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『氣付き』と『氣絶』

あなたと共にうたいたい。

元高校教師(国語)の
たこせん枝瀬です🐙

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教育は
自分が変わらないと
他人を変えることなんてできない。
       =「主体変容」

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【たこせん枝瀬の発信の足】

タコマンダラ

【河合隼雄『で』語ります!!】


『氣付き』と『氣絶』

ある人から教わって
感銘を受けたのだけど
『氣付き』の対義語は『氣絶』らしい。

なるほど、
わたしたちは、
ふとした日常で

「あ、そうか」と
自分の「氣」が「付く」瞬間を感じる。

それは、たとえば

妻が髪を切ったとか
チャーハンの味付けがいつもと違うとか
今朝の風は南東から吹いているなとか、

物理空間において、
自分の意識が対象に向けられるときだ。

そのとき、その瞬間、
確かに「氣」が「付く」感覚がある。

同様の感覚は、

目に見えない
「こころ」や「たましい」の領域にも
当てはまる。

自分のこと、
他人のこと、
世界のこと、

それらに意識を向けると
それだけで『氣付く』ことはたくさんある。

一方で
意識を向けないもの、

俗な表現をするなら
「シカト」している対象については

自分の「氣」が「絶たれている」から
『氣絶』なんである。

そうやって考えてみると
わたしたちが生きているなかで得られる
『氣付き』はほんのわずかなもので、

ほとんどのものは
『氣絶』状態なのかもしれない。

今、電車に乗りながら

呼吸を意識し、
感じることに集中すると、

電車の走る音、
振動、
匂い
駅のホームのアナウンス

みんなケータイを見ている

自分の目の前のOLは
巻き戻しを繰り返しながら
女子プロレスを熱心に見ている(笑)

などなど、
次々に『氣付き』が生まれてくるけど、

普段の僕なら
他の事柄に「氣」を向けているので、

それらには、いわば『氣絶』状態。
ほぼほぼ意識に上がってこないのが、
常なのだ。

向こうから「氣」が付くこともある

この3週間弱、
自分はnoteに対して
『氣絶』状態だった。

それは前回の記事でも
書いたのだけど、

「なんとなく」
そんな氣分だったという他なく、

note以外のことに
意識をむけていたからなのだけど、

じゃあ、
自分は何に意識を向けていたのかというと

「河合隼雄『で』語ろう」マガジン風に
表現するなら

▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️
自分自身の影(シャドー)に
「氣」が向いていたのだと思う。

▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️

いや、そのときは
そんなふうな認識は
全くしていなかったのだけど、

他のマガジンメンバーの
指摘や記事を読んで、

そうか、
俺は俺の影(シャドー)と
対峙していたのだ

とはっきり「氣」が付いたのだ。

そうか、自分はシャドーと闘っていたのか!

もっと言うなら、

おおかみ のみねさんが
記事にされているように、

自分の影(シャドー)の「氣」が
顕在化して、

僕に付いたのかもしれない。

「氣」は至る所に存在しているもので

僕の「氣」が
対象に「付く」ことはもちろん、

対象の「氣」が
僕に「付く」ことだってある。

少なくとも
「氣絶」ではなく、

「氣付き」の関係になったのなら、
それはご縁が生じたと言えるから、
じっくり振り返る必要がありそうだ。

#なんのはなしですか

言語化があまり上手くなくて
伝わりにくかったらごめんなさい。

次回の記事では、

なるべく、
読者の皆さんに届く言葉にして
書いてみようと思います。

影はすべての人間にあり、
ときに大きく、ときに小さく
濃淡の度合いを変化させながら付き従ってくる。

それは「もう一人の私」ともいうべき
意識下の自分と見ることができる。

影である無意識は、
しばしば意識を裏切る。

自我の意図する方向とは逆に作用し
自我との厳しい対決をせまる。

心の影の自覚は、
自分自身にとってのみならず、
人間関係においてもきわめて重要である。

河合隼雄『影の現象学』裏表紙 解説

今日はここまで。

最後までお読みいただき
ありがとうございました。
嬉しくてタコ吹いちゃいます‪(˶˙๏˙˶)♡‬


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