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夢のよう



 聞いてください。あの女が死んだんです。今更そんなことを聞いたって別段気にもなりませんでしたが、なんせ殺されたっていうんですから驚きましたよ。そりゃあ素行のいいほうではありませんでしたけど、知っている人間が殺されるなんてのは気持ちのいいものではないですからね。知っている、というのは他人行儀な言い方かもしれません。わたしは彼女を愛していましたから。ええ、もう昔の話ですよ。 

 わたしと彼女が初めて出会ったのは、蛹町の古いバーでした。彼女はそこで女給をしていたんですが、いつだってもう浮かない顔をしていましてね。こっちの酒も不味くなるくらい、英国の曇天のような、今にも土砂降りになりそうな顔をしているんです。ただ、顔立ちは目がくらむほど美しかった。ある晩わたしは、魂を込めて描き上げた長編小説を没にされてヤケになってその店を訪れました。小さなテーブルでウイスキーを一気に飲み干し、顔を上げるとそこに怪訝な表情の彼女が立っていたんです。「お客さん、どうかなさいました、暗いお顔をして」なんて声をかけられた時、わたしは不覚にも笑ってしまいましたよ。ええ、そんな彼女の顔も、真っ暗なのですからね。そうしたら彼女、「やっと、笑ってくださいました」なんて、桜の蕾が開くように、柔らかい微笑みを見せたもんですから、わたしは驚くより先に、彼女に恋をしてしまったのです。お恥ずかしい限りです。 

 それから彼女とわたしがごく近しい関係に至るまでには時間はかかりませんでした。わたしたちは多くの言葉を語りません。月並みですが、目と目で会話したとでも言いましょうか。彼女の常に憂いを湛えた瞳の理由は、彼女の夫にありました。わたしが理解できたのはそこまでです。ええ、彼女は多くを語りませんから、詳細にいたるまではわかりません。聞く必要もないと思っていましたから。わたしは、それでいいのです。美しい彼女が、私の傍らで、他の誰にも見せない、雨上がりの雲間から覗くような儚い笑顔さえ見せてくれたら、それでよかったのです。 

 彼女は次第に、その笑顔を見せる頻度を増しました。おこがましいことにわたしは、それをわたしの力からあるものだと信じ、奇妙な優越感を感じておりました。それと同時に彼女がその笑顔によって、自分の羽根を羽ばたかせる力を漲らせていくことに、恐れすら感じ始めていたのです。そうです、わたしは彼女がわたしという生まれ故郷から巣立っていってしまうのを懸念して、怯え慄いていたのです。そしてその懸念は、間も無くして現実のものとなりました。彼女は、その夫を、再び愛し始めたのです。 

 え?ええ、もちろん、わたしは彼女に何を求めたということはありませんよ。ただ、彼女の傍にいられたらいいと願っただけです。わたしにも妻がありましたからね。わたしは妻を愛していましたよ。え?一人の人間しか愛してはいけないという決まりはありませんからね。ええ、でも彼女の、夫への愛は、裏切りだと感じました。わたしだけが彼女を理解していたのですから。彼女の黒い雲を、虹に変えたのはわたしなのですから。わたしに愛が注がれてもおかしくないでしょう。そうでしょう。ねえ違いますか。 

 彼女はそのバーを辞め、夫の家業の旅館に勤め始めました。それ以来わたしとの連絡はぱったりと断ち、健気にその仕事に打ち込んでいたようですよ。幾度かわたしはその島にある旅館へ、船で出向き、彼女がまた浮かない顔で過ごしてはいまいかと窺いに行きました。けれど、その玄関から夫と共に宿泊客を見送る彼女の顔は、今までにわたしが見たこともないような、明るい、夏の花火のような表情なのですよ。幸せなのだな、そう思いました。けれどもまだ不安は消えません。あの彼女のことです。あれは巧妙に仕立てられた仮面なのかもしれない。そしてわたしは何度も何度も、彼女の姿を見に、その島へ通ったのです。わたしは心配症すぎるのかもしれませんね。 

 ある日わたしがいつものようにその旅館を訪れると、ええもちろん中に入ったことはございませんが、美しい彼女は、大きくなった腹を抱え、陶器のような肌はより艶めいて、聖母のような柔和な瞳で、中庭の籐の椅子に座っていたのです。彼女の周囲に集まる鳥たちは彼女の為に賛美歌を歌い、その様子はまるで、神の誕生を祝う祝宴のようでした。わたしは、何故でしょう、眩暈がするのを感じ、その場にへたり込みました。彼女はもう、わたしの愛した女ではなくなっていたのですよ。 

 それからわたしは夢を見ました。彼女の大きくなって真っ白な腹をきらきら光る薄刃のナイフで裂き、赤茶けた新しい生命を取り出して、力いっぱいこの手に抱きしめるのです。するとそのぬるぬるとした小さな手は、母を求めてもがき、わたしは「お前にこの女は渡せぬ」と、その汚れた柔らかなげんこつのような頭を、持っていたナイフで真上から鼻までさくさくと割るのです。そしてぱっくりと割れたまま泣き叫ぶその生き物を彼女は、「なんてひどいことを、この外道」と言って太い麻糸でぶちぶちと縫い合わせていく、そんな夢を見たのです。ええ、ええ、ひどい夢です。 

 そんな女が殺されたというのですよ、先生。え?昨日もこの話を聞いたですって。一体誰にです。誰が知っているというのです。わたしにですって。え、一昨日も、ひと月前も聞いたのですか。まさか。あははははは。ご冗談はよしてください。え?ええ、わたしは彼女を愛していましたよ。おい、誰ですかあの女は。先生一体誰ですかあの、檻の向こうで泣いている女は。わたしを見て泣く女は!いひひひひひひひ。わたしを最も愛している女ですって?何をおっしゃるのです。わたしは、愛することは知っていますが、愛されることなど、今の今まで一度も経験したことなどないのですよ。

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