「トイ・ストーリー」の音楽を担当したランディ・ニューマンの音楽製作現場を覗くことができたわけ=英語やっててよかったシリーズ(その2)=
英語をやってて楽しかったことが全くなかったわけじゃない
高校教師としては楽しかったな。自分が知らないことを学んで伝えることが楽しかったから。なにより高校生らが楽しかったし…。
じゃ英語教師としてはどうだったのか。
これは何度も言うことになるけれど、英語でのアウトプットって、日本国内で、そもそも必要なのか。それに、これも何度も言うことになると思うけれど、日本語との言語的な違いがあまりにも大きいから、簡単に英語はモノになってくれない…。長年英語教師をやってきたけれど、気分的には晴れることなく、もやもや感の毎日だった。
それでも、英語をやってて楽しかったことが全くなかったわけじゃない。英語をやっててよかったと感じた数少ない経験を書き残しておくのも自分の精神衛生上いいことかもしれない。
ということで、「英語をやっててよかった」シリーズです。
ランディ・ニューマンって何者ですか
ランディ・ニューマンと言われても、いまの高校生は「誰それ」という感じだろう。
でも、彼がピクサー・アニメ映画の音楽担当者であると言われれば、ああそれな、となるだろう。マニアックなアニメファンの高校生なら、「トーイ・ストーリー」の大ヒット曲「君は友達」("You've Got a Friend in Me")を聞いたことがあるかもしれない。(ないか。30年も昔のことだからね)
野球部の生徒なら、近年の大谷翔平選手の活躍とともに、ドジャーズがホーム球場で勝利したときに流される「ロサンゼルス大好きさ」(“I Love L.A.”)を聞いたことがあるかもしれない。これもランディ・ニューマンがつくった歌なのだけれど、ただ、作者が誰なんて気にする人はあまりいませんね。
毒も皮肉もたっぷり入った歌をつくっていたシンガー・ソングライター
さて、いまどきの高校生がさらに確実に知らないことは、よい歌だが能天気ともいえる「君は友達」を書いたランディ・ニューマンが、実は、毒も皮肉もたっぷりと入った歌をつくっていたシンガーソングライターだったということ。これはもう大昔の、1960年代から1970年代のことだ。
そんなランディ・ニューマンが、ディズニー系のアニメ映画の歌をつくるなんて、びっくり。当時、これは転向だ、変質だと、コアなファンが怒っていたくらいなのだ。
ちなみに、“I Love L.A.”にも、ランディらしくちょっぴりだけ皮肉と毒があるのだけれど、そんなことはロサンゼルス市民も含めて誰も気にせず「ロサンゼルス、大好きだ」と唱和しているに違いない。
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高校生の頃から洋楽好きだった私は、1970年代のランディ・ニューマンのレコードなんかも収集していた。彼の歌詞は、単語が比較的簡単なわりに、毒も皮肉も含まれているため、メッセージがつかめない歌もある。語彙よりも皮肉そのものに眼を向けないと理解できない歌なのだ。
「燃えろよ、大いなる河、燃えよ」(“Burn On”)という歌の意味
1981年から1982年にかけて、職場の研修制度で、初めての外国滞在として、アメリカ合州国はサンフランシスコで私は英語集中講座を受けていた。あるパーティで、ランディ・ニューマンの「燃えよ」(“Burn On”)という歌についてよくわからない歌なんだと私から話題にしたとき、フランス人のクラスメートの彼女であるアメリカ人女性から「あなたがわからないのも無理もないわ(これはクリーヴランドの川の公害の歌なのだから)」と聞いて、腰を抜かしたことがある。
パソコン通信をつかった海外交流
この研修後、世間知らずで無謀にもグレイハウンドバスで合州国をひとりで周遊し、帰国したときは、自分自身、取り憑かれたように英語と格闘したけれど、年月が経てば、「日本で英語を一生懸命やってもね、日本じゃ必要ないしね」と動機も目的も自然と薄れてきていたのだが、あのパソコン通信黎明期に、時差のある日米間でも、メールを送信後に眠りにつけば朝方には返信が到着しているという世界になっていて、私はパソコン通信の虜になった。電子メールに夢中になって、「日本じゃ必要ないしね」なんて悠長なことは言っていられなくなり、パソ通を教育にいかす学会に入ったり、横浜の小学生とテキサスの小学生のパソ通の仲介役を、勤務校で顧問をしていた英語部に、ボランティアで訳させる取り組みを始めていた。1992年には、こうしたパソ通で知り合いになったアメリカ合州国の小中高の電子メール友人たちの先生方を訪ねる西部周遊自動車旅行を敢行したのも、パソコン通信で英語を書く力が向上したおかげだった。
これがパソコン通信の威力を証明した一度目の旅だった。
ところが、ようやく世間が追いついてインターネットが普及する1993年から2001年までは、職場で主任の名のつく部署ばかりをやらざるをえなかったため、電子メールによる交流どころではなくなってしまった。
ランディ・ニューマンのファンが集うメーリングリストで質問を連発する
