3.11から10年。緊急事態下の危機管理と情報発信について (3/9ニコニコ生配信 講演全文)
3月9日にニコニコ生放送で「緊急事態下の危機管理と情報発信」をテーマに講演を行いました。その全文書き起こしを公開します。映像は以下からご覧いただけます。
はじめに
きょうは立憲民主党の代表というよりも、10年前、内閣官房長官という立場であの震災、そして、原子力発電事故に対応させていただきました。その当事者としてお話をさせていただきたいと思います。あらためて、亡くなられた皆さんに哀悼の意を表しますとともに、本当に多くの皆さんが大切な人を亡くされました。今なお、その心の傷は癒やされていない、そうした方がほとんどではないかと思います。あらためてお悔やみを申し上げたいと思います。
当時は、官房長官として首相官邸で、全国と言ってもいいでしょう、いろんな所から入ってくる情報に接しながら対応に当たり、そして、長官会見で皆さんに発信をさせていただきました。至らなかった点があるのではないかと、今なお忸怩たる思いがありますし、また、もっと何かできたことはなかったかという思いは、本当に日々よみがえってくる課題であります。
一方で、しっかりと後のほうで申し上げたいと思いますが、この震災などからの復旧と復興は、いよいよここからが本格的だというふうに思っております。それをしっかりと進めていかせる。その責任がありますし、そして、多くの犠牲があった、そして、さまざまな教訓があった、それを次の災害に生かしていくことが、私に課せられた一つの大きな責任だというふうに思っております。
10年前の3月11日を振り返る
まずは、時系列で10年前の3月11日から振り返りたいと思っています。
どこであの震災に遭われたかによって、印象は違うと思いますが、発災したのは3月11日の午後2時46分。私は参議院の第1委員会室で、参議院の決算委員会というのが開かれていました。決算の審議のために、総理大臣はじめとして全ての閣僚が答弁席に座り、決算委員会が開かれ、1日中、朝9時から、NHKのテレビ中継が入った中で審議が行われていて、午後の2時46分という状況でありました。
第一印象は、私、生まれは栃木ですし、実は、東北大学の出身で、仙台に都合5年ぐらい住んでもおりましたが、私の当時の人生の中でも最大の揺れだなということを、そこでも感じました。国会議事堂は大正時代ですから、造り自体は頑丈な建物ではありましたが、部屋には大きなシャンデリアが幾つもぶら下がっていて、当時の映像を見ると、当時の菅総理は心配そうに上を見上げている映像が残っているんですが、NHKで中継されているのは分かっていましたし、あまり不安そうな顔をしてはいけないなと、そこでまず思って、でも、上のシャンデリアが気になるというような状況が、最初の印象として残っています。
実は、当時、特に東京周辺でこの地震に遭った方、記憶されている方がいるんじゃないかと思いますが、いわゆる初期微動がやたら長かったというのが私の第一印象です。初期微動というのは、地震は最初に小さな揺れが来て、それが一定期間たつと本格的に揺れ始める。その最初を初期微動といって、その初期微動が長いほど震源が遠いというのは、中学校か高校の理科の時間に習ったなというのを、実は、揺れているときに鮮明に意識したのをいまだに覚えています。東京で過去に経験したことのない揺れがあって、初期微動が長いということは、その時点ではどこが震源か分かりませんでしたから、仙台か名古屋か、あるいは、下手をすると大阪か、とんでもない揺れが起こった、
最初は東南海地震かなというような印象もあって、すぐに、委員会中ではありましたが、官房長官は危機管理の要役ということで、「私だけでも官邸に戻らせてください」と委員長にお願いをして、先に委員会室を飛び出しました。その直後、もうこの揺れでは委員会、続けられないよねというご判断だったんだと思いますが、委員会は休会になって、総理以下全ての閣僚が委員会室を離れるという状況になったんですが、私がその一歩手前で委員会を出て、危機管理センター、総理大臣官邸に戻りました。
戻る途中だったと思うんですが、東北沖が震源だということなど、初期情報は入ってまいりましたが、これは国家機密に当たらないと思いますので、言っていいと思いますが、まず最初に起こったことは、総理大臣官邸というのは3階がエントランスです。今も菅総理などが官邸に出入りする映像がニュースで流れるとき、あれは3の階エントランスなんです。上に、5階に総理執務室などがあって、1階までは平時から使うんですが、確か、記者会見の部屋は1階だったと思います。そこからエレベーターに乗って、地下深くに危機管理センターがあります。3階から官邸に入って、1階まで降りるエレベーターは平常どおり動いていたんですが、よりによって、そこからエレベーターを乗り換えて、地下に下りていくエレベーターが止まっていました。結果、2日か3日、2日ぐらい止まっていたんだと思いますが、そこから階段で駆け下りて階段で駆け上がるというのを、何回も繰り返しました。階段がどれぐらい大変だったかは、それは、多分、地下どれぐらいの深さかは、国防上も国家機密だと思いますので、そこは触れないようにしたいと思いますけれども、それが最初に起こったことです。
実は、危機管理センターは複合災害に備えていました。複合災害というのは、今回のように地震・津波と原子力発電所事故、同時に二つの危機に対応しなきゃならないというのは、実は、ハード面では準備されていました。というのも、私はその年の1月に官房長官に就任をしました。官房長官になったときに、やはり、最初に思ったのは、危機管理の要役であるということ、そして私は、阪神淡路大震災について、実は、巡り合わせなんですけども、貴重な経験をさせていただいています。当時は当選1回の若手議員、ペーペーだったわけでありますけれども、たまたま衆議院の災害対策特別委員会が現地にいち早く視察に行くという、その視察団に入ることができて、地震が起きて、阪神淡路が起きて2、3日後ぐらいの神戸と淡路島を、現地を見ることができていました。想像つかないような被害を、恐らく、被災者の皆さん以外ではかなり早い段階で直接目にしたわけです。
そして、今回の東日本大震災にも言えることなんですけど、写真や動画は、事実を映すけれども真実は伝えないということを、そのとき強く印象を受けています。つまり、阪神淡路でも、高速道路が倒れたりビルが倒れたりという映像は、行く前から見ていたわけですけれども、現地に行ってみると、テレビの画面などを通じて見が印象とは比べものにならないぐらい大きな被害というのを実感しました。
