
『ナミビアの砂漠』感想(ネタバレあり)
先週、『ナミビアの砂漠』という映画を観た。
すごく面白いわけではない、けれどもつまらないわけでもない、評価の難しい映画だった。
いや、こうやって感想を書くくらいなのでやはり面白かったのだが、その面白さは、映画体験として一般的に想像される面白さ、興奮や感動からは、かなり離れたところにある興味深さだった。
というのも、この映画は一般的な起承転結のある物語ではなく、主人公のカナという女性の「観察記録」であるからだ。
137分。けっこう長い。視点がカナから動くこともない。そして、そのカナ自身がほぼずっと、とある心理的状態に支配されている。
ここでキャッチコピーを確認しておこう。
世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。
優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?
ここで言う「やり場のない感情」に敢えて名称を与えるとするなら、それは「退屈」とか「空虚」ということになるだろう。
カナはずっと「退屈」している。
文面にある通り、カナは「優しいけど退屈なホンダ」から「自信家で刺激的なハヤシ」に乗り換えるのだが、それで退屈が払拭されたかというと全くそうならない。
序盤のハヤシはカナに言う。
「カナとなら、お互いを高めあっていけると思うんだよね」
しかしこの発言は見事に裏切られる。
カナは自身の抱えた「退屈」を自己処理する方法を持っていないのだ。そもそもその手段を持っていないから彼氏を乗り換えたとも言える。
パートナーに「退屈」の処理を肩代わりさせる。そういう方法でしか「退屈」を処理できない。
後半になるにつれ、カナの「退屈」が暴力的に発散される場面が増えていく。
それをハヤシも持て余す。ここに至って、スクリーンを「退屈」「空虚」が侵食していく。
「映画なんか観て何になるんだよ」と劇中でカナがハヤシに言う。
つまりカナは「何になるのか分かる」ものしか受け取らない姿勢を貫く。
趣味というのは「何になるのか分かる」ものではないから、カナは趣味を持てない。
その結果の無趣味である。
そして、なぜそうなってしまったのか、映画内では何の説明もない。
これは製作サイドの手抜きとかいじわるとかではなくて、敢えて説明しないのではないか。
理由はちゃんとある。しかしその核心部分を隠すことで、観る側に強くそれを印象付けるという手法を、この映画は採用していると思うのだ。
さて、カナは21歳である。
ということは、生まれは2003年。
おそらくその親は80年代のバブル期に青春時代を送り、社会に出るあたりでバブル崩壊のあおりを受けた世代である。
バブル世代と、就職氷河期世代の被るあたりだ。
この世代は、日本が格差社会化していく過程を生きた世代でもある。
カナの家族の描写がないので想像でしかないのだが、おそらくカナの実家はあまり裕福ではない。
ハヤシの家族(こちらは裕福である)とのバーベキューで、カナは何をするでもなく時間を持て余す。パーティー的な時間の過ごし方を全く知らないようだ。
もし裕福な家庭に育ったのなら、もう少し余暇の時間の使い方を心得ていてもよさそうなものである。とにかくカナは、自分からはなにもしない。
まるで何かに時間を消費するのを拒むかのように、何もない時間をただ耐えている。
この「時間に耐える」という姿勢が、カナの性質をよく表しているのではないか。
映画の冒頭でも、カナは友人からの相談事に対して「聴く」のではなく「耐えて」いた。近くの席のノーパンしゃぶしゃぶの話に耳を持っていかれながら。
このようにして、構成員が「時間に耐える」ことで成立する社会が、日本社会の中にはある。
日本人なら誰もが子供時代に否応なく参加を義務付けられた社会、すなわち学校である。
親が共働きだったなら、学校以前の保育園だったかもしれない。とにかく日本において子供がはじめて参加する社会は、子供自身が主体的に行動して成り立つ社会ではなく、限られた空間と約束事の中で「時間に耐える」ことを強制する社会である。
ここで言う「時間」は「余暇」ではない。学校における「時間」、つまり「授業」は「商品」である。子どもは自分の人生の時間を対価として払い、「授業」という「商品」を買わされる。ここで行われた売買において、子供は消費者だ。
消費者は商品が「何になるのか」を知っていなければならない。そうでなければ時間という対価を払う価値があるのかどうか、判断できないからだ。
ここで消費者は最初の選択を迫られる。「何になるのかは分からない」がとりあえず買ってみる。「何になるのか分からない」ので、買わない。
学校の教室では、分かりやすくこの二択を行った結果が観察できる。退屈だと思いながらも授業を受けている者と、授業を聴かずにサボっている者だ。
授業を受ける選択をした者は、授業を聴く、ノートを写す、問題を解く、などの行動で時間を使うことになる。一方、サボったグループは、寝るか、ノートに落書きをするか、小声でおしゃべりするか、教室を出て行ってしまうかもしれない。
どちらが良い悪いではなく、そのように分岐しているという話だ。
もう一つのパターンがある。とりあえず買ったが、その「商品」を使わないという選択である。
教室にはいる。勉強道具も出している。姿勢も先生の方に向いている。しかし先生の話は半分くらいしか聴いていない。もう半分は教室の外の景色をボーっと眺めるとか、友人から回ってくるラインに返信するとかして、時間に耐える。
買ったはいいが「何になるのか分からない」半信半疑のまま、中途半端な参加状態を続けて「結局何にもならなかった」という予定調和に着地する。
おそらくカナはこのパターンを選択して生きてきたのではないかと推測する。
現代社会は人に消費者であることを求めており、子供時代から消費者であることの練習をさせられている。
ここで言う消費とは、単なるモノの消費だけでなく、記号消費を含む。記号の代表例はブランド商品だが、他にも「SDG'sを意識したライフスタイル」とか「ラギッドな男のちょい悪ファッション」とか「ソシャゲの推しキャラ」なんかも記号だ。記号だからいくらでも生みだせるし、使ってなくなることもない。その記号が市場に溢れ、飽きられるまでが旬である。飽きられる頃には、また新しい記号が市場を席巻している。
この記号を巡る終わりのないゲームは、現代人の財布を荒らすと同時に、「退屈」「空虚」を連れてやってくる。
人間はいつからか、とても退屈するようになった。その退屈を一時的に遠ざけるために文化・芸術がうまれたと言っても過言ではないだろう。
しかし昨今の記号消費ゲームの暴走によって子どもの頃から消費者としてのマインドを植え付けられ、それと同時に「退屈」「空虚」に侵食された我々は、もはやカナの無趣味を笑ってはいられない。
今も、消費者としてのマインドが心の底までしみ込んでしまって、カナのように「何になるのか分かる」ものしか受け取れない、無趣味の人間が量産されているのだ。
カナとハヤシの取っ組み合いのけんかは、映画『ファイト・クラブ』を彷彿とさせる。殴り合うことでようやく生きているという実感を得られる。そこまで現実が希薄なものになってしまっているということなのだろう。
ひとつ、気になることがある。
カナはちょいちょい嘘をつくのだが、バイトを辞めたのも、本人はクビになったと言っているが、実はやる気が失せて飛んだだけなのではないかと思っている。
おわり
いいなと思ったら応援しよう!
