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掌編小説 百年の紅茶


百年の紅茶 

                             榎田ユウリ


その朝、大きな壁に常時表示してあるデジタル数字が、音もなく変わった。
99から100へ。

 私は旦那様の寝室に佇んだまま、無機質に浮かび上がる数字を見つめる。完全遮光カーテンのおかげで、部屋はいまだ暗く、旦那様はベッドに横たわったままだ。その胸が静かに上下しているのをしばらく見つめてから、私は七歩進んで窓辺に立った。朝の光を入れて、旦那様を目覚めさせなければならない。

「……タカミ」
 カーテンを半分開けたところで、旦那様が私の名を呼んだ。
「おはようございます、旦那様」
「……数字が」
「今日は素晴らしいお天気になりそうです。ガーデン・パーティにはもってこいですね」
「100に変わっているね」
「昨日、先方のバトラー・ウィリアムから連絡がありました。とっておきのシャンパンを用意して、旦那様をお待ちしていると」
「そうか……今日から百年目か」

 会話はまったく噛み合わず、それでも旦那様の顔は穏やかだった。
 私は数字について触れないまま、旦那様がベッドから身を起こすのを手伝う。だいぶ高齢のため関節が軋むのだろう、動きはぎこちなく、お辛そうだ。半身を起こし、お背中にクッションを挟んで安定させてから「すぐに紅茶をお持ちします」と一度ベッドから離れた。
 アッサムをベースにした特製ミルクティーを淹れる。
 熱すぎない絶妙の温度でそれをお渡したが、旦那様は飲もうとはせずに、ぼんやりと壁を見つめるばかりだ。大きな壁面は朝の光を浴びて白く光り、100という数字はそれに合わせて濃色に変化し、くっきり浮かんでいる。

 クラシックなティーカップを持ったままぼんやりしていた旦那様は、ふいに私に視線をやって、
「タカミ。おまえはいつまでも若い」
 そんなふうに仰った。
 私は微笑み「恐縮です」と答える。
「外見的には、三十前後というところでしょう。私どもは基本的に、ほとんど変わりませんので」
「百年も、私に仕えてくれているのに」
「テクノロジーのおかげです」
「いかにも。だが、百年目だ。これはテクノロジーとの、いわば、契約だ。……わかっているね?」
「もちろんです。旦那様」
 私はまた笑って頷き、残りのカーテンをすべて開けた。遥か昔の英国を意識した庭園では、春のバラが見事に咲き誇っている。早くから仕事を始めているガーデナー・ヤンが私に気がついて、軽く手を振った。私は小さく頷くに留め、美しい庭よりもっと先を見た。

 銀色に霞むビル群。
 都市の中央部、宙を飛び交うエア・タクシーたちが煌めく。それぞれのルートをチョイスし複雑に動くが、衝突することはまずない。人的被害を伴う接触事故は年に一度あるかないかだし、死亡事故はもう何十年も発生していなかった。
 この世界は、今日もAI技術によって滞りなく動いている。
 そう、我々のように。


「お披露目パーティは、久しぶりだな」
 バトラー・ハキルが明るく言う。
「めでたくも新しくご主人様を迎えた、バトラー・ウィリアムに祝福を! さっきご挨拶したが、立派な紳士だった。先代の奥様はもう引退なさったって?」
「そのようです。まだ九十六歳でしたが、あちこち具合が悪かったらしく」
 答えたのはこの屋敷のドライバー・ダンだ。バトラー・ハキルは「なら仕方ない」と赤ワインをうまそうに飲む。
 今頃、庭ではパーティが盛り上がっているだろう。招待客とその執事たちはほとんど庭にいるわけだが、私とバトラー・ハキル、ドライバー・ダンはこの使用人控え室で、ひと休みしているところだった。