それが当選1回の時点での、私の政治家としての原体験の一つでありましたので、ああいうことが起こったときに、要役で仕事をしなきゃならないんだという意識はものすごく強く、長官就任時にあったので、私のほうから秘書官に言って、危機管理の基本的な態勢をしっかりと確認させてくれといって、地下の危機管理センターを1回見ておきました。そしたら、地下の危機管理センターというのは、ヘッドクオーター、総理が下りてくれば総理を先頭に、各省の局長級、あとは、危機管理監とか、危機対応に必要な人たちの幹部が集まって会議をする、そういう大部屋と、その隣に、事務方が、恐らく100人単位で数百人は入れるようなばかでかいフロアがあって、そこの壁にはいろんな映像が映し出されるようなでっかいモニターが壁一面にあると。それが真ん中から二つに分かれていたので、「これ、何で分かれているの」と言ったら、「いや、災害が同時に、台風が来ているときに地震が来たりとか、あり得ますから、ダブルトラックで走れるように用意してあるんです」と。「それは当然だよね」と言いながら、まさか自分が官房長官として、しかも、その時点で想像ができない地震・津波、過去最大の地震・津波と原発事故という二つのことのオペレーションに対応するとは思ってもいなかったというのが事前の状況でした。
実は、閣僚になると、危機管理はみんな意識をいたします。閣僚になった瞬間にいろんなレクチャーを受けるんですけれども、自宅に衛星通信の携帯電話を持たされます。東京で震度幾つだったらすぐに参集みたいな基準を、全部教えられます。ですので、閣僚になると、危機管理について基本的な意識は持つはずだとは思うんですけれども、そんなことがありました。
災害の教訓は、事前の備えが9割以上であるということ
さて、時系列当時に戻ると、私は地下の危機管理センターに、その時点では階段を駆け下りて入っていきましたら、危機管理監とか、官房副長官は官邸にいたので、既にそろっているところでしたが、あまり細かいディテールは、実は、正直言って覚えていません。時系列がごちゃごちゃになって、次から次へといろんなことが起こっているので、ここから先は時系列で正確に追えないんですが、地下の危機管理センターに入ったときのことだけは鮮明に覚えています。
というのも、震源の位置とかマグニチュードとか震度とか、その時点で入っている客観情報と同時に、この震源とこのマグニチュードならということで、事前の準備があったんだと思いますが、想定される死者の数が1万人という情報を伝えられました。私は東北大学の出身でもあるので、あの辺の地理は、一応、土地勘があると思うので、当然、津波が心配だと。「これ、津波、入っているんですか」と聞いたら、「いや、津波は入っていません」というのが報告でした。1万人単位の、津波を計算に入れなくても亡くなるという過去最大の災害に、官房長官として対応するのだということを、そこで最終的に直面をしたということで、実は、私自身は、そのことで一つ腹が座ったという言い方がいいのかどうか分かりませんが、これはとんでもないときの官房長官なんだなという意識を強く持ちました。
さらに、とんでもない状況なんだなということが、もう一つ鮮明に覚えているのは、最初の日の、多分、夕方4時台ぐらいだったと思うんですけれども、NHKが、宮城県の名取市閖上という地域の名取川に沿って津波が上がっていって、仙台平野を飲み込んでいく映像を生で中継していました。地下の危機管理センター、ヘッドクオーターの所にも、壁にはでっかいモニター画面があって、各社のテレビニュースなど、それから、自衛隊の飛行機やヘリコプターが飛び立てば、そこからの中継映像などが映し出されるんですが、NHKが一番こういうときは早いだろうという先入観もあり、NHKを時々ちらりと見ていたら、この名取川を遡上する津波を見まして。
実は、閖上という所は、個人的な話なんですけども、大学生のときにアルバイトをした場所で、閖上という地名自体が、今でこそ有名になりましたが、当時は誰も読めない状況だったんですが、ここで、今は世論調査を電話でやっていますけど、私が大学生の頃は面接が当たり前で、その面接の世論調査のアルバイトというのを、実は、私の割り当てが閖上地区で、あの地域、歩き回って世論調査のお願いをして、聞き取りをしていたという地域、実は、陸の側から、普通に電車などで閖上の地区に行くと、海に近い場所だなんていう印象は全然なかった。宮城県名取市閖上という地名付きでこのニュースが流れて、仙台平野の海岸の所まで、リアス式海岸とよく言われる三陸の方面が、津波、大変だろうなというのは、直感的に初めから分かっていたわけですが、大変な事態かなというのを強く感じたというのが、最初の日の印象で、そこから怒涛の時間が過ぎていったということになります。
これが初動の話でありますが、そこから、今後につながる話も含めて、時系列はちょっとばらばらになっていくかもしれませんが、話をしたいと思っているんですが、何といっても、私はこの災害の教訓は、災害に対応するには、あるいは危機に対応するには、事前の備えが何割というのは難しいですが、少なくとも9割以上であるというのは、私の強い実感です。
10年前にやり残したこと
「あの時点に戻って、ああすればよかった、こうすればよかったということはありますか」ということを、この10年の節目ということもあって、メディアの皆さん含め、聞かれるんですが、私は率直に、一番やり直したいことがあるとすれば、官房長官に就任してから2カ月ありました。2カ月あれば、その間にもっと十分な備えができたのではないだろうかというのが一番の教訓です。3月11の午後2時46分以降にできたことよりも、その前に2カ月あった中でできたこと、それが、まさかこんな災害、自分が長官として直面するとは、やはり、思っていなかったという緩みがあったのではないかと、何よりも反省するところであります。
ちょっと具体的な話をしたいと思っているんですが、まず、官邸には、あらゆる情報がいち早く入っていると、私も思っていました。阪神淡路のときは一国会議員でしたので、1回生で、その時点でもそう思っていました。今もそう思ってらっしゃる方、いると思います。違います。むしろ、官邸に入ってくる情報は遅れる。それは、普通にやったら遅れるということを、これは初日の夕方、痛切に感じました。
