見出し画像

あかるいほうへ あかるいほうへ

あなたと共にうたいたい。

元高校教師(国語)の
たこせん枝瀬です🐙

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
教育は
自分が変わらないと
他人を変えることなんてできない。
       =「主体変容」

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【たこせん枝瀬の発信の足】

タコマンダラ

【河合隼雄『で』語ります!!】


影(シャドー)の体験

人間の心の「影の部分」について
何か書いてみたいという気持ちは
以前より持っていた。

人間存在にどうしてもつきまとう影、
そして悪の問題は私にとって
避けることの出来ない大きい課題であった。

それはつき合わずにいるのは
あまりにも惜しく、

さりとて完全に手を握るのは
あまりにも恐ろしい相手であった。

その上、
心理療法家としての私の職業上、

それは日々の実際的な仕事の中で、
常に顔を合わす相手でもあった。

河合隼雄『影の現象学』

河合隼雄先生に
『影の現象学』という本がある。

僕が手に取っているのは
講談社学術文庫なのだけど、

『学術』文庫というからには、
学術的なはずなのに、

この本の中では
「影とは何か」を
明確にした定義がない。

学問の世界で
定義のはっきりしない言葉を扱うのは
おかしいという人もいるだろう。

でも、僕は、

そういう書きぶりでないと
河合隼雄先生は、
「影」を記述できなかったのだと思う。

むしろ、
定義をしないまま、
語り続けていくうちに、

読み手が、自由に、個別に
イメージや連想を広げていくほうが

現場(臨床)感覚に根差した
実感を伴う「影との体験記」としてリアルだ。

実際、この本は、
河合隼雄先生を知ってまもなくの頃、
夢中で読んだ作品だった。

□□□□□□□□□□□□□□□□
自分の影とは何か?

□□□□□□□□□□□□□□□□

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
自分の影と
どう向き合い
どう付き合っていくのか?
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

つまるところ、
それは個別具体的な問題である。

河合先生は
以下のように記述されている。

ユングは体験を重視する。

彼は自分の理論が「経験的に」
作られてきたことを常に強調するが、

確かに彼は
自分の経験に基づいて
理論をつくりあげるので、

それは時代と共に変遷するし、
そのような経験を背後に持たずに

彼の理論だけを見ると、
混沌としたものと感じられるのである。

同上

(影について)
それは個人に体験されることとしては、

まず無意識の全体として
体験されると言わねばならない。

つまり、
影は後に分化されてゆくにしろ、

最初は無意識の全体を
覆うものとして体験されるということである。

同上

言い回しが
難解に感じられるかもしれないが、

要するに、
「影」とは、振り返った時に
はじめて認識できるもの
であり、

「ああ、あれが自分にとっての影だったのだ」
と言葉にできたとき、
はじめて上手に付き合えるようになる。

枝瀬の「影」

はじめにお断りしておきたい。

枝瀬は、
この3週間弱、

仕事や家庭で、
驚くほど同時多発的に
「影の体験」をした。

あるときは
仕事で、

あるときは、
家庭で、

あるときは、
妻に影が宿り、

あるときは、
友人が影に憑りつかれて、

僕の
時間を奪い、
労力を吸い取り、

結果として、
僕のやりたいことに
集中することができなかった。

※自分の感情が落ちることはなかった。

それらの体験を
個別に語ろうとすると、

あまりに生々しいし、
誰かが傷つきかねない。

とはいえ、
あまりに抽象的な表現にしても、
リアリティーを損ねてしまう。

だから、
ひとつの寓話として

サクッと手短に
書いてみようと思うのだけど、

僕の影は

とりかえしのつかないことをしてしまった


という罪悪感に始終さいなまれている。

自分が悪かった

自分が良くなかったのだ

という

処罰感情

自分に向いて、
ずっと自責の念に苦しんでいる。

と思えば、
ふとした拍子に

強烈に相手を

攻撃する

こともある。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
あなたたちのせいで
とりかえしのつかないことが
起きてしまったのだ。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

そんな攻撃的な言葉が
しつこくねちっこく
何度も何度も反芻される。

どんなに謝っても
許してもらえない。

それは、

根の深い

怒り

であり、

怒りの奥深くには、

不安・恐怖

の感情が潜んでいる。

僕には、

僕の影が、
とても執着しているように
思えて仕方がない。

何に
執着しているかというと

過去への執着

だ。

怖いのに
不安なのに
怒っているのに
苦しいのに、

それなのに、

過去にしがみついて、

一歩もそこから動こうとしない。


結果として

自分や
他人のことを

無価値な存在だと思い込む


生命の尊厳を

とてもとても
「雑」に扱っているように見える。

いや、
見えてしまう。

影はキライだね!

以前、
スタエフの音声配信で語ったことがある。

人の命に関わるっていうことが
起きた時にね、

思うのは
大概の人ってそこに巻き込まれたくないから
一歩引くんですよね。

だけど、死にたいぐらい苦しんでる人って
一緒に(誰かと)つながりたい 気持ちが
あるんじゃないかなって思っているんです。

記事より引用

僕自身、
ツラいとき、しんどいときに
誰かとつながりたいという気持ちがあるから、

お仕事の関係などで、
ご縁の深い人が苦しんでいるときは
可能な限り「つながる」スタンスをとってきた。

そういうスタンスで
それなりの成功体験も積んできたから、
自信もあった。

多少相手のネガティブに引っ張られたとしても、
それはもう当然のことながら付き合う。

僕が付き合うと、
僕の家族もそこに巻き込まれていることに
なるんだけど、それも 含めて付き合う。

記事より引用

でも、
ひょっとしたら、
ひょっとすると、

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
そのスタンスこそが
僕の「影」・・だったのかもしれない。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

もっと言うならば、
僕の「影」の部分、

・(とりかえしのつかないことをしたという)罪悪感、処罰感情
・攻撃性、怒り、不安、恐怖
・過去に囚われる
・一歩もそこから動こうとしない
・無価値な存在だと思い込む

に対して、

付き合う姿勢を
とるということは、

そういう影の存在を
助長していることではないか!

