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ヨガの本質を理解するために

サーンキャ哲学

インドには「サーンキャ」という哲学体系があります。

サーンキャ哲学は、人間はいかに「苦痛と苦悩」に苛まれ魘されている存在であるかという理解から始まります。

仏教の根本原理も以下の理解にあります。

人生は苦痛と苦悩に他ならない

ゴータマ・ブッダという人物も、あらゆる苦痛と苦悩を自ら体験し、その苦しみを克服するために悟りを開きました。

人間である私たちは誰でも自分自身の「苦しみ」の原因がどこにあるのかを知りたいと思っています。

その原因を突き止めることで苦痛と苦悩を取り除き解放されることを求めているのです。

苦痛と苦悩の原因は根本的には「無知・無明」にあります。

これはよく勘違いされるのですが、「何かを知らない事・何かについて分かっていない事」と言った情報不足のような意味合いや、個別的な無知とったものではありません。

或る意味、もっと深刻な「人間であるが故の根源的無知・無明」というものを想定しており、人間は存在全体を把握できていないという意味なのです。

私たちの知っていると思っている世界や自分自身の存在について、見えているように、または分かっているかのように振舞う私たちなのですが、実は深い暗闇の様なベールがかかっているため、本当には知ることも分かることもできていない状態だということです。

こういったことをサンスクリット語でアヴィディヤAvidyāという概念で表現します。

アヴィディヤ Avidyā

人間が人間の本質や世界の本質を殆ど理解していないことを表現している言葉です。

無知・無明と言われると、とても不安な気持ちになる方もいらっしゃるかもしれませんが、人間として生まれることで必然的に「無知・無明」を抱えることになります。

そのため、不安に思う必要はないのですが、同時に「無知・無明」を解き放つことができるという権利も全ての人間に根源的に与えられていると考えることができるのです。

ヨガも、サーンキャや仏教と同じように、この人間の根源的な問題を解消する手段なのです。

現在の自分がどのような状況にあり、どのような地位で、どのようなライフスタイルであっても、ヨガの本質とは全く関係ないということが理解していただけたでしょうか。

在家であっても出家であっても関係ありません。

仕事をしているのか、していないのか、男性なのか、女性なのか、家庭人であるのか、はたまた洞窟や山奥で修行をするヨーギーであるとか、あらゆる区分というのはヨガの前では等しいものであり全く関係ないのです。

ヨガは無知・無明を取り除く手段

人間が人間である限り、「無知・無明」が続く限り「苦痛・苦悩」が終わることはありません。

苦しみを取り除く手段であるヨガは、それを求める全ての人に対して有効なのです。

ヨガは一部の高い宗教性を追求する人々、スピリチュアリティを追求する人々、専門の修行者、この様な特別な人のためのものという理解はヨガの一つの側面であって、ヨガの本質の正しい理解とは言えないのです。

本当のヨガとは?

自分の知るものこそが「本当のヨガ」「本物のヨガ」「本格的なヨガ」であると主張することや、他者のことを「あれはヨガではない」「ただの運動」などと批判し表現することは、あまり必要ではないようにも思います。

例えば、古典を学ぶことやインドで学ぶことが本質に近いようなイメージを持ちやすいかもしれません。

現代のヨガが素敵で、古典なんか学んでも役に立たないと思われることもあるでしょう。

ですが、実はしっかりとヨガを理論面と実践面の両輪でバランスよく学んでいくと、身勝手という意味ではない自由な世界観が広がり、「自分こそ正しい」とこだわり、主張し続ける必要はないということに気づき始めます。

皆が同じ苦しみを知る人間であり「無知・無明」なのだから、時に協力し合い、時に励まし合い、ヨガを学んでいくことができれば、それで十分だと私たちエクロールヨガは考えています。

どうか劣等感や罪悪感を感じることなく、今あなたの目の前にあるヨガを楽しんで学んでほしいと私たちは思っています。
そのために、理論面の頭の整理を少しでもお手伝いできれば幸いです。


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