東京周辺の皆さんにとっては、当時、大学生とか社会人になっていた方にとっては、何よりも、あの晩は帰宅難民になられた方が大部分だったんじゃないかというふうに思います。当然、東京でも大変激しい揺れで、亡くなられた方もいたぐらいでしたし、JRはじめとして、電車が動くのかどうか。動くのであれば自宅に帰って落ち着かれたほうがいいと。だけど、電車が動かないならば、帰宅難民って、金曜日の夕方だし、大変なことになるというのは、私も、今住んでいる所、選挙区は首都圏ですし、非常に強く感じました。
しかも、危機管理センターや、当然、国土交通省の担当の局長も来ています。3回は、僕は尋ねた。「国交省、首都圏の電車は動くのか」ということを、少なくとも3回は聞きました。当時の総理大臣、『イラ菅』と言われて、よく怒鳴ると言われたんですが、私も3回目は怒鳴った記憶があります。「何でそんなことも分からないんだ」と怒鳴りました。「分かりません」という答えなんです。
かといって、帰宅難民の問題は、その日の夜の9時、10時になって分かったって意味がないわけなんで、たまたま当時のJR東日本の社長が同じ大学の先輩で、名刺交換した経験があるので、もう直電してもいいだろうと思って、忙しい中、恐縮だけど、直電しました、JRの社長に。そしたら、即答だったんです。「申し訳ありませんけど、最大限頑張っていますが、きょうは首都圏の電車は動きません」と即答だったんです。そのときは相当ムッときました。何で社長に聞いたら即答してくれる話を、この危機管理センターで何度国土交通省に尋ねても答えが上がってこないんだと。
でも、よく考えてみたら、実は、役所に関係する業界が情報を上げるというのは、間違いがあったら、後で役所からこっぴどくやられる、だから、正確な情報をきちっと上げなきゃならないと。当然、社長決裁などが要る場合も少なくないだろう。役所は役所で、例えば鉄道であれば、鉄道局が国土交通省にあって、そういった所を通じて局長に上げて、事務次官に場合によっては上げて、場合によったら大臣に上げて官邸に報告するというのは、平時の官邸と各役所と、そして、関係業界との情報のやりとりの関係であるし、平時においては、僕は、それはある意味正しいし、当然のことだと思います。その途中で間違った情報がまぎれ込んでしまったら大変なことになるわけなんですが、ただ、有事においては、それよりも瞬発的に情報が入ってくることが必要なわけですから、本当はそういう手続きを全部すっ飛ばして、官邸に直接情報が入るような仕組みにしなきゃいけないと。
私はそのJRの社長との電話の後、危機管理監などにお願いをし、首都圏の自治体などに協力を要請して、体育館とか駅のそばの学校とかを開放してもらって、帰れない人たちを、夜間、東京でもそれなりに、瓦礫等上からの落下物の心配がある中で帰らせるんじゃなくて、どこかに一晩過ごせるようにということをお願いしたんですが、もう1時間か1時間半早く、その指示が出せていればなという思いがありましたが、実は、情報がここにいると入ってこないというのを、最初の日に痛感をしました。
それから、これは特に原発事故で避難をお願いした方には大変なご苦労とご迷惑をお掛けしましたが、避難のマニュアルがないということは、実際に避難をお願いする段階で分かりました。最初は3キロお願いしました。3キロまではまあまあだと。ところが、10キロに広げなきゃならなくなりました。10キロまでが避難想定の範囲でした。その後、10キロでは足りないということで、20キロに、そして、20キロを超える。たまたま水素爆発などがあったタイミングで、風が北西方向に向いていたということで、飯館村などに避難をお願いしなきゃならなくなったわけですが、10キロを超えた所の避難の想定は全くありませんでした。
当時の伊藤さんという危機管理監、大変ご苦労をしていただいて、この間、テレビの番組で10年を振り返って、久しぶりに画面を通じて見て、お元気そうだったんでよかったんですが、そこのところで、そもそも10キロから20キロの圏内に何人住んでいるのかが分からない。さらには、そこに、10キロ以内の所も、病院とか高齢者施設の皆さんには大変なご無理をお願いすることになって、避難の土地で亡くなられた方もいらっしゃるということで、本当にじくじたる思いなんですけれども。
10キロから20キロの範囲は、そもそもそういう情報すらないという状況の中で、でも、万が一爆発が起きれば、中長期的な放射線障害ではなくて、いわゆる即死に近い状態で人の命が失われるような状況が起きるかもしれないという中では、「逃げてください」と言わざるを得ない。でも、逃げるためのマニュアルが全くないという中で、「逃げてください」というお願いをしなければならなかったというのが、あのときの状況でありました。
今も、原発の周辺地域の避難に対するマニュアルは、完全にはできていません。実際に事故が起こって、同じように突然、「10キロの範囲へ逃げてください」、「20キロの範囲へ逃げてください」といったときに、何分で、何時間で避難ができるのか、きちっとできている地域はほぼ皆無であるというふうに思っています。
あらゆる危機を想定したシステム・明確な司令塔が必要
さらに言うと、この原発事故の関連で言うと、官邸に情報が入らないというのは、大変ないら立ちになりました。当時、まず、全電源喪失した、電源が入らない、なので冷却できないとうのが、官邸に来た最初の情報でした。電源車を送ってほしいというのが東電からの要請でした。電源車をかき集めて、そして、当然原発の周辺も、地震の影響で高速道路、東北自動車などは何日も通行止めになったという状況ですから、なかなか普通の車で運ぶわけにいかないということで、危機管理監などを中心に、自衛隊などにもご協力いただいて、電源車をというようなオペレーションを、その日の夜、8時、9時ぐらいまでやっていたかと思います。
電源車が届いた、ああ、よかったと、実は一瞬ほっとした状況があったと聞いています。私は電源車の手配そのものは直接関わっていなかったんですが、同じ危機管理センターの中にいましたので、そういう情報は、当然、把握をしながら見ていましたので、私も一瞬ほっとしましたが、電源車が着いたら、プラグが合わないとか、つなぐための線がないとか、そういう話になって、電気屋さんですよね、東京電力はというような話になったと。実は、その段階で電源車を送っても、水をかぶっていたので、送電はできない状況だったというのは、後になって分かったことであります。
