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父、パーロー伝説

今日は母の日ですね。
とはいえ私の母はもういないので、代わりに父の話をしようかなーと思います。

突然ですが、私と父は、血のつながりがありません。
私が5歳のとき、母が再婚相手として選んだ男、それが父です。
この男に対して私が抱いてる思いは、尊敬とか敬愛とか、そういう類のものではありません。ずいぶん長い付き合いになりますが、未だによくわからんおじさんです。かといって仲が悪いわけでもないと思うし、でもたぶん一生好きにはならない。そんな気がします。
「すきなもの」語りの題材に彼を選ぶのは、とっても抵抗があります。私もこの文章が書き上がるまでに彼のことを好きだと思えるか、まだ未知数です。
でも、書いてみます。
私は伝えたい。この世界には「パーロー」という、私とそのきょうだいの父親をやってる謎のおっさんがいるということを。

パーローと私の出会い

離婚して実家に戻った母が、一年くらいして唐突に家に連れてくるようになったおじさんがいました。
そのおじさんはなぜか私と妹にとても親切で、妹はすぐに仲良しになった。私も結構おじさんのことは好きでした。
そしてこれも唐突にある日。母親からそのおじさんがこれからパパになるのよと伝えられました。
正直「は???」って感じでした。
妹は喜んで速攻「パパーパパー」と呼びまくってたんですが、私は納得いかなかった。おじちゃんに「パパって呼んでご覧」って何度呼びかけられても「パパじゃないもん!!!!(ガン泣き)」って大騒ぎして、かなり長いこと抵抗してました。だって本当にパパじゃないもんな。私今でもこの件に関しては自分は間違ってないと思ってます。(強情)
いよいよ母親がそんな私に本気でキレて、このままじゃ居場所がなくなると悟った私は奴のことを仕方なく「パパ」と呼んだんですが、その時のあいつのにやけた顔は今でも忘れてないです。

クソッ、これは私の生存戦略であって、決してお前のことはパパだと認めてないからな…(悔し泣き)

たぶんこれが人生で一番はじめに味わった敗北感です。あと、普通にパパ呼びが恥ずかしかった。この羞恥、今でもリアルに覚えてます。
そんなわけで無事母と父は再婚し、奴は名実共に私の「パパ」になったのでした!

パパが「パーロー」になったわけ

パパのことをパパと呼べるようになってからも、パパとの喧嘩は絶えませんでした。主に私が一方的に喧嘩を売ってたんですが…
父は若ハゲで、風呂に入るときはカツラを外して入浴していたんですが、外したカツラを階段に置いておく習慣があったんです。
私は初めてそれを見たとき
「パパが溶けて階段に埋まってしまった…!?」
と本気で思い、怖すぎて大泣きしながら
「ままぁぁぁぁああ、パパが溶けたあぁぁぁあ!!!!」
と母に駆け寄った覚えがあります。そのあとハゲの父親が普通に風呂から出てきたので恐怖と怒りの余りシンプルに殴りました。
それ以外にもパパ大っ嫌いと思うことがあまりにもありすぎて、常にパパのバカヤローって思ってました。
でも、当時小学一年生の純情な女の子だった私は「バカヤロー」なんて汚い言葉を大人の男性相手に口に出すのはとても恐ろしくて言えずにいました。
そんな私が妥協案として編み出したのが、「パパのバカヤロー」の短縮形の

「パーロー」

でした。
これがまあスッキリすること受けあいで、よくパパ本人の目の前で「パーロー」と言い捨ててはその場を去っていく謎のプレイで快感を得ていました。(余談ですが、この話を人にする度に「工藤新一wwwwww」って笑われます。つらい。)
そんなわけでパパはパーローになりました。まさか彼もその後の人生常に「バカヤロー」という念のこもった呼び名で呼ばれる羽目になるとは思ってなかったでしょうね。反省はしてますが今でもパーロー呼びはスカッとするのでやめるつもりはないです。

パーロー伝説

パーローは、なんだかんだで面倒見もよく良い父だったと思います。
でも私は、私を膝に載せてニタニタしてるパーローが嫌いでした。なんか…亀仙人みたいで嫌でした。
そのほか、私の卒業式の懇親会で日本酒喰らいながら「娘は一生嫁にはやらねえええ」って号泣した話や、娘の結婚式に自分の手作りのパールネックレスをやるんだわとかそういう逸話を聞く度に
(恥ずかしい、やめろパーロー)
と居たたまれない気持ちでいっぱいになってました。
そんなパーローを初めて「おとうさんだなあ」と思ったのは高校三年生のセンター試験の朝。
朝六時にパーローと二人で家を出たんですが、試験会場目の前で「朝ごはんだぞ」と渡されたのは、バレーボールくらいのでかさのおにぎりでした。
バカなのこいつどうやってこんなの食べるんだよパーローが…って思ったんですが、会場のすみっこで食べたそのシンプルな塩味おにぎりは妙においしくて、心が落ち着きました。
結果、センター試験は国公立余裕で合格圏内の大スコアを叩き出しました。ありがとうパーロー。
まぁ、私その後大学行かずに音楽やるって言いだして勝手に専門学校に願書出して担任と大バトルしたんで全てが水の泡になっちゃったんですが…。(この担任の話もいつか書きたいな、キム…元気かな…)

