The edge of お江戸-1
「・・・え?・・で?」
「という事だ。おもしろかったであろう?そんなわけでここの払いは
任せた、では」
「ちょっとちょっとちょっと!」
嘉兵衛は慌てて孫四郎の袖を掴んだ。
大坂出身のわりに気が弱く、押しも弱い嘉兵衛は元来ついてない事が多い。
それもついてない時はどこまでもついてない男だった。
その代わりつく時には、とことんつきまくるという天運を持っていた。
1800年代初め頃、世に文化・文政と言われる時代、江戸のとある居酒屋での事である。
売れない絵草紙書きの嘉兵衛は年の頃三十、自分の書いた絵草紙を売って何とか糊口をしのいでいるが売れないものはどうやっても売れず、そろそろ懐具合が明日の飯に届かない状態になってきた。
おもしろい話はないかとネタ掘りに奔走していた所、白羽の矢となって飛んできたのが、とある地方の藩から留守居役として江戸にやってきたという孫四郎。
昼頃、嘉兵衛が通りをうろついていると銭湯帰りと思しき桶を片手に、“嘉兵衛ではないか”と声をかけられた。
同じ年齢でお役目も4年目に入り、江戸のしきたりも遊びもあらかた知りつくした感のある男だ。顔見知りであるのをいいことに、何かネタを持っているのではないかと嘉兵衛の方から話を持ちかけ、一旦桶を置きに家に帰ってから団子屋の前で待ち合わせて二人、居酒屋へと歩き出した。
「どうだす?ご自分の話が絵草紙ンなって世に広まったら、藩のお屋敷でも
評判になりまっせ?なんぞおもろい話があれば是非聞かせてもらいたい思
いましてなぁ。良かったらわてが書かしてもらいまっさかい」
「おもしろい話か、うんまぁ、無い事も無いがな」
「ほんまでっか?どんなか一辺お聞かせ願えまへんか?」
「まあ聞かせてやっても良いが、しかし、ただでというわけにはいかんな」
「もちろんでんがな、どうだす?その辺で一杯?」
「そうか?良いのか?払いの方は?良いのだな?ならば話して進ぜよう。
ところでその方、江戸にきて確か5年ぐらいになると申して
おったと思うが」
「へえ、そうでっけど」
「なんで未だに大坂弁なのだ?それがしでさえ、すっかり江戸の言葉に
馴染んでいるというのに」
「いやあ、旦那と違ってあてのような生まれの卑しいモンは中々
生来のお国言葉が抜けまへんねん」
「そうしたもんかのぉ。お主、なんで国抜けしてきたんだったかの?」
「アホな!国抜けて!めったな事言わんといて下さい。わて、日光東照
宮だけは一回でええからお参りしたかったて話、旦那にしましたやん」
「はっはっは!そうじゃった、そうじゃった!日光東照宮へお参りしたら
天啓があって、その方、その天啓とやらに触発されて何か
書いたのであったな?」
「そうだす・・・お猿の軍団の話を書いて、絶対売れる思て。
自分の金で出版して・・・」
「さっぱり売れずに借金だけ残ったんだったのぉ」
「そうだす」
「それで国に帰る事もできなくなり、仕方なく江戸にい続けるはめになった
と。天啓にあらず天災だったというわけだ」
「売れていれば天才だったって事になったんやけど」
「何、今夜のわしの話を書いて天才になれば良いではないか」
「それもそうでんな、たよりにしてまっせ旦那」
「まかせておけぃ。それはそうとお主、住まいは今どうしておるのだ?」
「知り合った彫師の所へ居候してますねん」
「彫師?」
「木版彫るのを商売にしとる奴だす」
「ほぉお、そういった商売もあるのか」
「わての書いたト書きを、木版に絵と字で彫ってくれるんですゎ」
「ほぉほぉ、つまり絵草紙を刷る時、その元となる木版を作るという事か」
「さいだす」
歩く道すがら話していると目指す居酒屋に着き、二人は適当な場所に座って酒とあてを注文し、嘉兵衛は懐から筆と携帯用の墨壺と紙を取り出して、いつでも話を書き留められるようにと身構えたが、孫四郎、一向に話をしない。
「まぁ待て、とりあえず一献、それに腹もすいている故、ま
ずは腹ごしらえをせねばな。わっはっはっは」
と飲んで食って飲むばかり。
大分時間も経った頃、しびれをきらした嘉兵衛が、
「旦那・・・いい加減話聞かしてもらえまへんやろか?
