「エモい」は理解語彙ではなかったが、用例に幾度となく接するうちに、理解語彙となり、次第に自分自身で使うことも増えた。「エモい」とはなんだ、「感情を揺さぶられるようだ」とか「えも言われぬ様子だ」とか、それを詳らかに言語化してこそ真にオタクとして供給されたコンテンツを理解したことになるのではないかと最初は思っていた。だが、用例に接するうち、母語話者の直感として「エモい」でしか言い表せない意味領域があるように思えてきた。内省が働くようになったともいえるだろう。

日本語学の話になるが、通常新しい形容詞が作られる際には、イ形容詞ではなくナ形容詞として作られることが多い。
「エモい」と同様の意味を表すだろう「エモーショナルな」を比べてみる。文字面だけでは分からないが、声に出してみると分かることとして、「エモーショナル」と「エモーショナルな」とでは、アクセント核が変わらないことがある。「エモーショナル」にそのまま接尾辞「な」を付ければよく、制約が少ない。ゆえに、新しく形容詞を作る際にはより制約が少なく作りやすいナ形容詞として作られる傾向にある。造語力が高いことを「生産性が高い」と呼ぶことがある。
それに対して接尾辞「い」を付けてイ形容詞化した「エモい」はどうだろう。イ形容詞は語末の「い」の直前にアクセント核を持つ(=「い」でかならず音が下がる)。つまり、接尾辞を付ける前の元の語のアクセントを変えてやる必要があり、ナ形容詞と比べて制約が多い。生産性がそれだけ低い状態にあるということである。
ここから導かれることは、生産性の高いナ形容詞と比べて、新しくイ形容詞を作ることは、生産性が低い造語法を敢えて取ることになるため、主たる傾向に反するゆえそれだけ俗語っぽい響きが残るということである。これは、「する」と比べたときの動詞化接尾辞「る」でも同じことがいえる。「する」が前に来る語のアクセントを変えないのに対して、「る」はその直前にアクセント核が来るため、元の語のアクセントを変える必要がある。

3.「メロい」とは

さて、ここまで「エモい」が使用語彙に至ったいきさつ、そしてナ形容詞と比べた際のイ形容詞の生産性の低さについて言及してきた。前置きがかなり長くなっているが、本題に進むまでにはもう一ステップ必要なのだ。「メロい」である。「メロい」は主にオタクが使う。当該コンテンツ、本稿では分かりやすくアイドルとするが、それに対して「かっこいい」や「かわいい」、「尊い」などと感じて、「メロメロである」ことを「○○くんメロい」と言っているようである。「メロい」に関してはかろうじて私の使用語彙ではある。よってある程度内省が働く。
ここで注意したいというか、私自身ミスリードを促すような説明をした気がして補足を加えるのだが、「主体」と「主格」という用語の混乱を防ぐ目的も含めて、以下の作例を参照されたい。

①私は、(アイドルの)○○くんにメロメロである。
②(アイドルの)○○くんがメロい。

例文①において、主格(ガ格)はとりたて助詞「は」が代行しているが、話し手である「私」である。また述語の「メロメロである」の主体も話し手であろう。アイドルはニ格である。述語である「メロメロだ」はガ格とニ格を項として要求するというわけだ。
それに対して例文②において、見た目上主格(ガ格)はアイドルである。例文②を少し変えて、「私は(アイドルの)○○くんがメロいと思っている」のように話し手を無理やり登場させることもできなくはないが、感情形容詞が人称制限を持つことから、「メロい」と感じている主体が話し手であることは明白であり、敢えて言及する必要はないように思える。
私はここに、人称制限を利用したオタクなりの謙虚さが垣間見えるような気がするのだ。見かけ上アイドルと、それがメロいということのみが言及され、オタクそれ自身は文に一切登場しない。オタクとはあくまでコンテンツを享受させていただく側であり、言及すべきはアイドルについてのみであるという立場である。
この考え方の方針は、「メロい」が「かっこいい」や「かわいい」に代わる形容詞であると考えれば、より自然に受け止められるように思われる。「かっこいい」「かわいい」と感じている主体は人称制限があるため話し手であるが、文の文字面だけを見たとき、話し手は一切登場しない。あくまでアイドルについて言及するだけの文であり、ここにオタクの謙虚さ、身の程の弁え方をみることができるように思う。