それから、その後、「ベントをします」と言い出しました。圧力が上がってくるので、圧力が上がるとまずいので、原子炉の中の大気を抜きます。これをベントと言うと。ベントをすると、放射性物質、そこから間違いなく出るので、これで避難の範囲を広げなきゃならない形になると。避難の範囲を広げるというお願いをし、東電さんと保安院がやりますので、早く決断してくださいという話だったので、「今からやります」と、夜中の2時か3時ぐらいだと思いますが、私自身も記者会見をしました。これは、日本で初めて、放射性物質を意図的に外に出すということですから、それは経産大臣だけでは足りないだろうということで、「すぐにやりますから、早く決断して、早く発表してください」と言われて、会見をした。
実は、その会見をしたところで初めて、官房長官室の椅子でうとうとしました。そしたら、間もなく福山副長官、今のわが党の幹事長ですが、「長官、大変です。ベントが行われていません」と。時計を見たら1時間半ぐらいたっていました。「何でできないのか、できない理由があるのか、すぐにやると言っただろう」と言っても、全くなぜできないのか官邸には伝わってこない。経産省に聞いても分からない。当時は、今の原子力規制庁じゃなくて保安院という形でしたが、保安院に聞いても分からないという話でありました。ですので、翌朝、明けたときに、その当時の菅総理がヘリコプターで被災地に行ったことについては、今もいろんなご批判をいただいています。私も止めました。私は、「政治的にたたかれますから、分かっていますか」ということで、当時の菅総理を止めましたが、誰かが行かないと分からないというのは、当時の官邸での共通した認識だったというふうに思っています。
実は、今振り返ると、その後、15日の朝だったと思いますが、菅総理などが東電本社に乗り込んでいきました。統合対策本部というのを立ち上げて、東電本社に、今、別の党に行っちゃいましたけど、当時の細野補佐官などが常駐する態勢になりました。そこでは、官邸の人間はみんな、返ってきた話を聞いてがくぜんとしました。行った人間はもっとだったと思いますが、東電の本社の対策センターには、原子力発電所の司令部、免振重要棟とテレビ電話システムで24時間つながっていました。そこは現場の情報が全部リアルタイムで入ってくる。ところが、なぜかそこで情報が止まっていたというのを、行って初めて分かりました。今思うと、もっと早い段階から、情報がどこかで止まっているという、その状況の中で、誰か東電に乗り込ませて、そこで情報を集めてこいということを判断できていたら、もうちょっと早い対応ができたのではないかという反省があります。
これについては、その後、今、全国の原子力発電所とそれを運営する電力会社の本社と、そして、今、原子力規制庁と、そして、首相官邸は、全部同じラインで、テレビ電話システムでつながるというシステムが、私が経産大臣のときに完成したのかな。全部作らせましたが、先ほどの電車の話にしても、自動的に上がってくる情報はあるんです。気象庁からは震源とか、例えば、津波警報がどうであるとか、先ほど言ったとおり、気象庁なのかどうなのか、その時点で確認しなかったんで、多分、内閣府の防災の部局でシミュレーションしているんだと思いますが、想定される亡くなられる方の数みたいな話は、自動的に上がってくるシステムがあったんです。一方で、例えば、首都圏の電車が動くのか動かないのかみたいな話について、危機管理センターに直接入ってくるという情報のラインが、平時に作られていなかった。東電、電力会社と原発とをつないでいるテレビ電話システムが、官邸などに直接入ってくるシステムはできていなかった。
こうしたものが、あらゆる危機に想定して、あらゆるラインが作られていて、平時はともかく、有事にはどこかの部局で、こんなの、上に上げて大丈夫かなとか、そういう判断を入れずに自動的に上がってくるシステム、これが必要であるというのは、私は大変大きな教訓であるというふうに思っています。加えていうと、官邸が何でも分かっているわけではないというのは、実は、菅総理が翌朝、原発に行くと言ったとき、誰かが行かなきゃいけないだろうと。一つは、原発そのものと直接話をしないと、原発の状況がどうなっているか分からない。もう一つは、地震・津波の被害についても、例えば、三陸沿岸の所で、その後、例えば、南三陸町は町長さん含めて流されて、町長さんは命を取りとめたけれども、町役場が全壊したと。それから、町長さん含めて、津波で亡くなられたという町があったりするというような状況の中で、最初の3月11日の夜は、どこでどれぐらいの被害が出ているかということを、首相官邸、総理官邸は、ほぼ全く分からない状態でありました。
例えば、気仙沼で火災がありました。これ、よく覚えています。気仙沼で火災があって、そして、その火災は老人ホームの近くだと。そして、自衛隊か海上保安庁かのヘリコプターから気仙沼上空という映像が首相官邸に入ってきます。だけど、真っ暗な所に火の手が幾つか上がっているという形だけです。さらに言えば、町役場自体が流された所は、消防とかも機能していないし、警察も現地に入れないような状況で、どこでどういう被害になっているのかというのを、夜が明ける段階では全く分かっていない状態でした。
閖上は、特にそういったことで個人的にも思い入れがあったというか、よく覚えている地名なんですが、翌日12日の朝、午前中の段階で、ご遺体が100の単位で見つかったみたいな、結果的には、それは誤報なんですけれども、それを大手テレビ局とかが流したりして、「裏取らなきゃならないけど、どうなっているんだ」みたいな話であったと。実は、分かっていて判断をしているわけではないというのが、実際に、あの官邸の中で仕事をしたものすごく強い教訓と印象です。ですので、いかに情報を集めていくのかという、上げる、自動的に上がっていくシステムが大事なんだということが、あのときの教訓であります。
二つ目に教訓として思っているのは、明確な司令塔がないと、ものごとは混乱をすると。これについては至らない点も少なからずあったと思います。事務方のトップである危機管理監と政府との間の役割分担と意思疎通が、完全ではなかったという部分もあったというふうに思っていますが、それでも、結果的に、私が司令塔をやらなきゃならないということで、いろんなものがまとまりました。
初めから地震と津波は松本防災大臣なんです。原発は海江田経産大臣と。菅さんは、彼は原子力についても基礎知識があっただけに、初めから大変深刻な事態だという強い危機感を持って、かなりそちらにのめり込み、むしろ、言葉で言ったかどうかは明確な記憶がないんですが、事実上、官房長官である私が全体を見ろというような役割分担で、当時の政権は回すことに、初日の深夜か翌日の朝ぐらいにはなっておりましたが、これは、明確な司令塔とは、官房長官、あるいは官房長官のラインでやるしかないというのが、あのときの経験です。