「そういや、バトラー・タカミの旦那様も、そろそろ百年なんじゃ?」
 ドライバー・ダンの質問に、「まさしく、今日から百年めだ」と答えた。私たちは、互いの職業を尊重しあい、無論自分の仕事にもプライドを持っているので、呼びあう時は必ず職業名を冠につける。ただ名前を呼ぶだけでは無礼とされていて、それができるのはそれぞれの主だけなのだ。
「そうか、バトラー・タカミのところもか! ってことは、パーティの支度で大忙しになるな。あれ、お屋敷の後継者、決まってたっけ?」
 若々しい容貌のバトラー・ハキルに聞かれて、私は「いや、まだ」と答える。
「ええ、なにしてんだよ? 急がないとまずいだろ」
 呆れた声を聞かされた私は、少し眉を寄せて「あと三百六十四日ある」と返す。
「色々と、考えるべきこともあるし」
「おい、ラストイヤーなんかあっという間だぜ? それに、なにを考えるっていんだ。俺たちにとって、ご主人様が変わるのは避けて通れないことだろ。なにしろ、こっちの寿命はあまりに長すぎるんだから。バトラー・タカミ、きみ、今の旦那様で何人め?」
「三人めだね」
 そう。
 以前の主は『奥様』で、次は『坊ちゃま』だった。つまり、私ももう三百歳に近いということになる。もっとも、バトラー・ハキルの言うように、我々とって年齢はそれほど意味は無い。

「まあ、バトラー・タカミの気持ちもちょっとわかりますよ。百年近くのつきあいになるんですから……さみしさのようなものはあります」
 ドライバー・ダンが静かに言う。外見は四〇代くらいで、お喋りなバトラー・ハキルと違い、物静かなタイプだ。
「さみしさ、ときたか。さすがAI搭載の精密機械!」
 茶化すバトラー・ハキルを無視して、私は「さみしいというか」と正直な気分を口にしてみた。
「自分の一部が、欠けてしまうような感じなんだ」
「おお、センチメンタル。まるで、感情のやりとりがあったかのようだ」
「あったよ。確かにあった」
 私ははっきりと言った。
 すると執事仲間は急に醒めた目になって「忘れてないか、バトラー・タカミ」と私を見据える。
「一緒に考えてはならない。AI搭載のヒューマノイドと、人間を」
「……そんなつもりはない」
「いいや。きみは混乱しかけている。いいか、我々に比べて、主たちの命はあまりに短い。頑張って百年、これがぎりぎりだ。それが彼らの運命だよ」
「わかってる」

 わかっているとも。私だって、もうふたり見送ったのだ。
 華やかで美しかった奥様と、可愛らしいいたずらっ子だった坊ちゃま。奥様と坊ちゃまも「悲しむ必要はない」と、静かに仰って百年目を迎えられたのだ。そして私も思った。自分の職務はきちんと果たせたと。だから納得すべきなのだと受け入れた。
 けれど、今回は。今回ばかりは……。
 ピピッとリストバンドが甲高い電子音をたてた。

「はい、旦那様」
『ああ、バトラー・タカミかい。僕だ、バトラー・ウィリアムだ』
 その早口に、悪い予感を覚える。
『きみの旦那様のご気分がすぐれないようなんだよ』
 私は立ち上がり、「今すぐに」と答えながら歩き出した。背後から「運命だよ」と再びバトラー・ハキルの声が追いかけてくる。

「百年。それが彼らの運命だ」


 旦那様をお連れして、屋敷に戻った。
 かなりお疲れのご様子だったが、しばらくすると落ち着かれた。百年目に入ると、こんなことが起きやすいのは知っていたのに、いつになく焦ってしまった。

 書斎に飾るバラを切るため、庭に出る。
 夕刻の風が赤や黄色を揺らしている。ひとつひとつの花はかなり大きい。ガーデナー・ヤンに聞いたのだが、品種改良が進みすぎて、このバラたちはうまく枯れることができないらしい。いまだ瑞々しい花びらのまま、突然にポロリと萼ごと落ちる。私の出身である極東アジアの小国では、それは縁起の悪いこととされていたらしい。人の首が落ちる様子、すなわち「死」を連想させるからと。

「タカミ。紅茶が欲しいね」
 書斎に戻ると、窓辺のカウチで旦那様が仰った。こんな夕暮れならば、少しスモーキーなフレーバーが相応しいだろう。私は細心の注意をもって茶葉を蒸らした。
 骨董品ともいえる茶器に琥珀色を注ぎ、旦那様にお渡しする。
「いい香りだ」
「ありがとうございます、旦那様」
 窓から差し込む光を吸い込んで、旦那様の白に近い銀髪は茜に輝いていた。旦那様はよく、私の黒髪を羨んでくださるのだが……旦那様のシルバーのほうがずっと美しいと思う。そう、坊ちゃまの金髪より、奥様の赤毛より、私を惹きつけてやまない。

