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The edge of お江戸-7

ちょっとした言葉のあやと解釈の行き違い。
居候先の吉次郎きちじろうの隣に住む女やもめのおかみさん、紗代さよを怒らせてしまった嘉兵衛かへえ

“おびに何をすれば”と問うと、ついてこいと紗代。
二人して吉次郎の部屋先からお昼前に消え、日が落ちた頃にやっと戻って
きた嘉兵衛は、両手いっぱいにご馳走ちそうをかかえていた。

戻ってくる時、閉めた扉の向こうから聞こえてきた嘉兵衛と紗代の話す声。

紗代の声が、いつもより数段高いよそ行きぶりで、別人かと耳を疑った吉次郎、「おっちゃん、何をやったんだ?」と、紗代がくれたというご馳走広げる嘉兵衛に問うたその直後。

「いや、やっぱいいや。何でもねぇ」と、突然プイときびす
返し、座敷に戻って木版もくはん作りの続きに取り掛かった。

せわしなく動かしていた手がぴたりと止まり、しばらくあんぐりと口を開けたままだった嘉兵衛はやがて、「な、なんや、急に?」と問うたが、「なんでもねぇよ、俺ぁ腹減ってねぇからよ、おっちゃんそれ、全部食っていいぜ」とこちらを見向きもせずに、背中で答えてけずりを始める吉次郎。

あまりの事に嘉兵衛は、手を止めたまま茫然ぼうぜんとその背中に
視線が張り付いたままとなった。

しばらくの間、ジョリジョリと木版の削られていく音だけが、
部屋の中に響いていた。
 
やがて嗅覚きゅうかく鋭く、吉次郎の鬱屈うっくつを木を削る音のリズムからぎ取った嘉兵衛、心の機微きびに敏感なたちから、勘良く音と音の間にとげがあるような、何かひっかかるものを感じ、その背中に声をかけた。

「何が気に入らんねん?吉やん?」
「何にも気にいらねぇ事なんか、ねぇサ」

背中を向けたまま、つとめて笑うような声で答える吉次郎。

「早いとこ食っちまいなよ。卵焼きは熱々がうめぇぜ?」

すると嘉兵衛、意を決したように口を真一文字に結んで上がりかまちから座敷へ飛び移り、あちこちささくれ立っている色のせた畳の上にせた尻をどすんと叩きつけると、あぐらをかいて胸の前、ぎゅっと腕組みしたまま、藪睨やぶにらみに虚空こくうにらみすえた。

ついた尻の音に驚き、彫り刀を手に吉次郎が振り返れば、すぐ後ろであぐらをかいた嘉兵衛が、ふんぞり返った胸前の腕が交差した所、皮がよじれてしわが浮き上がるほどきつく組まれているのが目に飛び込んできて、それを上に上げると真一文字の口元に、くうを藪睨みに細めた両目で、何かをすかし見ているかのよう。

「大仏みてぇンなって、どうかしたかい?」
「大仏さんがあぐらなんぞかくかいな!」
「ちげぇねぇ。腹でも痛ぇのか?」

と、吉次郎は木を削る作業に戻り、また背中で話し出した。

「んにゃ」
「ならとっとと食いねぇ。せっかくもらったモンがお陀仏だぶつ
なっちまうぜ?」
「んーにゃ!吉やんが食わん言うてんのに、居候そうろうのわいが食えるかいな!」

吉次郎は彫り刀を小机こづくえの上にコトリと置くと、座り込んでいる嘉兵衛に向き直った。

「なんでぇ?いいてぇ事があんならさっさと言いなよ。
 数日一緒にいりゃ。俺が気が短けぇのは知ってっだろ?」
「短いにもほどってもんがあるわ。短かすぎや、あんたのは」
小言こごとなら聞いてるひまぁねぇよ?」
「言いたい事があるんはわいやのぉて吉やんの方やろ?
 ご馳走見てそない急にそっけないのはどういう事やねん?
 何ぞ含むもんでもあるンとちゃうんかぃ?」

吉次郎は一つ大きな溜息ためいきをつくと座り直した。

「ッし!わぁった!俺も面倒くせぇのは嫌ぇだ、はっきり
 聞かしてもらうぜ」
「おぅ!そうしなはれ。それが吉やんらしいわ」
「おっちゃんよ、」
「おっちゃんではないわ、まだ25やし」
「往生際が悪いぜ?」
「往生するにはまだ若いよってな」

