The edge of お江戸-8
(また、おかしな事言うなぁ)と嘉兵衛は思った。
吉次郎が、「自分たちで売らねぇか?」と言うのだ。
大坂から日光東照宮まで一人旅でやってきた嘉兵衛。
東照宮お参りの際、瞼の裏に不思議な幻が浮かび、“天啓”だと思い込んだ嘉兵衛はその情景をもとに一篇の噺を書き始めた。
書いてる最中、野グソをしていた男、吉次郎と出会うと、木版画の彫師だと言う。
嘉兵衛が絵草紙書きで、新たな噺を書いてると知るや吉次郎、その噺を彫らせてくれと言いだした。
江戸に知り合いもなく、自分の噺を木版に彫ってくれるアテもない嘉兵衛、渡りに船とばかりに、それからあっという間に書き上げた噺の彫りを吉次郎に任せ、ついでにその長屋に居候する事とあいなった。
後家さんや旦那に逃げられた女達ばかりが住むその“後家長屋”で、ちょっとした大工仕事や魚のサバきからお裁縫まで、何でも器用にこなす嘉兵衛はかみさん連中に重宝がられ、いつしか長屋になくてはならない存在となっていく。
吉次郎が木版を仕上げる間、嘉兵衛が“困った時の嘉兵衛頼み”が合言葉となった長屋の雑用を一手に請け負い、小遣い稼ぎをしながら過ごす事、
約1か月。
朝、長屋の井戸の前。
28枚の木版に嘉兵衛の噺を彫ってくれた吉次郎の画は、それは
見事なものだった。
「あンた、この腕やったらなんぼでも彫ってくれいう話あるやろ?」
と嘉兵衛が言うと、
「いやなに、大した事ぁねぇよ」
と照れながら、吉次郎。
「わいのしょうもない噺を・・・ありがとうな?ホンマに」
と何度も頭を下げる嘉兵衛。
「よしてくれよ、おっちゃん。俺の方こそ彫らしてもらって感謝してんだ」
という吉次郎に嘉兵衛は、言った。
「何をわけのわからん事を。おっちゃんではないけどな。
他に彫らなあかん噺、ぎょうさんあったんやろ?」
「いや、それがねぇんだ」
「そんなわけないわ!おかしいで?そんなん、こンだけの腕もっとって」
「それよりおっちゃん」
「何や?おっちゃんではないけど」
「これ、俺たちで刷って、自分たちで売らねぇか?」
「はあ?」
「紙代は金貸しに借りてよ、刷ってくれる所はアテがあるんだぃ。自分達で刷って自分達で売りゃあ、売れた金まるごと入るんだ」
「ちょお、待ちィな。そら丸ごと金は入るやろけど、売れる数を
考えてみぃ。なんぼわぃらが頑張った所で、たかが知れとるで?」
「いや、まぁ、そうかも知れんけど」
「それやったらどっかの版元に頼んだ方がえぇて。もし人気んなったら
ごっついで?売れる数言うたらそらもうあんた、どえらい事ンなりよんで?え?わぃらが自分達で手売りで売るよか何十倍ちゅう勢いで売れるがな」
「そりゃまぁ、売れたらな?」
「なんや?これから売ろうちゅうのにゲンの悪い」
「ま!いいや、ちょっと言ってみただけだ。この噺ぁあんたのもんだしな。あとは任せら」
「へ?任せるてどういうこっちゃ?」
「江戸にある版元についちゃあ、こないだ教えたろ?」
「お、おお、その教えてもろたとこ、これから回ろう思てな、
そやから吉やんも一緒に、」
「よろしく頼むわ」
「頼むわてあんた、一緒に行くんと違うんかぃ?」
「俺ぁ、こみ入った話すんのぁ、からっきしでな。悪ぃが任せるぜ?」
「待てや、一緒に行っといたら顔つなぎになるやろ?この画やったら
いくらでも売り込めるで?」
「いいんだいいんだ、じゃあな、頼んだぜ?」
と吉次郎は行ってしまおうとする。
「いいことあるかいな!おい!また野グソかぃ?」
「俺あ四六時中クソしてるわけじゃねぇぞ?ふろに行くんだよ」
と後ろでに手を上げながら吉次郎は行ってしまった。
「なんでや?」
と狐につままれたように嘉兵衛が、自分が書いたト書きの束と28枚の木版を手に、井戸の傍にぽかんと突っ立っていると、一人の長屋のおかみさんが声をかけてきた。
「ちょいと。嘉兵衛さん!」
「ほぇ?・・・あ、あぁ、どないしました?」
「これ見とくれよ、うちの水桶」
嘉兵衛の目に入るよう、おかみさんは手にした水桶の中を見せた。
「あちゃあ、こらあかんわ、水汲まれへんがな」
「だろぉ?何とか直してもらえないかと思ってさぁ」
すると井戸の向かいの部屋から、紗代が出てきた。
「お道さん、うちの桶使いな!入口んとこ置いとくから」
「あれまぁ、紗代ちゃん、いいのかい?」
「もちろんさね、今、嘉兵衛さんは駄目だよ。これから本業の方が
忙しくなるんだから」
「え?本業?」
嘉兵衛は拝むようにして、紗代に頭を下げた。
「えらいすんまへん、お紗代さん、ありがとう」
「いいからいいから!早く行きな。これから版元回ってくるんだろ?」
「うちの長屋の雑用が本業じゃないのかい?この人?」
「何を言ってんだよ、お道さん!絵草紙の噺書くのが商売なんだよ、
嘉兵衛さんは」
「あれまぁ、そうだったのかい」
