見出し画像

散乱



 私が先日引っ越してきたアパートの部屋の隣からは騒音が絶えない。 

 小さな子供がいるようでいつも泣き声が聞こえてくる。父親の怒号と激しい物音と共に。 

 わあああああああん!やめてよパパああ!たすけてええ 

 うるせええええ!この糞餓鬼がああああ! 

 がたがたがたがた!がしゃん!がらがら!パリン! 

 毎日だ。毎日、隣で何かが壊れていっている。母親は?母親らしき女の声は一度も聞こえない。虐待だろうか?気付いたらお電話を、というなんとかセンターというのがあった気がするが、そこに電話するのが最善策だろうか。何とかしたい。自分の安眠のためにも、小さな子供のためにも。 

 私は少し様子を窺うことにした。父親は時々出かけるようだ。一度だけすれ違った時に見たのだが、もう何日も洗ってないようで髪はボサボサ、シャツはよれよれで、悪臭がした。会釈をしてみたが、私に気付くとビクッ!と怯えたような顔をして、数秒間私の容姿を眺め、慌てて部屋へ走り去った。虐待が露呈するのを恐れているのだろう。仕事はしていないのか、比較的短い時間で真っ赤な顔で泥酔して帰宅してはまた「騒音」を繰り返すのだった。 

 彼が部屋へ駆け込む時に見たのだが、泥酔のせいか時々鍵をかけ忘れるようだ。その時が、隣の実状を確認するチャンスだ。不法侵入だとはわかっている。けれど私はいつの間にか母性本能と正義感により、子供を助け出すと心に決まっていたので、そのための不法侵入ならやむを得ない、と自分を正当化していた。 

 がたーん!ぐしゃぐしゃ!ばちーん!がたたたた! 

 うああああああん!いたいよう!いたいようパパああああ!わああ! 

 うるせええええ!腹減った腹減ったうるせええええ!てめえみたいな餓鬼は早く死んじまえばいいんだよおおおお! 

 うわあああああ!パパのばかああああ!ママああああ! 

 だんだんだんだんだん、がちゃっ 

 どうやら父親が出て行ったようだ。今がチャンスだ。私はついに今日、隣の部屋へ潜入することに決めた。 
 今日は初めてあの子がママと叫んだ。やはりママを求めているのだ。夫の暴力に耐えかねて離婚したのだろうか。だが、子供をこんな父親の方に残していく母親なんて、私は信じられない。私が母親だったら、自分のお腹を痛めて産んだ子を、全力で守ってみせるのに。 

 玄関周辺に誰もいないことを確認すると、ドアノブに手をかけて捻ってみた。やはり鍵はかかっていない。私は静かに、そして素早くドアを開けた。 

 最初に私を襲ったのは異常なまでの悪臭だった。鼻や目が痛くなるほどの刺すような臭いで、私は吐きそうになりハンカチで口と鼻を押さえた。くらくらする頭で床に目をやると、新聞紙や広告やティッシュなどの紙屑、酒瓶や空き缶などのゴミで埋め尽くされていた。フライドチキンの箱があり、鶏の骨がところどころ落ちていて小蝿がたかっている。靴を脱いで上がる勇気は出なかった。サンダルのまま一歩一歩、中へ進んでいく。 
 カーテンも窓も閉めきられていて中は暗く、空気も濁って見える。脱ぎ散らかした衣服、ひっくり返されたテーブル、倒れた棚などの奥から、しゃくり上げながら泣く子供の泣き声が聞こえた。あの子だ!家具とゴミを掻き分け、私は声の元へ急いだ。 
 そこには、ペットを入れておくような檻がありその中で、三歳くらいの男の子が裸でしゃがみこんで泣いていた。体には痣があり、顔から血も出ていたようで赤黒く固まった汚れがついている。 
  
 真っ赤な顔をくしゃくしゃにして、その子が私に気づいた。私は胸が締め付けられるような思いに駆られ、檻に駆け寄った。するとその子は首を傾げ、口を開いた。 

「……おねえちゃん、だれ?」 

「私はあなたを助けにきたの。鍵は、鍵はどこかわかる?」 

  
 すると男の子は自分の腕で涙をごしごし拭きながら、「たぶん、あそこ」とキッチンを指さした。私は小走りでキッチンへ行き、片っ端から引き出しや戸棚を開けて鍵を探した。皿や調理道具はほとんど入っていない。フォークとスプーンと箸が二組入っている引き出しに、それらしき鍵を見つけた。 
 急がなければ。父親が帰ってきてしまう。早くこの子を連れ出して、どこかに保護してもらうのだ。いつも通りなら、一時間で酒を飲んで戻ってくる。 
 慌てると手が震える。なかなか鍵穴にうまく入らない。落ち着け、落ち着け私。と自分に言い聞かせていると、男の子がまた泣きべそをかき始めた。 

「ぼく、ぼく、おなかがすいたんだ、でも、パパはごはんをたべさせてくれないんだ、ずっと、ずっとここにいたんだ」 

「うん、うん、ひどいパパだね、早くお外へ逃げよう。ママに、会おう」 

 入った。鍵が、開いた。「ありがとう、おねえちゃん」男の子は両手を伸ばし、私に抱きついた。 

 その瞬間、私は頚動脈を噛み千切られた。薄れていく意識の中、噴出す血飛沫越しに、嬉しそうに笑う男の子の顔を見た。 

「ママ?ママはとってもおいしかったよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?