今のことはあんまり直接触れないほうがいいのかもしれませんが、担当大臣を置いても、そこは、司令塔としての機能は十分には果たし得ないというのは、経験として強く感じています。というのは、そもそもが、平時から官房長官をはじめとする内閣官房の役割というのは、省庁の調整をするのが仕事です。各役所ごとに、それぞれの役所の立場で仕事をしていると、いろんな所でぶつかってきて調整が必要になると。それが省庁間でうまくいかなくなってくると、内閣官房長官のもとで、内閣官房が中心になって調整をして、全体としての統一性を保つようにするというのが官房長官の最大の仕事だと思っています。普段からその仕事を担っている部局ですので、官房長官の秘書官とか、それから、総理官邸に平時からいる事務スタッフ、これ、各役所からエース級が官邸には来ているわけですけれども、そうした皆さんをはじめとして、普段からそういう立場で省庁間の調整をするのが自分たちの仕事なんだという意識を、かなり強く持って、しかもチームが来上がっています。それのチームでやらないと、なかなか省庁間の調整はうまくいきません。かなり意識して、これは官房長官の所でやるしかないというつもりでやったんですが、事後的に検証していくと、十分に調整がしきれていなかった所が、多々あったというのは間違いないと反省をしているし、官邸がその役割を担わなければ機能しないというのは強く感じています。
計画停電と避難所への支援について
あまり知られていない話を2、3点しようと思っていますが、例えば、首都圏の皆さんは、震災の記憶で思い出されるのは、計画停電というのがあったと思います。これ、14日月曜日の朝からやることになっていました。実は、14日の朝から計画停電をやると言ったのに、14日の昼まで、実際には関東エリア、東電エリア、全部電力が通っていました、地震の被害を受けた地域を除いて。つまり、計画停電の停電は行われませんでした。
というのは、東京電力さんと経産省保安院は、「電力が足りなくなりそうなので計画停電をやります」ということで官邸に報告が来ました。「ちょっと待ってくれ」と私は言いました。人工呼吸器をはじめとして、電力が突然止まったら亡くなる人がいます。ましてや、計画停電、朝一から始めたら、寝ている間にそうしたものが止まって亡くなる人が出てくると。そしたら、「落雷で電気が止まることもあります」とか、いろんな言い訳があったんですが、いや、落雷は自然現象で、そのことによってそうした装置が止まって亡くなる方はいるかもしれないけれども、これは意図的に電力を止めるんだと。意図的に電力を止めることによって亡くなる人がいるなら、それは殺人だと。従って、「そんなことできるか」という話になりました。さらに言うと、計画停電をやりますとなったときに、例えば、金曜日に震災で、週末を挟んで月曜日、みんなが銀行に行ってお金を下ろしたくなる。銀行のお金を引き出すシステム、これ、電力が止まったら全部止まりますという話になります。
計画停電を無計画に行うと何が起こるかというと、JRは独自の発電システム、送電システムを持っているようですが、民間の鉄道会社の多くは、やっぱり東電の電力を使っています。そこの送る変電所のエリアは止まるけれども、だけど、踏切は起こらないとか、逆が起こったら一番大変なことになる。電車が動く電力は供給されるけど、踏切を動かす電力供給システムは止まるというようなことが起こったら、踏切は下りずに電車は走るというようなことが起こりかねない。そういったこと全部確認しているのかと。確認できていないのに、電力を人為的に止めたら、それは大変なことが起こるぞという話になります。
簡単な話なら、省庁間の横の連絡でできます。「止めるので、何とか頼むね」、例えば、「金融庁さん、頼むね、銀行システムは」と、「国交省さん、電車、頼むね」という話になりますが、それは金融システムを扱っている金融庁からすれば、「地震が起こって最初の週明け、銀行の稼働日に、朝、銀行に行ったら、終わっています、閉まっていますというのはたまりません。そんなもの、できません」という話になるし、鉄道会社は、「いろいろとチェックするのに、何とか時間ください」という話になるし、何よりも、厚生労働省は、「人工呼吸器などを使っていて、突然電気が止まったら命に関わるような所、全部連絡するには、翌日の昼ぐらいまでは時間ください」というような話になりました。そうすると、東電さんと経産省のラインには、電気を止めるのは待てと。電気を止めるのを待つと、じゃあ、みんなが電力を使い過ぎて、ブラックアウトも起きてしまうかもしれないというような総合調整は、経産省には担いきれないということで、私の所でやりました。
結果的に、大口の皆さんに、個別の事情をお話しして、その日の午前中は電力の使用をおやめいただくと、安全確認の面も含めて、電車はかなり止めていただくと、これで、どこも計画停電をしなくても電力が落ちることはないという条件をつくったうえで、全ての人工呼吸器等を使っている皆さんに、全部個別に連絡を取った。これは、厚生労働省、本当に真剣によくやってくれました。ということがあったので、計画停電の時間帯になりました、計画停電はやります、でも、実際に電力が止まるかどうかは分かりませんという、非常に分かりにくい会見を、でも、うそは言っちゃいけないということで、分かりにくい会見をしてそれを言ったというのが、13日の夜から14日の朝にかけてありました。
それから、実は、避難所に物資が届かない、避難所は生活が成り立たないという話が、もう2日目、3日目ぐらいからがんがん入ってきました。大変な広いエリアで、大変な状況が起こっているという中では、やっぱり、これは省庁横断的にチームを組ませて、物資を集める。物資といっても、食べ物から日用品から、いろいろあると省庁をまたがる。それと、輸送をさせる、運搬をさせる、それは自衛隊なども絡んでくる、自治体にも協力させる、いろんな話をやるとなると、省庁横断的な生活者支援チームというのを立ち上げました。ここは、内閣官房に、私の前任の官房長官だった仙谷さんに、今度は副長官で入ってもらって、仕事をしてくれた。これで、実は、ようやく避難所に物が届けられるシステムが作られました。これは、幸いなことに、その後の安倍政権のもとでも維持されていますので、実は、こういう物資の輸送は、あの東日本大震災をきかっけに、かなり良くなっているというふうに思っています。
