劇場版「鬼滅の刃」無限列車編は論理的だった
劇場版「鬼滅の刃」無限列車を観に行った。感想は「分かりやすかった」の一言に尽きる。原作を読んだことがない私でさえよく理解できたのだ。とても論理的だった。鬼討伐という大きな流れがあり、そのなかの一つの戦いという位置づけだ。天下人となった徳川家康の足跡に例えると、三方ヶ原の戦いくらいであろうか。終盤になって突如奇跡を起こして、ハッピーエンドに持っていくようことはなく、試練を乗り越えたら、さらなる試練が待っていたというラストで、原作の流れに沿ったものと考えられる。見終わった後の爽快感はなく、いつまでも悲しい感情を引きずってしまった。だからこそ説得力があったのだ。
力関係において論理的だと思った場面が二つあった。一つ目は、鬼の世界に存在する序列だ。今回登場した二体の鬼うち、一体は列車の乗客全員を喰らおうとする欲深い鬼で、もう一体は己の力を誇示して、一人の猛者に決闘を仕掛ける鬼だ。どちがら序列が上かは火を見るより明らかだが、序列が低い鬼に嘆きとして語らせている。二体の鬼の明暗は分かれた。下剋上は成されなかった。
二つ目は、決闘を仕掛ける後者の鬼に対峙し得るのは誰がだ。鬼は相応の相手を指名して決闘を始めた。戦闘があまりにも高次元だったため、その次元に達していない者は、死闘を目の当たりにしても加勢できなかった。役員同士の戦いで自分の上司が劣勢に立たされても、会社員二人の力では相手の役員にできることには限りがあるのだ。
力関係以外では、 強き者は矢面に立って弱き者を守り、さらに強き者はその強き者を守る。奥義を極めた者は信念を曲げない。人間は協同するが鬼は協同しない。そこにブレはなかった。一貫していた。
ここから先はあくまで私の予想だが、最終決戦の場に立ち会える者と立ち会えない者がいる。 主人公の竈門炭治郎はじめ、未完成な者は成長する。そして最終決戦に挑む。一方で「柱」と呼ばれる神の領域に達した者の中には、戦いの途中で命を落とす者がいる。そして、その散り際は太陽にほえろの殉職シーンのように丁寧に描かれる。 太平の世を実現するには相応の犠牲を伴う。そんなところだろうか。
私が印象に残ったのは、武蔵坊弁慶を想像させるようなワンシーンだった。そしてよく理解できなかったのが、二体目の鬼が登場したことだ。私が因果関係を見落としてしまったのだろうか。何の脈略もなく登場した感が否めない。それこそ「鬼は群れない」ことを象徴していたのだろうか。神出鬼没ならぬ「鬼出」であった。
ちなみに一緒に観た連れ合いは、無限列車の始発駅が信越線の横川駅に似ていると幾度となく語っていた。