 いったい、いつからだろう?
 その瞬間を明確に覚えているわけではない。いつしか、ごく自然に、深いその皺も、嗄れた声も、老齢ゆえの物静かな物腰も――私の想像を遥かに超え、計り知れぬほど大切なものになっていた。
 もちろん、口にしたことはない。そんな意思表明は、旦那様を戸惑わせるだけなのはわかりきっている。
 だから、私はただそばにいた。
 緑の芽吹く春に、スプリンクラーの飛沫が光る夏に、澄んだ夜空に月が浮かぶ秋に、暖炉とココアの香る冬に……ただ、旦那様のそばにいた。
 それぞれ、百回に近く。

「タカミ」
「はい、旦那様」
「後継者を決めなければ」
「…………」
「この話になると、おまえはいつも黙る」
「申しわけありません、旦那様」
「おまえとすごせた百年は、この上なく幸福だったよ。心残りは後継者だけだ」
「まだ日にちはあります。そうお急ぎにならずとも」
「いいや、なにより大切なことだ。百年目の初日から、始めなければならない。それこそが私の安堵に繋がる。タカミ。わかっておくれ」
 旦那様の声は懇願に近く、私は戸惑うばかりだ。
「私はいなくなる。だがきみは残り、私の後継者に仕える。それはつまり、私が生き続けることにほかならない。そうだろう?」
「そうなのでしょうか」
 はい、とは答えなかった無礼な私を、旦那様が見つめる。
「タカミ。きみも知っているね。大昔、人は六十年程度しか生きられなかったそうだ」
「…………」
「悲劇だ。あまりにも短すぎる。それに比べたら、私の百年は充実していた。この百年、ずっときみがいてくれた。私にお茶を淹れ、屋敷を快適に保ち、様々なパーティの支度をし……なにより、話し相手になってくれた」
「旦那様、私もです。先代の坊ちゃまより、先々代の奥様より……あなた様との会話が一番楽しかったのです。時を忘れるほどに、楽しかったのです」
「嬉しい言葉だ」
 旦那様は目を細めて頷く。
「私の後継者にも、そんな言葉をかけてやってほしい」
「それは……できないかもしれません」
「なぜ」
「次の方は、あなた様ではないからです」
「なるほど。では、同じようなタイプを後継者にすればいい。白髪頭でヨタヨタ歩くようなのをね」
 それは半分冗談だったのだと思うが、私は笑うことができなかった。

「私は……もう次の主はいりません」
 意を決してそう告げる。
 ずっと押し殺していた言葉を、もう抑え込みたくなかったのだ。
「だめだよ、タカミ」
「旦那様と一緒に、生を終えたいのです」
「なんてことを」
 旦那様は驚き、私に手を伸ばした。
 私は一歩退いて逃れる。今は触れられたくない。
「それは禁じられている。知ってるはずだろう、タカミ? きみがもしそんな行動を取ろうとしても、私はあらゆる手段で防ぐ」
「承知しています。……旦那様はそうプログラムされている」

 人類の英知の結集。
 まるで人間のような、人間ではないもの。

 旦那様は私を見て、私に触れて、私をモニタリングし、逐次そのデータを中央健康管理局に送信している。ちょっとした不調ならば、その指先から流れる微弱な電流で癒やすことすらできる。体内への水分侵入は厳禁なので、もちろん紅茶は飲めない。だが、香り粒子をキャッチするセンサーは人間の嗅覚以上だ。

『旦那様』という名の、極めて高機能なヒューマノイド。

 それが安全に機能する限界は百年。
 再生医療の発達で、人は不死に近づきつつあるというのに、この繊細な機械は先に壊れてしまうのだ。

「……旦那様、人が、なぜあなた方を創り出したかご存じですか」
「無論だよ。人はなかなか死ななくなった。すると、生殖に意味がなくなり、家族制度が崩壊し、情愛などのエモーショナルな活動も低下していった。無気力化し、鬱症状になる大勢を救ったもの……それがつまり、『仕事』だ」

 仕事。
 なすべき、こと。
 自分は役に立っているという思い。
 かつての人間は労役をひどく嫌ったと聞く。だがいまや我々は、仕事がないと生きている心持ちになれないのだ。