官房長官としてどう情報発信をすべきか
もう一つ、当時、ずっと会見をやっていましたが、政府としての重要な発信を、私が一手に担うというのは、かなり早い段階で意識をしました。というのは、国民の皆さんにとっても未曾有の経験であって、政府が何を考えているのか、政府からどういう発信があるのか、固唾を飲んで見守っていただいている状況でした。そういう状況のところで、政府としての発信がばらばらになってはいけない。ばらばらになったとしたら止められません。細かい点まで言ったら、官房長官が全部把握して、全部発信することは不可能です。でも、大事なことは、首相官邸からは、できれば総理が発信するのが一番いいと。でも、総理に全部担わせるといったら、今度、総理の機能が果たせなくなるので、それはまさに官房長官の仕事だということで、私が大事な発信は全部まとめてやると。それを補填、補充するような形で、細かいこと、具体的なことは各省から発進してくれという、こういう整備を、どこかで明示的に決めたわけではなくて、自然体としてつくられました。私の中ではかなり意識をしていました。
そのときの情報発信の仕方なんですけれども、これは危機管理に共通する話だと思っていますが、これは、その後、いろんなご指摘をいただいているんですが、少なくとも私の所に入っていた情報で、私の所で情報発信を止めた、あるいは、私の所から情報発信を止めるというような指示は一切していません。むしろ、「後になって、隠していたと言われると困るから、絶対に隠すなよ。全部出すものは出すんだぞ」ということは、何度か言っていました。
先ほど言ったとおり、最初に1万規模の過去にないような災害で、原発事故も途中で加わってきて、過去にないようなネガティブな発信を私はする仕事になったということを強く意識しました。下手をすると、国民の皆さんがパニックを起こすかもしれない。でも、情報を隠したら、後で隠したと言われて、それは政治的にももたないし、許されることではないという状況の中で、私の考えたことは、実は、今日もますます早口になっているかもしれませんが、私、基本的には早口が弱点です。演説などのときも、「きょうは早口だったね。もうちょっとゆっくりしゃべらないと、高齢者、聞き取れないよ」とか、よく怒られます。
あのときだけは、とにかくゆっくりしゃべろう、ゆっくりしゃべらなければ、一節ごとに間を取る。とにかく、落ち着いてしゃべっている姿を見せるしかないと。それから、落ち着いた態度で話すしかないと。そして、できれば低い声で話すこと。私、地声は、本当はトップテノールなんですけど、このときだけは、とにかくできるだけ低い声でしゃべるということを、かなり強く意識しました。
つまり、発信する内容をコントロールできない以上は、国民の皆さんは発信者を見て、その態度や声や話し方と発信されている内容とを合わせて受け止めて、場合によってはパニックを起こすかもしれない、あるいは、絶望の淵に落とされるかもしれないから。そのことを避けるためにできることは、話し方と話す態度だということは、かなり強く意識させていただきました。私は、そのこと自体はそれなりにうまくいったのではないかというふうに思っています。
これは危機管理のときの一つの大きなポイントだと思います。事後的には、本当は、各国に結構あるように、政府の報道官、スポークスマンというのをきちっと位置付けて、官房長からいちいちやらなくても、専門的なトレーニングを受けた広報官がそういったことをやるべきだと、今もそう思うんですが、簡単じゃありません。なぜならば、全ての情報を共有できている、その人間が発信しないと、発信者として説得力がない。まして、危機管理以外のとき、平時においては、政治的判断力も含めて持っていないと、政府を代表して聞かれても、それは答えられないという話に終わってしまうと。政治的に権限とポジションを持っている人間がやらないといけないということと、本当は、トレーニングをされた、今のような視点で、しっかりと、パニックを抑えられる話し方ができるという、そういう人間が、一人の人間が両立することが本当は望ましいんだけど、これが、実は、意外と答えが出ていません。
3.11の経験から学んだこと
余談的な話を少し挟んだうえで、学んだものという話をしていきたいと思いますけれども、最近、菅総理が総理官邸の隣に総理公邸、官邸が事務スタッフ、事務のスペース、隣に首相公邸という総理が住める場所があります。そこに安倍さん、菅さんは入らない、住まないということで問題になっていますが、実は、あの敷地の中には官房長官の公邸もあります。官房長官が寝泊まりできるスペースがあります。実は、官房長官に就任したときに、こういう所がありますと案内だけされて、え、何で使えないの、ここは。どうせ宿舎暮らしだし、子どもらうるさいし、まだその頃幼稚園だったから、だから、「ここ、入ってもいいよ」と言ったら、「いや、それは維持に金かかるから、総理が公邸に入っているんだから、あなたは入らなくていいです」って言われました、事務方に、官邸の。
ところが、3.11から10日ぐらい官邸の中で暮らしていました。ちなみに、官邸の中では、シャワールームがあります。ですから、シャワーは浴びられましたが、着替えは持ってこさせるみたいな形で、最初の2、3日は、ほとんど椅子に座ってうとうとする。途中からソファに横になることはできましたが、ソファに横になるのがぎりぎりという生活が、さすがに1週間続いていると、「そろそろもたないから」と言われて、「こういうときのために官房長官公邸があるんです」と言われて、官房長官公邸に約1カ月、入りました。実は、もうひと段落、ある程度緊急に事態が悪化するみたいなことはないだろうということで、4月の上旬、3月の下旬ぐらいに、議員宿舎に戻りました。そしたら、一番大きい余震が夜中の0時頃に起こった日です。慌てて官邸に駆け込むということがありました。
間違いなく、せめて総理が首相公邸に住まないなら、だったら、その分、官房長官が首相公邸に住んでおくべきだと思います。やはりそれは、何か突発的なことが起こったときに、それは3.11のときもそうでしたが、政治的に重たい最終判断を事務方にさせてはいけないと、私は思います。それは危機管理監であろうと、事務の官房副長官であろうと、それは、大事な重い決断をしなきゃならないときは、最後はせめて官房長官、政治がやらなければならない。それこそ政治の責任だと思います。