そろそろ店閉まりまっせ?」
と言うと、
「おおそうか、もうそんな時間か?」
と、さんざん飲み食いしてからやっと話し始めてくれたものの、その話のどこに耳を傾ければ良いやら、てんでおもしろくも何とも無い。
これから話がおもしろくなるのだろうと待っていると、孫四郎、さっさと帰ろうとするので、慌てて嘉兵衛はその袖を掴んだというわけである。
「ちょっと旦那!勘弁して下さいよ、頼んますわ」
「どうしたのだ?血相変えて」
「血相も月見草もおまっかいな、何ですか?お魚咥えたどら猫を
おかみさんが追っかけて裸足で駆けだしたってのは?」
「女が裸足で駆けだすなんぞめったにある事ではないぞ?」
「いやそういう事やなくてね?で、そのあと何です?みんなが笑ってるでは
ないか、お日様も笑ってるおるぞ?」
「いいではないか、泣いているよりも笑っていた方がいいとは思わぬか?」
「お日様って笑うんでっか?」
「よく晴れている時のお日様は何だか笑っているようだとは思わぬか?」
「思いまへんな。で?最後に何でした?今日もいい天気じゃのぉ、て何で
す?唐突に天気の感想聞かされて何したらえぇんでっか?
そもそも誰の感想ですねん?」
「誰の感想でも良いではないか。その方、晴れているより雨が降っている
方が良いと申すか?」
「いやだからね?今の話のどこにおもろい所がありますねん?」
「おもしろいではないか!裸足でおかみがどら猫を追いかけるのだぞ?
ただの猫ではないぞ?どら猫だぞ?」
「どらも野良も一緒ですがな」
「その違いをわかるように書いてさらに話をおもしろおかしくするのが
その方らの腕の見せ所がす!しぇば!」
「ちょっと!・・旦那!」
「またおもしろい話あったら聞かせっがら!しぇば今夜ンところはひとまず
払いよろすぐ!」
と、行ってしまった。
(これじゃ白羽の矢どころか、流鏑馬に空っぽの矢筒背負っ
て馬駆けしたようなもんやんけ・・そう言えばあの旦那東北の出ぇ
言うとったな)
と目を点にしながら、以前聞いた事がある相馬野馬追は矢は持たないんだったな、などとぼんやり頭に浮かべていたら、後ろ
からとんとんと肩を叩かれ、振り返れば店の女将であった。
「おお!女将!あのな女将!」
「駄目です」
「にっこり笑って連れない事言わんといてぇな、まだ何も言うてへんがな」
「もう3回分たまってましてな?嘉兵衛さん」
「いやだからな?」
「それ全部払えとはいいません」
「そらそうや、そんな無体な事言うたらアカン」
「ご無体なのは嘉兵衛さんの方です。うちは本来ツケご法度っ
て知ってますよね?」
「いやだからな?」
「今夜分は払ってっておくんなぃ」
「ずっと手ぇ出してると疲れるやろ?」
「早く払って下されば疲れなくてすみますよぉ?」
「嘉兵衛は寝て待て言うやんか?」
「嘉兵衛はあざなえる縄のごとしとも言います」
「それかなり無理あるゎ」
「でしょ?ですから今夜は無理は通りませんの、二分」
「あかんか?」
「あかん」
「そこを何とか」
「あの袋の緒ってすっごくもろいんですって、知ってました?」
「いや、知らん・・て何?袋?何の袋や?」
「堪忍袋」
「何の話しとんねん?それより女将・・・ものは相談やけどな?」
「太一っつぁ~ん!賄い所から包丁借りてきてぇ?」
「わかった!払う!二分やな?二分」
「・・・はい毎度!」
こうしてなけなしの金を女将に払うと、とうとうすっからかんになった懐抱え、居候先の貧相な長屋の一角へ、とぼとぼと歩いていく嘉兵衛であった。
<続く>