「その顔でそンだけ言えりゃ大したモンだ」
「顔の話はどうでもえぇやろ?」
「そんな顔であんた・・・」
「顔はええちゅうとんのに」
「その・・・とこ・・なのかよ?」
「何?」

「いやだからその・・床・・じょうず・・なの・・かよ?」
「よぉ聞こえへん、どこの屏風で何が始まったて?」
「屏風じゃねぇし何も始まってねぇよ!」
「坊主が絵でも描いたンかぃ?」
「うるせえ!大概にしろいっ!」
「早よ言えや!じゃあ!」
「だから床!・・じょうず!・・なの?」

しばらく何かを透かし見るような表情で考え込んでいた嘉兵衛、突然、
藪睨みの表情を消し、組んだ両腕外すといつもの顔に戻って言った。

「どういう意味や?」
「いや・・意味っておめぇ・・」
じく上手じょうずて何や?」
「はあ?・・・なんだ?掛け軸ってのは?」
「あんたが聞いたんやないかい!」
「俺?・・が?」
「ほぉか!ほぉいう事か!やっとわかったわ!」
「な、何がだ?」

おののくような吉次郎とは反対に、嘉兵衛の顔は嬉しそうにぱぁっと
明るい表情を浮かべていた。

江戸前えどまえの言いようちゅうのは何でも端折はしょりすぎやわ!わしら西のモンからしたらあさっての事にしか聞こえんで?掛け軸が上手てそういう事か!」
「だからどういう事だよ?」
「やい!吉やん!物書きやから字もうまいなんて思たらあンた、大間違い
やで?わしゃ下手さ加減を飾っておきたくなるくらい字ィがくそへた
なんじゃ!床の間に掛けれるほど字の上手うまい掛け軸なんざ作れやせんわ!見くびりなや?」

全身から力が抜けていくのを、吉次郎は感じた。

「大体お紗代はんとこ、そんなモン掛けとくようなぁなかったで?」
「・・・誰が床の間の飾りモンの話をしてんだ誰が?」
「あんたが端折った言い方するからや!大体間取りはこの部屋とおんなじ
ちゃうの?ここかて床の間みたいなもんあれへんやないけ。それに掛け
軸に字ィ書くだけで半日もかか、・・・何がおかしいねん?」

床に突っ伏した吉次郎は、背中を小刻こきざみに波打たせていた。

「何笑とんねん?けったいやで?今日の吉やん」

突っ伏したまま吉次郎は、恐らく自分は、嘉兵衛と紗代の事をひどく
滑稽こっけいな思い違いをした目で見ていたのだ、と気づき、その事を笑いで散らそうとしながら、背中を揺らしつつ嘉兵衛に言った。

「もういい・・何でもねぇゎ・・食おうぜ?おっちゃん・・お紗代さんが
 作ってくれたヤツ・・」
「おお!食う気ンなったんやったら良かった!わしもうべこべこなんや!
 待っとれ!今、さんまサバくさけな!」

勢いよく土間へと腰を上げた嘉兵衛、その感性はちょっとした心の機微の
変化には敏感だが、機微の入り口からその先まで進む事は無いのであった。

同じころ、隣では紗代が行灯あんどん片手にもう一方の手で、
箪笥たんすの引き出しをさっきから何十回と開けては閉めてを
繰り返し、暗闇で一か所だけぽぉっと明るい中、一人にやにやしていた。

去年の秋に亡くなった左官屋だった父が、母を早くに亡くした一人娘の紗代に恥をかかせまいと、苦しい生活をしながら爪に、今、紗代が手にしている行灯のそれのような頼りない灯を幾日も幾日もともしつ、嫁入り道具にと買ってくれた桐箪笥きりだんす

五段ある引き出しが順々に開かなくなって、とうとう全部開けられなくなったのは、亭主だと言っていた男がいなくなってから間もなくの事だった。

以来、置物と化して早や2年になるか、3年になるか。
嘉兵衛のおかげで今日、数年ぶりに五段全部が開け閉めできるように
なった。

久しぶりに着れると思った好きだった晴れ着はカビだらけになっていて、洗濯してみたら、あちこち布が切れてしまい、もはや着物としては用をなさなくなってしまった。
それでも紗代は、また箪笥が使えるようになった事の方が嬉しかった。