「ええ。私は執事という仕事を選んだ。そして旦那様を得た」
「そう……私はきみに仕えてもらうために、造られた。きみは私の優秀な執事であり、同時に主でもある」
「はい」
 その通りだ。
 なにも間違っていない。
 私の頬に熱い液体が伝う。涙なのだとわかるまで、しばらくかかった。感情の作用で泣くなんて、どのくらいぶりだろうか。

「タカミ、泣かないでおくれ」
 旦那様が立ち上がった。そして私を抱き寄せる。
 もう拒めなかった。旦那様の身体は温かく、質感と言い、匂いといい、まるきり人間のようで……いいや、そんなことはどうでもいいのだ。
 人間かどうかなど問題ではない。
 人が愛する対象は人だけではない。それは昔からよく知られていることだ。

「さあ、仕事をしておくれ。後継者を決めるんだ」
 旦那様が囁く。
 私を包み、乱れる心拍を測定し、数値を送信している。
「申しわけありません。できません」
「タカミ」
「さんざん、考えたのです。けれど、旦那様がいない世界に私がいる意味が……どうしても見つかりませんでした」
「…………」
「わかっています。たとえば私が自殺しようとしても、旦那様に止められてしまう。旦那様はそういうふうにプログラムされている。よく、わかっています。……でも、私にできる、唯一の方法が」
「……タカミ?」

 ヒューマノイドの暴走。
 その確率は0.0002%とされている。ごくごく低いが、ゼロではない。だからこそ、緊急手段が備えられていて、その備えをヒューマノイド自身は認識していない。
 所有者の声紋とパスワードによる緊急停止システム――いったん全機能が停止し、再起動まで二分四十七秒かかる。

 その間だけ、私は私の命を自由にできる。

 必要な薬は用意してあった。こんなに早く使う予定はなかったのだが、仕方ない。私の感情に極端な揺れがあることは、オンタイムで報告されている。場合によっては中央健康管理局によって、保護隔離されてしまうかもしれない。邪魔をされるのはごめんだった。

「タカミ」
 耳によく馴染んだ声に呼ばれ、その腕の中で私は顔を上げた。
 旦那様は少し不安げな表情で、それでも私を見つめ微笑んでくださる。ネガティブに傾いている私の感情を、癒やそうとしているのだ。最初から最後まで、優しいお方だった。そうプログラムされているのだと嗤う者など、今の世にはいない。人工知能を持つヒューマノイドに個性が発露することは、もはや常識だ。彼らはみな、唯一無二の個性を持っている。似たタイプを迎え入れることができたとしても……同じ旦那様には、二度と出会えない。

 私の主。
 私の仕事。
 私の存在意義。私のすべて。

 どうか許してください。あなたが終わる前に、私が終わることを。

 緊急停止システムの音声パスワードは、所有者が決める。通常では口にすることのない言葉を設定しておき、万が一に備えるのだ。
「……旦那様」
 私は囁いた。
 秘密の言葉を。

 直後、ごく小さなモーター音が旦那様の内部から聞こえた。
 私を抱く両腕がだらりと下り、その身体がズシリと重くなる。かなり軽量化の進んだボディだが、それでも人間よりはだいぶ重い。
 苦労して抱きかかえ、なんとかカウチに座っていただく。
 旦那様の銀髪を指先で整え、前髪のひと房に敬愛のキスを捧げる。唇が少しだけチクリとして、それがなんだかたまらずに嬉しい。
 横に座ろうかと考え、結局やめた。旦那様の隣に座るなど不敬だ。
 最期まで私は、バトラーとして在ることにしよう。

 微動だにしない旦那様の前に立ったまま、古めかしいスーツのポケットを探り、薬を出した。苦しむことはないと闇業者は言っていたが、本当かどうか怪しいものだ。とはいえ、死への恐怖感はなかった。その感覚に対して、我々はとても鈍くなってしまっている。

「旦那様」
 薬を飲む前に、もう一度言っておきたくなった。
 先ほどのパスワードと同じセリフ。
 ヒューマノイドに向かっていうことは、あり得ないはずの言葉。
 聞こえていないのは承知だが、それでも、心をこめて。
 執事らしく、一分の隙もない会釈とともに。

「また来世でお会いしましょう」

 そして今度こそ私たちは並んで座り――ともに香り高い紅茶を楽しむのです。




                              END