追い払うように手を振る紗代と、その傍らでにこにこと手を振るお道さんに何回も頭を下げながら、嘉兵衛は長屋をあとにした。
そして日が落ちてきた頃、首をひねりながら戻ってきたのだった。
自分が居候している吉次郎の部屋の前まで歩いてきた嘉兵衛は、そこで
ぴたりと足を止め、もう一度首をひねった。
(どうも、おかしで・・・)
今日行ってきたのは、3軒、いずれも中堅どころの版元だ。
いきなり蔦屋みたいな大店に持ち込んだところで軒先で追い払われるのが落ちだろうと、その一段下あたりで何とか売りに出してくれる所が無いか訪ねたのだが。
結果は3軒とも断られた。
が、その断られ方が嘉兵衛の腑に落ちなかった。
当時の版元は、作家が噺をこしらえるとそれを買い取り、彫りから刷り、
製本まで一手に引き受けた上、できあがったモノを自分がかまえた店に並べて売る所までやっていた。
買い取ると言ったが、これは既に売れた実績をもつ名のある作家の場合
である。嘉兵衛のような名もない書き屋が持ち込んだモノについては、
噺に目を通してもらえるだけありがたいもので、買い取ってもらえる事
はまずないといっていい。
本にするまでの費用を持ち込んだ方が半分出して、それで店に置いて
もらえれば上出来といった所である。
もちろん、売れれば売れた分だけ、何割かの割り前をもらえるがそれ
とて微々たるもので、噺を書くだけで生計を立てていける
のはほんの一握りといって良かった。
それでも噺を書くのが好きな嘉兵衛は、大坂にいた頃からせっせと
書いては雑用を請け負って貯めた金をつぎ込み、しょっちゅう腹を
すかせているという生活を何十年とやってきた。
不思議とそれが嫌になるという事はなかった。
いつか、みんなが笑い転げ、そして声を押し殺すようにして泣いて
しまうような、そんな噺が書きたい。
嘉兵衛にあるのはそれだけである。
富とか名声にはあまり興味は無い。少しはあるが、大勢の人に自分の噺を読んでもらえる事と、富と名声のどっちを取るかと問われれば、一辺の迷いもなく大勢の人に噺を読んでもらう方を取る。
が、大勢の人に噺を読んでもらうのに、一番手っ取り早いのは名声を
得る事だ。名があれば、人はその名のある奴が書いた噺を手に取るだろう。
人に手に取ってもらうには、名をあげなければならない。
名をあげるには・・・売れる噺を書くしかないのだ。
名があれば、書いた噺をそのまま買い取ってもらえる。
彫り、刷り、紙代、製本代の半分の費用を自分で出す必要もない。
全部、版元が請け負ってくれる。
その為にまずは、おもしろい噺、人が読みたくなる噺を一つ書く事だ。
今回、日光の東照宮で天啓を得て書いた、お猿の軍団の噺に嘉兵衛は
自信をもっていた。
こいつはおもしろい、必ず売れると。
現に今日回った3軒のうち1軒は嘉兵衛のト書きを読んだ後、
「うちじゃ、ちょっと・・」
と断られたが、他の2軒は2軒とも、「中々おもしろい、これで良かった
らうちでやらしてもらいますけど?」と算盤はじいて、
額まで提示してくれた。
(ほれ!見てみぃ!)と内心得意げになった嘉兵衛だったが。
その後2軒とも、けんもほろろにとりつく島も、あばたにえくぼも
なくなったのである。
「おぅっ・・なんでぇ、帰ってたのかぃ?」
部屋から出てきた吉次郎の声で、はっと嘉兵衛は我に返った。
外に出ると突然、難しい顔で考え込んでいる嘉兵衛がいたのに少し
驚いた吉次郎だったが、様子で察しがついたのか、
「駄目だったか」
と言った次の瞬間、自分の声に顔を上げた嘉兵衛が、疑わしそうな
目でじーぃっと見てくるのに吉次郎は気づいた。
気づくや吉次郎、やにわに地面に両ひざつくと土下座になった。
「おぃ吉やん、何してん」
「おっちゃんすまねぇ!」
吉次郎は顔を地面に擦りつけるようにして頭を下げた。
「黙ってて悪かった!駄目だったんだろ?その・・原因はやっぱ・・」
顔を上げて吉次郎は、嘉兵衛を仰ぎ見た。
「俺?・・か?やっ・・ぱり?」
ふっと嘉兵衛は口元に笑みを浮かべながら、しゃがんで吉次郎と
目線を合わせると吉次郎、横を向いて目線を外したその顔に、
苦笑いを浮かべた。
「あのな、吉やん」
浮かべた苦笑いも、横に向けた顔もそのままに吉次郎は言った。
「いや悪かった、黙ってて」
「まだ何も言うとりゃせんわ」
「そうかぃ、じゃそのまま何も言わねぇでいてくんねぇかな?」
「そうは行くかい。その黙ってたちゅうのは、何を黙ってたんか、
聞かせてんか?」
「あ、そう?やっぱり?」
「それとな」
「何でございましょう?」
「わしゃ、まだ25じゃ。おっちゃんではないわ」
顔を戻して目線を合わせると吉次郎は言った。
「その老け顔でどこまであがく気だ?」
「全部の版元に知れ渡るような、何を一体やらかしたんや?」
<続く>