それは、実際に私が4月の上旬の一番大きい余震のときに、当時は、総理はその時点では首相公邸にいたわけですが、官房長官として、宿舎から官邸に戻るときの焦燥感、焦りとかというものは、そのとき、大きな被害が出なかったからよかったようなものの、非常に痛感をしていますので、どちらかが、やっぱり、入っていないと、私は危機管理としては、いけないだろうというふうに思っています。
直面する原発制御不能への恐怖と決意
原発の話は1点だけ、質問でも出そうなので。最近、Eテレで最悪の事態という検証番組をやって、実は私も知らなかったことが、そこで、ああ、そうだったんだということがあるんですが、原子力発電所というのは、ある時点から制御不能になるというのが、あのとき、共通していた危機でした。それが、東電が、対処させる、させないというような騒動が起こった、14日の夜からかな、という話になるわけですが。
それは、ある段階を越えて、第1原発から退避しなきゃならない状況になるというのは、ある段階、放射線量を越えれば、地下に近寄れば即死するという状況になるわけですから、近づけなくなる。ある段階から近づけなくなれば、給水ができなくなる。吸水ができなくなれば、そこにある放射性物質は全部、いずれメルトダウンして放射性物質をまき散らすということになる。第1原発がある段階を越えてしまったら、もう止められなくなるし、第1原発がそうなったら、間違いなく、その時点では健全に冷却ができていた第2原発も同じ状況に、時間の問題だけで、そうなる。第2原発までなれば、東海村もそうなる。少なくともここまでは、ある原子力発電所が制御不能になって、そこに冷却するための人が近づけない状況になれば、連鎖的に誰も止められないという状況が起こるというのは、それはある段階でみんな分かる話で、こういうリスクのあるものを、そのリスクを抱えたままで使いこなすのは、私は無理だというのを、あのときに明確に感じました。
じゃあ、何で大飯原発を再稼働したんだと。実は、あの時点では、電力が足りないと、少なくとも経産大臣である私の所には、本当かとかなり疑いの目でチェックをしましたが、そういう情報でありました。ブラックアウトが突然、大阪で、関西圏で起きて、ブラックアウトが起きると何が起こるのかというと、北海道で胆振東部地震のときに起きました。コントロールが利かない状態で、電力が足りなくなってブラックアウトが起きると、回復にも相当な時間がかかって、関西圏が、数日、電力が全く供給できないという状況を、人為的につくってしまうことになると。それは、そのことによる命のリスクもあるし、そのことによって、原発は要らない、もうやめようという動きが、むしろ後退をする、やっぱり原発は要るんじゃないかということになってしまうのではないかということの中で、本当に苦渋の選択をせざるを得ませんでした。これ、ある程度稼働すると、また定期検査に入るので、止まったときは、正直言ってほっとしました、私自身は。ただ、ぜひ皆さんに知っておいていただきたいのは、原子力発電所は止めていても危険です。原子力発電所は稼働しなければ安全になるというわけでは、全くありません。
福島第1原発も、4号機が一番最後、心配になりました。4号機に使用済み燃料のプールがあって、そこが空だきになったらもうどうにもならない。たまたま天井が開いて、水も残ってて、上から水を入れることによって空だきにならないで済んだので、今、こういう状況ですが、停止している原発でも、同じように、冷却のない状況が長く続けば同じような事故になる。ですので、原子力発電所をやめる、このリスクから逃れるということのためには、止めることは大事なことです。稼働していることよりは、止めていくほうがリスクは下がりますから。でも、止めるだけでは意味がないんです。安全に長期保管できる状況までつくって初めて、原発をやめたということになると。私はそこまでしっかり責任を持ってやっていかなきゃいけないと思っています。
ちなみに、もはやブラックアウトのリスクはなくなったと思っています。北海道の胆振東部地震のときにブラックアウトが起きたのは、これは本当に私も忸怩たる思いなんですが、北海道は本州と、つまり、他の電力会社と、津軽海峡に北本連携線というのがつながっているんですが、これが細いと。つまり、北海道が電力、足りないときには、なかなか本州から持っていけないと。これはリスクだから太くしようという話は、私が経産大臣のときに決めていたはずなんですが、胆振東部地震の段階でもう6年、7年たったはずなんですが、まだ出来上がっていなかった。実は、あの半年後ぐらいに完成をしてというはずだったと。これが完成したので、北海道にブラックアウトは、よほど電力供給のマネジメントを間違えない限りは起きません。全国的に今の電力供給量は足りています。今後、ますます、家を断熱化するなどどんどん進めていけば、省エネルギーも進んでいきます。まだまだ省エネルギー、特に民間部門に余地があります。
従って、電力不足はもう生じませんので、電力のブラックアウトのリスクのために原発を使わなきゃならないということは、基本的には考えられないということで、原発をやめていくということは、非常にやりやすい状態になっていると。
とはいいながら、「やあめた」という話ではないと。「やあめた」と言ってから、稼働しないけど、じゃあ、使用済み核燃料をどうするのという、ものすごい大変な問題と、私は恐らく、100年単位で付き合っていかなければならないという問題に、私はあの危機を、ひと事ではなく、二度にわたって、一つは3.11直後に、そして、ブラックアウトのリスクの中で大飯を再稼働せざるを得なかったという立場で、二度、あの恐怖を感じた立場として、もう絶対に同じような恐怖を、自分の後任者であったり、あるいは、原発立地の周辺に住んでいるどなたかに味わわせてはいけないというふうに思っています。
今後の災害への備えはどうあるべきか
今後の災害への備えということなんですが、いろんなことで、ミクロでは進んできたことがあります。それから、当時も頑張ってくれた内閣府の防災担当部局は、その後も非常に頑張ってくれています。先ほど言った生活支援のための物資を、避難所に、必要なものを適切に届けるとか、こうした初動の生活を支えるシステムなどは、きちっと引き継いでやってくれています。ただ、残念ながら、出来上がっているのはミクロの対応だと思っています。私は、やはり危機管理庁的なものをちゃんとつくって、今の内閣府防災部局を、多分、人員的には2桁ぐらい増やして。2桁ぐらい役人を増やすということの意味は、実は、その役所の専従の専門家を養成できるということが大きいです。