そんな風に
はっきりと認識できたのだ。

己の「影」の正体

遂に見つけたり!
である。

そして、

そう理解できたとき、

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
自分の「影」
大っキライ!!

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

そう思えた。

影さん、ばいばい


人生は

いつでも、どこでもやり直しがきく


のだ。

まったく
同じ状態に
戻ることはないけれど
(この世は「動的平衡」なので)

物理的世界で、何度も
「死と再生」を繰り返している
私たちは、

「こころ」の世界においても、
「今」「ここで」「この瞬間」
やり直す(生まれ変わる)ことができる。

罪悪感だったり処罰感情だったり、
私たちは「無価値な存在だ」なんて
自己卑下する必要は一切ない。

人間以外のすべての動植物は
生きていることに
「罪悪感」なんて抱いていない。

それは
「頭でっかち」な人間の脳みそが
生み出した虚構の世界であり、

そんな閉じこもった世界観で
苦しむなんてナンセンス以外の
なにものでもないではないか。

僕は「影」に付き合う必要なんて
まったくなかったのだ。

共感はしても
同情の余地なし。

だって、
私たちは、今ここに生きているだけで

値千金の価値がある


わけで。

値千金の豊かさを
ありがたく享受すればいいだけの話。

不安や恐怖は、
生きていくための最低限度にとどめて、

むしろ、

未来を実現していく


ための糧にすればいい。

雨が降ったらどうしようという不安は

傘とカッパを準備すればいいのだ。

準備を入念にできたとき、
不安や恐怖は、自信に変わる。

持つべき感情は

自信、悦び、感謝

がいい。

じゃあ、そうなるためには
何が必要か?

動き回る


ことだ。

1回や2回の失敗が
なんだというのだ。

やり直しはいくらでもきく。

過去の延長線上で
自分を縛り付けるのではなく、

どうしたいか?
どうなりたいか?

という
未来の理想から

逆算して

悩んだり
不安がる
隙がないくらいに

大量行動すればいい。

どうして、
今まで

不安や恐怖や
怒りに付き合ってしまったのだろう?

お別れすれば、
それでよかったのだ。

シャドーを知らなければ、ライトの方に氣付けない

ほしいときに、
ほしい言葉をくださるのが、

この
「河合隼雄『で』語ろう」
マガジンだ。

ならまちさんや
おおかみのみねさんの記事
のおかげで、

自分の「影」に
氣付けたタイミングで

今度は、天啓のように
ナウのセカンド観音様がのたもうた。

拙記事「『氣付き』と『氣絶』」のコメント欄より

ああ、そうか。

「影」を見れば、
「光」の方角が見える。

自分は
自己の「影」を認識すると同時に、
「光」の在り処も理解できた。

図解すると、
以下のようになる。

目指すは「光」。「影」は後ろにいなさい。

「光」に対する
自分の向きによって
「影」の見え方は変化する。

「光」に向かって
真っすぐ正対すれば、

「影」は見えなくなる。

今までも
「信じる」という想念のもつ
パワーについては

力説している
つもりだったけれど、

この3週間弱、

「影」によって、

自分の時間を奪われ、
労力を吸い取られる
感覚があったということは、

まだ「光」に向かって
真正面で進めていなかったのだろう。

ズレていたから、
「影」と遭遇していたのだと思う。

「疑う」想念がなくなったとき、
一気に理想は「引き寄せられる」のだから、

これからは
まっすぐ「光」に向かって歩みを進めながら、
「影」を自分に真後ろについていかせたい。

「影」には自分の姿を見せることで
「光」の在り処を示していけばいい。

それが、
これからの僕の「仕事」で、

あえて
カテゴライズするなら
「教育」なんだと思います。

今までやってきたことと同じ(苦笑)

そんなことに
氣が付いた
暮れの大晦日でした。

われわれの人生も
言ってみれば一瞬にして
すべてを持っている。

例えば、
私がいま話しているこの一瞬に

私の人生の過去も現在も未来も
全部入っているかもしれない。

それは、
時間をかけて
物語ることができると考えられまして、

私は心理療法の仕事をしているのは、

来られた方が自分の物語を発見して、
自分の物語を見出していかれるのを
助けているのではないかと思っています。

私がつくるのではなくて、
来られた方がそれを見出される。

河合隼雄『物語と人間の科学』より

河合隼雄先生の言葉に導かれて
僕は、僕の物語を楽しんでいます。

また、
みなさんの物語も
聴かせてくださいね。

みなさま、
良いお年をお過ごしください。

今日はここまで。

最後までお読みいただき
ありがとうございました。
嬉しくてタコ吹いちゃいます‪(˶˙๏˙˶)♡‬


「河合隼雄『で』語り合おう」は、

河合隼雄先生を仲立ちにして、
それぞれの体験談を
書いてくださる方。募集しています!

ハッシュタグに
#河合隼雄倶楽部 」をつけてくだれば、
マガジン登録して紹介させていただきますね。

ぜひぜひ、お気軽にご参加ください!!

いいなと思ったら応援しよう!