2002年に、昔からランディ・ニューマンのファンだった私が、ファンによるメーリングリストに出会い、すぐに参加して、コアなファンが集まる大量のメールの渦の中で、ランディ・ニューマンの簡単そうでいて難しい歌詞について休みなく質問をし始めたのは自分にとって必然だった。次から次へとこんな質問をする奴は誰なんだと掲示板の「裏」で話題となり、「日本から」と書いてきているが、「カンザス州在住の仲間がふざけて日本をかたって書いているんじゃないの」と、「奴ならやりそうだ」と、当初オフラインミーティングで話題になったと後日談で聞いた。それが、「どうやら騙りじゃないらしい」、「メールに文字化けがあるから」という笑い話のような話も聞いた。けれども、日本から必死にメールを書き込んでいた私にとっては、勤務をしながら、大量のメールの流れを読まないといけなかったから、まさに暗闇のトンネルを懐中電灯だけで歩いているような感じで掲示板に参加していたのであった。
ロサンゼルスのレコーディングセッションへのお誘いをニュージーランドで受ける
そんな交流が2年ほど続いた頃に、メーリングリストの中心人物の一人であるロサンゼルス在住の女性から、2004年11月にランディ・ニューマンの映画音楽のレコーディングセッションがあるんだけど参加しませんかとのメールをいただいた。そのメールを私はニュージーランド北島のハミルトンで受けた。二度目の海外研修中で、応用言語学やCALL(コンピュータを利用した言語学習)や初級マオリ語を学んでいるところだった。2001年のアメリカ同時多発テロを持ち出すまでもなく、アメリカの治安は心配だったし、自分の心の中でも合州国にたいする好意的なイメージも年々縮小してしまっていて、また南半球のニュージーランドからロサンゼルスまでの距離を考えると、折角のお誘いだったが、今回はお断りしようと考えていた。けれども、ゲストルームに泊まることも可能ですと彼女の熱心なお誘いに、そこまで言われるのであればと、22年ぶりにアメリカ合州国再訪をしてみる気持ちへと肩を押された。実際、ソニー・ピクチャーズ・スタジオという映画音楽製作現場でオーケストラを指揮するランディ・ニューマンの仕事場をこの眼で覗けるなんて、一生に一度あるかないかのことでしょう。
メーリングリストがいかに有効であるのか証明する旅となった合州国再訪の旅
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繰り返しになるけれど、今回アメリカ合州国で実際に出会ったアメリカ人たちとは、共通の音楽趣味を通じて、2002年から交流を開始した人たちだ。
それで今回の旅は、インターネットのメーリングリストがいかに有効であるのか、再度証明する旅となった。
今回の旅を振り返ってみると、全くの無計画にもかかわらず16日間の素晴らしい旅ができたことは、すべて合州国の知人・友人たちのおかげに他ならない。実際、こんな無計画な旅を私は今までしたことがないのだが、「衝動的な行動は、ときに最高の方針である」と、今回知り合いになったアメリカ人男性が掲示板に書いてくれた。
突然の私のLA訪問については、掲示板でも、驚きやら歓迎やら、いろいろと書いてくれた。
掲示板には日本に出張した経験のあるアメリカ人もいて、日本の看板がわからなくて困ったという経験談を伝えてくれた。私にとってもアメリカ合州国は外国である。LA到着時の当惑を私はユーモアをまじえて書いて掲示板にアップしたのだが、その私のメッセージを興味深く読んでくれた女性がいて、名前からして日系アメリカ人だと思うが、「自分の知っている日本語はたったの三語だ」と面白可笑しく書いてくれた彼女は、「挑戦的で、たいへん面白く読ませていただきました。もし私が日本に到着したら、あなたと同じようにうまく対応できるか全く自信がありません」と書いてくれた。
オンラインとオフラインを組み合わせてこそ交流が深まる
パーティで実際にお会いしてから、「突風」と私のことを評してくれたミュージシャンのドクター・ジョンが好きな男性。「掲示板で、そうであるように、彼はあらゆる点で個人的に興味深い人物」と、私のことを評価してくれたアメリカ人男性。彼の高台の家にも行ったが、クラッシックカーを何台も所有している大金持ちだった。「彼の英語は、驚異的に(phenomenally)素晴らしく、理解しやすい」と評価してくれたユダヤ系アメリカ人女性。私の「名前を発音するのに3回はどじった」と書いてくれたパーティで会ったカリフォルニア在住の男性。他にも、私について「合州国について興味深い視点をもっている」とか、「あなたの合州国に関するレポートは素晴らしい」とか。「英語はあまりできないのです」と書いた私のメッセージにたいして、「心配しなくていいですよ……あなたは私たちの母語を使うのが私がどんなに努力しても及ばないほど上手です!」(And don't worry about keeping up... you are far more eloquent in OUR native tongue than I could ever hope to be!) と書いてくれるアメリカ人女性もいた。アメリカ人は人をほめるのが上手だ。
