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象
朝目が覚めてベランダ側のカーテンを開け切ると、窓一面にひとつの巨大な眼球が張り付いてこちらに向かって見開かれていた。
じるじるじる、とぬめった眼球が動く音さえはっきりと聞こえる。ぎょろぎょろと彷徨っていた黒目がこちらを捕らえた。
コイツのせいで陽射しが入らないではないか……昼も夜もわからない。とわたしは露骨に苛立った表情で窓辺に立ち尽くしていたが、
暫く思案した末、陽射しのことなんて気にしていませんよという表情に作り変えた。
瞬きもせずに眼球はわたしを睨み続けていた。いやわたしをというよりも、わたしの方向にある何かを、だ。わたしは時々昨晩虫に刺された左腕を掻くくらいしかなすすべもなく、その眼球を覆う分厚い皮を観察していた。
乾き切って、地殻変動でひび割れたアスファルトのような皮膚だ。割れた隙間から、得体の知れない液体がぐじゅぐじゅと滲み出ている。汗だろうか。
わたしはその皮膚や液体や毛細血管や大根ほどもある睫毛らしき毛を観察し終わり、窓を開け、
現れた透明のゲルを纏った眼球に掌をごじゅっと押し当てた。
その瞬間上下から岩のような瞼が閉じられ、ばぐぅとわたしの右手は喰われた。
ををををををををををををををををををををん!
と鳴き声が響いたと同時に瞼は開かれ、血の混じった透明な液体が眼球から堰を切って流れ出した。その激流に押し流されながらわたしは自分の右掌を思った。
眼球から溢れ出た液体が町を飲み込み海と一体化した時、わたしは何か煙突のようなものの上に横たわっていた。空は血のような赤色。眼下には、透き通った向こうに見慣れた世界がレンガ色に沈んでいた。煙突の繋がる先を目で追うと、それは巨大な象の鼻であった。銀粉を塗したような黒色の体を赤い空に映し、傷口のように開かれた瞳からは未だ液体を垂れ流し続けている。
わたしはやや粘着性を帯びたその液体の中を泳ぎ、何故か親近感のわいてしまったその眼球を目指した。何度もけらけら笑う餓鬼に足を取られたが、負けずに目指した。やめないか、わたしは行かなければならない。けらけらけら、あれはこうしてキミの気を惹いてキミを喰らうつもりなのさ、行くのなら行きたまえ。キミは阿呆だなけらけらけらけ。
それでもわたしは進んだ。ようやく象の額に辿り着き、ごつごつの皮膚を左手で掴んだ。右の手首からは血が止まらないのだがそんなことは気にしない。所々割れた皮膚細胞をみりみり剥がれ落ちさせながら漸く目頭ににじり寄り、その眼球に再会した。
はっとして、わたしは声に出して言った。「これは魚の眼球だ」
左手が掴んでいた鱗のような皮膚が剥がれ、同じ液体があたしの両の目からも溢れ出た時、わたしは象に喰われていた。
とろとろと温かくて思考を奪われ、嘔吐した。
象は泳ぎ出した。
もう帰らないだろう。