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既の所で、偶然窓から猫が飛び込んできたのだ。 

ぶあさあ、という音で湯船に沈んでいた少女は目を覚まし、呼吸という作業を半ば強引に思い出させられた。 

猫は猫で、別段それを目的にこの風呂に不法侵入したわけでもなく、むしろ後で思えば「とんでもなく面倒臭い場所へ来てしまった」といったアクシデントであった。が、如何せん猫は少女よりおつむが足りていたから、今でも「やれやれ」くらいにしか思っていない。 

裸の少女はまるで朝寝坊して目覚まし時計に話しかけるように「あと5分」とにやけた顔で猫に言った。猫は彼女に一瞥くれると、出ていくふりして風呂の栓を抜いた。 
するするすると冷めた湯の抜けた湯舟の中にことんと転がった少女は、ひくし、と一つくしゃみをした。 

ある日ベランダで少女と猫は夜通し話した。少女はふざけて時々猫の乗った欄干を揺らし、彼を困らせた。星の綺麗な夜だった。 

少女は一つの星を指差し嬉々として言った。 
「ねえ見える、あの星がさっきから何度も何度も瞬いているの。あたしに向けて信号を送り続けているのが、あなた見えて?りーりり、りーりり、りーりりりりと、控えめに音まで鳴らして、あたしを呼び続けているのがわかるわからない?」 

猫は聞こえないふりしてナーアと耳を掻いた。それを見ないふりして少女は続けた。 

「今日も夢を見たわ。あの星の夢。あそこではタイプライターの音みたいな言語を喋る女が物凄い速さで働くの。縦横無尽に動き回るの。ぐるぐるぐるぐる動き回るの。あたし、そこへ行くんだわ」 

あまりに少女の瞳がキラキラと輝くので、猫はもう一度耳を掻き、一度欄干に座り直すとポケットから煙草を取り出し爪で上手に蝋マッチに火をつけ、ふすーと煙を吐いた。 

「それって楽しいのかい」 

「こちらよりか、幾分はね」 

間髪入れずに少女がビー玉の目をして答えるものだから、猫は彼女の横顔から目を逸らすのも忘れて、溜息で煙を吐き出した。 

「本当はどの星だって構わないのだけれど、あの星はずっとあたしを呼んでいるの。あたしを必要としてる。あの星にはあたしの力が足りないの。ね、だからまばたき一回する度に輝くのをサボるの」 

猫はまばたきをせずに星を見つめたが、星が輝くのを中断する瞬間は見つけられなかった。 

猫は少女に少し黙るよう飴玉をあげた。そして空をじっと見るよう言った。 

はじめは眉間に皺を寄せて訝しがりながら飴玉をろろろと口の中で転がしていた少女だったが、黒い空を見つめる黒猫に倣い、暫くじっと天を仰いだ。 

「星が、増えた」 

少女が驚いてそう言うと、彼女の口から小さくなった飴玉が飛び出し、流れ星のように階下に消えた。 

猫はもう一本煙草を取り出したが、火を付けるのを待ち、言った。 

「ずっとそこにあったさ。暗闇に慣れなくて見えなかっただけだ」 

へー、と少女は言い、落とした飴玉を目で追うのに必死でベランダから落ちそうになっていた。 

猫は煙草に火をつけ、深い溜息で煙を吐き出した。 

煙を浴びて少女は、ひくし、とくしゃみをした。 

もう少しだけ、ここにいようと猫は思った。

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