ランディ・ニューマンは、とてもひねくれた歌詞を書くのだけれど、そうした彼の音楽のファンである巨大消費大国に住む彼ら彼女らは、たいへん恵まれた人たちでもあり、私は何度も食事をおごってもらったり、パーティに呼んでもらった。おごられっぱなしが気分的に嫌いな私は、「この場で全ての支払いをさせてもらえる栄誉ある立場を私に与えてもらえないでしょうか」というような回りくどい表現を何度も使わざるをえなかった。大抵は、「一人に払わすなんて、そりゃフェアじゃない」と却下されることがしばしばで、逆に、「今日は俺がおごるから」と言い出す人がいたりして、そんなときは、他のアメリカ人たちが即座に「ご馳走になります」と言うものだから、結局私はよくおごられてしまうこととなった。それでまた、「この場で全ての支払いをさせてもらえる栄誉ある立場を私に与えてもらえないでしょうか」とまわりくどく私が言うと、奇跡的に許されるときがあって、そんなときは、「じゃあ、チップ代だけね。あとは私が払う」というような展開になるのだった。
おもてなしへのお礼も、電子掲示板上でする他ない
それで、彼らのもてなしに対して私ができることといったら、掲示板にメッセージを書くことくらいだから、私は、掲示板にレポート報告をせっせと何度も書かざるをえなかった。
私がどんなメッセージを掲示板に書いたかというと、フランス系アメリカ人とは、パーティで交流し、フランスにバカンスに行くならここに行けとか、ディランの復活コンサートを実際に見た話とか、フランス人歌手のジャック・ブレルを私が持ち出すと、ジャック・ブレルを知ってるなんてと感心された。彼に誘われて一緒にマンハッタンビーチを散歩したけれど、足の遅くない私に、歩くのが遅いと彼が終始文句を言うので、彼のことを、ふざけて’a mean bastard’(「本当に嫌な奴」)と掲示板に書いたら、かなり受けた。これも実際に顔を見て、それなりの信頼関係がなければ、そこまで書けないし、彼らの調子に合わせてのことである。
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なんといっても、高級住宅地であるマンハッタンビーチの彼女の豪邸のゲストルームに何日も居候させてくれた今回の旅の仲介者である彼女に感謝を述べないわけにはいかない。わたしは、「サザンホスピタリティ(南部のもてなし)というコトバはアメリカ英語で聞いたことがあるけれど、カリフォルニアホスピタリティ(カリフォルニアのもてなし)というコトバは聞いたことがない。けれども、絶対に、この表現をつくるべきだ」と、お礼を述べる意味で掲示板に書いた。すると、ある女性が「カリフォルニアホスピタリティの中でも、彼女は特別で最高」と、彼女のことを評してくれた。
英語を話す力も大切かもしれないが、むしろ英語を書く力ではないのか
さて、私がつらつら述べてきたことは、これは自慢話がしたくて書いているのではない。
言いたいことは、第一に、日本では、話す力より書く力のほうが重要なのではないかということ。第二に、大量に読んで、自分も書く機会を増やすこと。掲示板のような、そうした言語環境に自分を置くことが大事だということ。第三に、話すことに限っていえば、日本では、そうした言語環境は、身の回りでは、実際ないし、必要もないのではないかということだ。
インターネットも気をつけないといけない、要は使いようだ
掲示板に書かれることは、しばしばお世辞にもなるし、それどころか悪口になることもある。実際、この掲示板でも、結構人間関係は複雑で、能天気に楽しいばかりではない。その点では、実際の生活と変わりない。そもそもインターネットなんて基本的に信用できないところがある。インターネットとは、言ってみれば、知らない通りで「もしもし」と見知らぬ人に話しかけたり、話しかけられるようなものだ。
でも、つき合い方を慎重におこなえば、インターネットは、日本の鎖国的言語環境を打ち破ってくれる素晴らしい道具にもなる。かつて90年代初頭にインターネットに夢中になっていた頃、インターネットを「地球時代の出入り口」と評したこともあるくらいだ。英語教師としての私がインターネットに期待するのは、唯一この点だ。
自分が興味のあることを信じて、コトバではなく内容を追い求めよう
さて、紙幅の関係もあり、今回、レコーディングセッション(たしか映画「ミート・ザ・ペアレンツ2」の映画音楽のレコーディングセッションだったと思う)の話も、ロサンゼルス滞在中の話も、一切紹介する余裕がなくなった。
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今回は、英語を書くこと、アウトプットの重要性。書く英語であっても、英語で「やりとり」をして「交流」すれば、こんなことも起こりうるという話、ということで書いてみた。
高校生も、音楽でも、野球でも、料理でも、ゲームでも、自分の興味あるところに自分から近づいていって、あくまでも内容を追い求め、そこにある言語環境・社会環境に身を投じ、そこで懸命にもがくならば、結果は何かついてくる。これは、英語においても日本語においても変わりはない。自分の興味のあること、そして、その背後にいる信頼できる人間集団を求めるならば、安心してやるべきだ、大丈夫だよという話をしたかった、ということで長くなりました。