4.「メロつく」は動作動詞

ここまで来てやっと本題である。
この頃、「メロい」の派生語として動詞「メロつく」が散見される。これに関してはまったく内省が働かない。幾つもハテナが浮かぶ。動詞化接尾辞「る」を用いて俗語っぽく「メロる」と言うわけでもなく、「メロつく」である。この「つく」はどこから来たのか。母語話者の直感として「私は~にメロつく」という格関係があるように思われるが、それならば「メロメロだ」とは代替不可能なのか。代替不可能ならばそれ特有の意味領域がどのようにあるのか。

指導教官の至言がある。「ほかにもないか」というものである。言語学的に分析するならば、ほかに似たような用例がないか調べて類推してみよという旨である。試しに接尾辞「つく」で動詞化した動詞の用例がないか調べてみた。すると、「がたつく」「ちらつく」「ぴりつく」が見られた。また、連濁した「づく」では、「色気付く」「活気付く」「調子付く」が見られた。
軽く観察すると、「つく」の用例はいずれも「オノマトペ(擬音語/擬態語)+つく」という語形成であること、そして連濁した「づく」の用例はいずれも「二字漢語+づく」という語形成であることが分かる。加えて、この少ない用例から結論を出すのは些か早計であるが、母語話者の直感から、前者が動作動詞、後者が状態動詞であるように感じられる。

5.「メロつく」の気持ち悪さ

さて、内省が働かない「メロつく」であるが、上記の考察を踏まえると、まず「メロつく」の「メロ」はオノマトペであり、「オノマトペ+つく」で語が形成されていると考えられる。そして、この語形成の動詞が動作動詞と感じられる点。ここに、「メロつく」という語の気持ち悪さがあるように思われる。

「メロい」は感情形容詞として見かけ上明示されずとも人称制限から主体は話し手である。あくまで話し手が抱く感情ではあるものの、単なるアイドルに対する記述に留まる。また「かっこいい」「かわいい」に代わる形容詞と捉えるならば、まだ擁護の余地がある。
しかし「メロつく」はどうか。オタクそれ自体が、アイドルに「メロメロになっている」動作がありありと浮かぶではないか。アイドルからの供給によってオタクがその身をよじらせているさままで鮮明に脳内に描写されるようである。ここまで記述して分かったのが、動詞「メロつく」に対する気持ち悪さは、「子宮が疼く」だとか「膣キュン」だとかに近しいものだということだ。奇しくも女性器にまつわるスラングしか浮かばなかったが、ミソジニー的な見解を述べたいわけではない。本筋は「オタクとは身の程を弁えるべきではないか?」という問題提起だ。「メロつく」には「(私は)○○くんの姿を見て身をもだえさせています。」といった承認欲求にも似た自己主張のニュアンスが感じられる。「メロい」がただ抱いた感情をそのまま表し、ある種の謙虚さまで感じられるのに対して、「メロつく」は動作を表し、「メロい」に感じられた謙虚さはなく、むしろ下品さすら感じてしまう。

6.まとめとあとがき

「メロい」は感情形容詞であり、その人称制限から「メロい」と思っている主体がたとえ明示されずとも話し手であることが示唆される。ここに、人称制限を利用したオタクなりの謙虚さが感じられる。アイドルと、それがメロいということのみが言及され、オタクそれ自身は文に一切登場しない。あくまでアイドルについて言及するだけの文であり、ここにオタクの謙虚さ、身の程の弁え方をみることができる。
対して、「メロつく」は動作動詞である。同じく主体は話し手のようだが、話し手であるオタクが「メロつく」動作をしていることを述語として明示的に表すことで、「メロい」の文にあった謙虚さが失われてしまい、代わりに、オタクの自我の表出や自己主張のニュアンスを感じる。オタクはあくまで供給されるコンテンツを享受させていただく立場であるという身の程を弁えた姿勢が、「メロつく」の文からはみられないのだ。


本論に入る前の前段が長くなってしまうのは改善していきたい癖だ。本論に入る前に飽きられてしまって伝えたいことが伝わらないとすれば、ちょっぴり切ない。しかし、補助線を引いて話題の土台を固め、丁寧に記述を進めることで、本論の主旨がきちんと伝わると信じたいところだ。
ここまで、いままで学んできた知識を運用しながらも、大したエビデンスもなく自分の内省による文法性判断にのみ依拠した言語学っぽい考え方についての、そしてオタクに対する個人的見解についての相変わらずの駄文にお付き合いくださった方には感謝申し上げたい。
執筆している途中、アプリが落ちて一部の文章がまるごと吹っ飛んで慌てて書き直したため、多少ロジックが飛躍しているところがあるかもしれない。読み返す際はやさしい目で見ていただけるとこれ幸い。