まだまだつづくよパーロークソ列伝

専門学校に行き、私が社会人(フリーターです)になっても、パーロー伝説は続きました。
まず、彼氏とパーローの名前が被る事件。
彼氏の名前知ったときはウソやん…って頭抱えたんですが名前で人を好きになるわけではないから仕方ないなと思いつつ、彼氏を決して名前では呼びませんでした。パーローのこともずっとパーローって呼んでました。区別大事。
その彼氏とは別れ、時は経ち、パーロー最愛の、そして我々子供にとっても最愛の母が他界。(癌でした、南無。)
孤独をこじらせたパーローは孫を欲しがり、私に夜中に唐突に電話をしてきて
「結婚しなくていいから適当な男と子供作って孫を抱かせてくれ」
という倫理観もへったくれもないクソ要望をぶつけてくる始末。夜中に何考えてんだパーローって言って電話切りました。
それなのに妹が結婚するよとなったら、今度は本気の結婚妨害を始めやがりました。
ボイスチェンジャー使って(?)妹の彼氏に「この子とは結婚しないほうがいいですよ」と電話したらしいという話を聞いたときは、心からドン引きしました。それにしてもボイスチェンジャーって何?阿笠博士に作ってもらったの?パーローじゃなくてバーローだったの????(混乱

その後、妹の彼氏がパーローの心の不安を優しく解きほぐしてくれたおかげで二人はめでたくゴールインしたんですが、相手が優しくてよかったなパーロー…

でもなんだかんだ、憎めない男、パーロー

とまぁ…とてもじゃないけど「尊敬できる父親」とは呼べないようなエピソードが次から次に沸いてくるパーロー。
でもね、私は気付くと、パーローが父親だと信じて疑わなくなってたんですよね。こんな父親なのに。
母親が亡くなった何年かあとに、「私、ママの元気だった顔しかもう思い出せなくなっちゃったなー」とパーローにポソッと漏らしたときに、パーローが
「俺は元気なときのママも、病気のママも、全部昨日のことみたいに思い出せるよ」
って言ってたのが、私は忘れられない。
私たちには確かに、血のつながりはない。
でも、ママという中継点がなくなった今でも、私はパーローを「父親」だと思ってる。
私たちを繋いでるものって一体なんなんだろう?
絆?そんなもの、築いた覚えはないよ。
思い出?いい思い出なんて、ほとんどないよ?
育ててくれた恩?もちろんあるけど、恩だったら友達とか祖父祖母への想いのほうが強い。
でもなんか、今や実の母よりも思い入れ深い存在になってしまって、まいったな。

私が体調崩してると、「エゾエース」という謎の飲み物をくれるパーロー。
私が実家に帰ったときに、私が回転する椅子に座ってると延々とその椅子をくるくる回しているパーロー。
すっかりおじいちゃんになってハゲを隠さなくなって、前より二回りくらいちっちゃく見えてきたパーロー。
私が憎まれ口を叩けないくらい疲れてると「早く元気になってまたうるせえお前に戻れな」って笑いながら言ってくるパーロー。
自分で漬けた梅酒をまずいからお前にやるわといってくれるパーロー。普通美味しく出来たからやるわだろ…本当お前そういうとこだぞパーロー…。

このよくわからんが面白いおじさんに、私という人間は育てられてきた。
好きだと思ったことなんて1回もないけど、実の娘でもない悪口ばっかいう小娘を諦めずに娘扱いしてる事実には、頭が上がんないよ。私だったらとっくにキレてる。
今年の父の日には、めずらしく花でも送ってやろうかな。

…なんて言ったらまたニヤニヤするだろうからやっぱやらなーい!バーカバーカ、パーロー!てるお!!(※てるおとは、パーローに見た目のイメージで勝手に付けた第二のあだ名である。本名には一ミリもかすっていない。)

さいごに

そんなこんなで、愛すべき父、パーローの話は、これにておしまい。
沢山の人にパーローのすごさは伝わってほしいけど、どうかパーロー本人にはこのnoteが届きませんように……!!!(クソほど恥ずかしいので)

※この記事を母の日に更新した理由は、母にも感謝してるからです。
へんなおじさんを再婚相手に選んでくれて、ありがとね。
いつかまた会える日まで。
娘より

こちらのサポートは全額プロテインに変換され、私の血となり肉となります。