内閣府の中で、結構、防災部局にいる人間は、10年前に会ったねという人が今も、いろんな災害でヒアリングすると、来てくれていてはいますが、やっぱり、防災の専門家を相当程度政府の中に持っていないと、なかなか対応できませんし、それから、防災部局は相当な余力を持っていないとできません。本当に内閣府の防災部局は、次から次へと起きる、東日本大震災と比べれば小さいけれども、当事者の皆さんにとっては命に関わるような災害が、水害であれ雪害であれ、いろんな所に起きているという状況の中では、日々、疲弊しまくっています。次から次へと起きている。従って、あの教訓を生かして、大きなシステムとして、どこをどう大きく変えるんだみたいなことを十分にやる余力は、残念ながら、僕は持っていないと思っています。
三つ、四つぐらいのチームがあって、目の前の災害に対応していないチームは、常に新しい事態に備えたシミュレーションをして、それを国民とも共有して、どんどんそれを実行していくという、かなり省庁横断的な強いチームをつくっておかないと間に合わないと。政権を取ったらすぐにでもやろうと思っていますが、それでも間に合わないかもしれません。首都直下地震は5分後に来るかもしれない。東南海地震は明日来るかもしれない。そのときには間に合わない。間に合わないけれども、できることを最大限やっておかないと、一つには、この災害で亡くなられた皆さんに顔向けができないと思っていますし、あの経験をした人間として、できることは、やりきれないにしても、最大限やっておくということが大事だと思っています。
さらに言うと、実は、政府が直接やれることをもっと増やしておいたほうがいいと、私は思っています。東日本のときも、町役場ごと、事実上、流されてしまった所がたくさん出ています。恐らく、首都直下のときに、区役所とかが機能するかどうかっていうのは、かなり疑問です。東京自体が、半年、1年、機能不全に陥る可能性があります。そのときに、自治体がどれぐらい機能するのか、あるいは、東南海地震で津波が来たときに、沿岸部の自治体が機能するのかということを考えると、それは政府が今の、場合によっては平時の災害については、市町村がやっているような役割のかなりの部分を代行できるようなチームを持っていないと、実際に東南海とか首都直下みたいなレベルの災害のときには、私は対応できないんじゃないかと。
あえて言うと、それに匹敵するような災害に、今、日本は見舞われているわけです。COVID-19という感染症という災害に見舞われているわけでありますけれども、やはり、自治体によって、あまりの感染者の数の多さに、保健所が回らなくて、感染ルートを追えないみたいなことが現に生じているわけで、こうした感染症対策なども含めて、国が、自治体が機能しないときに補完するチームというのをしっかりと持っておくことが必要ではないだろうかというふうに思っています。
最後に、最初にもちょっと申し上げましたが、明後日で東日本大震災から10年ということになります。10年ひと昔という言葉もあって、ハードはそれなりにできてきたよねという報道もたくさん流れるし、私もそれは言っています。ただ、復旧・復興はここからが本物だと思っています。実際に、壊れてしまったコミュニティーは復元できていない。それから、戻りたくても戻れない。なぜならば、そこに働く場所がない、なりわいがない。そこに住んでいる皆さんを相手に仕事をしていた仕事、例えば、美容院とか理髪店とか、あるいは小売店とか、そういう所も、周りの皆さんが戻ってこなければ、お客さんがいないのでなかなか商売が成り立たないと。でも、本当に復旧・復興といったら、もちろん、もう戻らなくていいよと、10年たっていますから、そういう人もいるでしょう。だけれども、戻りたいという人が戻れる状況をつくって初めて復旧・復興だというふうに、私は思いますし、多くの被災者の皆さんの望んでいることは、そういうことではないのかと。
そうすると、戻るための土地はできた。戻って、また同じような津波が来たときに逃げるための道路はできた。非常に、もともと不利地域であったから、過疎化と人口減少、高齢化が進んでいた所は、いろんな意味で、交通のアクセスが良くなって、人が住み続けやすい状況はつくられたという土台ができて、入り口に立っただけだと、私は思っています。ここから、そこに人が住む、希望すれば住めるというなりわいやコミュニティーを復活させるというのは、むしろ、この10年目から本格的なスタートだと。ましてや、福島の場合は帰れない地域もまだたくさんあるということで、ここから、むしろ始まると。むしろこの10年は助走であって、ここから本格的な復旧・復興のスタートなんだと、私はそういう思いでおります。
残念ながら、私は実際に被害に遭われた皆さんからすれば、「おまえだってひとごとだろう」とお叱りを受けるかもしれませんが、最初に申したとおり、大学が宮城仙台の東北大学で、被災地は非常に私の青春を過ごした場所、閖上は先ほど言ったとおりですし、三陸とか福島の海岸とかも、よく遊びに行きました。そして、官房長官として、あの情報がなかなか入らないとはいいながら、そのさまざまな情報が集まってくる場所で、それに直接には何もできない、そういう歯がゆい思いをしてきたという意味では、準当事者のつもりでいます。
私自身、その後1週間の間を置いて、経産大臣というのを図らずもやることになって、2012年の12月に下野して、無役になって、野党の国会議員になったときに、実は、既にその時点では、東京を含めて被災地以外はひとごとになっていないかということを感じてきました。そして、そこから8年、9年、どんどんひとごと感が強まっているのではないかということを、強く危惧をしています。
しかし、まだ4万人の方が避難生活をされているということ、これからが本格的な復旧・復興だということ、そして、間違いなく、首都直下地震はいずれ来ます。東南海地震も間違いなくいずれ来ます。そして、そうした災害ではなくても、豪雪であったり豪雨とかという災害は、日本中、どこで起きてもおかしくないという状況が、今も生じています。
そうした意味では、多くの犠牲のもとで、多くの皆さんが、今なお苦労されているという、この東日本大震災と原発事故という教訓は、ひとごとではない、自分ごととして多くの皆さんに感じていただければということを申し上げて、質疑応答も、私のほうは時間、十分に、この後、ありますので。すみません、とっくに質疑応答が終わっている時間まで話してしまいました。ありがとうございます。