箪笥ばかりではない。
いつもそこを迂回うかいして歩くのが日常になっていた床の穴
2か所も、嘉兵衛が直してくれた。
余った板木で床下からつぎあてた上に、転ぶと危ないからと、段差を
床とぴったり同じ高さになるように、薄い板木を何枚か重ねて釘で
打ち付けてくれたのだ。
これで数年ぶりにもう足元を気にせず、普通に家の中を歩く事ができる。

引き出しに飽きて、紗代は行灯でその2か所を順番に照らし眺め、また
一人にやにやするのだった。
次にその灯で部屋のすみを照らすと、古い畳の上に何枚もの
冬着が重ねてあるのが、ぼぉっと浮かび上がる。

裁縫さいほうが苦手な紗代は、いつもは秋が近づいてくるといくつもの穴のあいた着る物に布をあてるつぎあての作業を、お向かいのお竹さんに頼むのだが、40過ぎで独り暮らしのこのお竹婆さん、きっちり手間賃取る上に小言まで頂戴しなければならず、毎年紗代の深いため息と憂鬱ゆううつのタネとなっていたのだが、今年はそれらをかかえなくてすむ。

物心ついた時には、二親ふたおやともいなかったという嘉兵衛は、それはもう色々な事をやってきたのだといった。成長してからは、箪笥屋に呉服屋、大工の手伝いから一般の家の用事まで、あちこちで何でも雑用を請け負いながら、はなしを書いてきたのだという。

売れっ子ではない嘉兵衛にとって、それら雑用による実入りは大切な
収入源であり、だからこそ一切の手抜きなしに一つ一つを丁寧にやっ
てきたのだろう。

裁縫までできるのか、と驚いたが、もっと驚いたのはその仕上がりっ
ぷりである。一糸乱れぬ糸々の整然とした縫い付けぶりは、縫いの
たたずまいがりんとしていて、見ていると身が引き締まるようであった。

もう一度箪笥に戻って紗代は、引き出しを上から順に開け、閉めていった。
桐の肌がこすれ合う小気味良さが、指を通して伝わってくる。
5つ目を閉めた時、ふいに涙が頬を伝った。
アレがいなくなってからも、紗代は一度も泣いた事が無かった。
それが今、次から次へと涙があふれて止まらなくなった。

父の顔がふと浮かんだのである。
長い間紗代は、隣に聞こえぬように両手で口元をおおい続けていた。

「覚悟しときなよ、おっちゃん」

そこだけ行灯の灯で照らされている小机に向かい、木を削りながら吉次郎は背中で嘉兵衛に言った。布団を敷き、その上に寝そべりながら、まだ眠りに落ちてない嘉兵衛が薄闇うすやみの中から答える。
紗代の作ってくれたご馳走のおかげで二人とも腹はぱんぱんだった。

「何をぃな?おっちゃんではないけど」
「明日から長屋中の雑用引き受けなきゃならなくなるぜ」
「長屋中?」
「ここの長屋、ちまたじゃ何て呼ばれてると思う?」
「何て呼ばれとん?」
後家長屋ごけながや、さ」

「後家はんがぎょうさんおんの?」
「ここぁ、全部で13世帯いて。そのうち亭主がいんのは2つだけだ。一番若いおたえちゃんとこの何かの商いやってる店の丁稚でっち上がりともう一人、何とかいう女のとこのロクにしゃべらねぇ大工の職人と。それ以外は俺を除いて全部、後家さんだったり、亭主がどっかへ行っちまったりしてる」
「ちょお、待ちぃな」

がばりと薄闇の中で嘉兵衛が身を起こす気配がした。

「ほとんど後家はんやないけ、したら」
「だから後家長屋よ」
「あんたも妙な所住んでんねんなぁ」
「その妙な所に居候しちまったのが、おっちゃんの運のつきってヤツだ」
「おっちゃんではないけどな、ウンならあんたと出会ぉた時にたっぷり
 つけてもろたわぃ」
「大変だぜ?明日っから」
「なんでや?雑用なら大坂の頃から人さん以上によぉやったし、吉やん
 の木版できるまではやる事もないよって別にえぇけどな。
 せやけどお紗代さんとこちょいと手伝ぉただけで、長屋中ちゅう事
 あれへんやろ?」
「明日朝、井戸でお紗代さんが他のかみさん連中に言わねぇと思うかい?」

吉次郎の言った通り、翌日の日の暮れ時には、嘉兵衛は長屋のアイドルに
なっていた。

それからひと月後、吉次郎が嘉兵衛の噺を木版画28枚に彫り終わった頃、後家長屋にとって嘉兵衛は、なくてはならない存在となっていた。

<続く>

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