The edge of お江戸-4
5年前の日光東照宮。
本殿より少々離れた茂みの所で、先ほど老婆からもらった紙を地べたに置き、携帯用の筆と墨でひたすらそれに文章を書いていた嘉兵衛は、大声を聞いて顔を上げた。
すると、約2間半(約3メートルほど)先のその茂みの中から、顔だけ出した若い男がこちらを睨んでいるのと目が合った。
「あんさん・・・そんなとこで何してはりますの?」
「何っておめぇ・・・野グソに決まってるじゃねぇか」
「うんち?・・でっか?そんなところで?」
「いやだから・・・」
「草むらん中でうんちしてまんの?」
「そうだよ!うんちしてまんのだ!草むらん中で悪かったな!
さっきっから何べんも呼んでんのに知らん顔してやがったくせして!」
「別に悪い言うてるわけやおまへんけど。えらいすんまへん、今ちょっと
忙しおまんねん、あとにしてもらえまっか?」
「おい!こっちは待ったなしなんだ!紙がねぇんだよ!」
「紙も無いのになんでそんな所でうんちしてはるんですか?」
「出てくるもんはしょうがねぇじゃねぇか!引っ込んでろって言われて
引っ込むような生ぬるい野郎じゃねぇんだ!」
「うんちってな大抵生ぬるいもんちゃいますの?それとも江戸の人の
うんちは生ぬるくないんでっか?」
「何でもいいから早くくれよ!どっちだっていいよんな事ぁ!」
「くれって何をでんの?そもそもあんた、なにをそないイキっとんの
ですか?」
「クソってな大概イキるもんだろうがよ!とにかく紙だてぇんだよ!」
「そないイキられる筋合いおまへんで?紙紙って紙がどないしたっちゅう
んでっか?」
「だから!する前は葉っぱで拭きゃあいいと思ったんだけどよ!」
「ほな早よ拭いたらええですやん、葉っぱだらけン中おんねんから」
「それがこの辺、ひいらぎしか生えてねぇんだよ!」
「ほなひいらぎで拭いたらよろしがな」
「お前さんね、随分と殺生な事ぬかしてくれるじゃ、おい!書き物に
戻るなよ!」
「だから何なんでっか?用件は?」
「お前さん、ひいらぎって知ってるか?周りが棘だらけのかったい
葉っぱだぜ?それで拭けっておめぇ丸出しのケツで剣山座れっつって
るようなもんじゃねぇか!
痔持ちにしよってのか?俺のケツの穴に何か恨みでも、おいっ!
だから書き物に戻るなてぇの!」
「忙しい言うてますやろ?あさっての方で遠回りなたとえ話しとらんと
用件を言いなはれや!」
「このごに及んで用件を言えたぁ、おでれぇたね!
お前さん、話してる言葉からすると西から来たんだろう?
京じゃクソした後にケツも拭かねぇで書き物すんのかい?」
「わいは京やのぉて大坂でっけどな、わいの方ではそもそも野グソ
みたいなはしたない真似はしまへんのや」
「何をすかした事ぬかしやがんでぇ!じゃ何かい?京や大坂の方じゃ
出かけた時にもよおしても、出すもん出さずに垂れ流しながら
歩くのかい?」
「なんで垂れ流して歩かなあきまへんの?辻便所行ったらええだけの話や」
「だからあとにしろっての書き物は!」
「せやから用件言いなはれ言うとりまっしゃろが!」
「お前さんね、草むらン中でクソした後に拭くもん無くてケツ丸出しで、
お茶を一杯いただけませんか、とでも言う奴がいると思うかい?
用件なんぞ口で言わなくたってわかりそうなもんだろうがよ!」
「・・・何をイキってはんのか、さっぱわからんゎ・・」
「おいっ!書き物に戻るなって!」
「うるさいっ!」
「おめぇが今物書いてるその紙を何枚かくれっつってんだよ!
このコンコンチキが!」
「なんでっかそれ?人を狐みたいに言わんといてもらえまっか?」
「だってソレおめぇ、物書く紙じゃねぇだろうがよ!
ちり紙だろうがそれは!」
「・・・へ?」
嘉兵衛は思わず、自分が一心不乱に筆を走らせていたモノを地面に
置いたまま、まじまじと見つめた。
随分と書きづらい紙だと感じてはいたが、まさか、自分が字を書い
ているモノがちり紙だったとは思ってもみなかった。
本殿前で老婆に、“これに書きなさい”と物を書く為の“紙”を渡された
と思い込んでいたのである。
だからこそ、“これは天啓なのだ!”と信じたのだ。
嘉兵衛の中で、その天啓がガラガラと音を立てて崩れていった。
(テンケイ的な思い込みってヤツかぇ?・・・)
「なぁ!もしかしてちり紙ってのを見たのは生まれて初めてかい?
いつまで見つめてんだよ!」という声に我に返った嘉兵衛は、
のろのろと立ち上がり、何枚かのちり紙を茂みの中の男に手渡した。
「ありがとうよ!」と受け取った男が、用を済ませ茂みから出て
くるまで、書きかけの何枚かを片手に、嘉兵衛は呆けたように
そこに突っ立っていた。
男が出てきて両腕組んで肩をいからせ、渋い表情を作り「助かったぜ」
と言うのに、嘉兵衛は「あのおばあさん、何でわいにちり紙くれたん
でっしゃろ?」と聞いた。
「ちり紙が欲しそうな顔に見えたんじゃねぇのか?」
「ちり紙が欲しそうな顔てどんな顔でんねん?」
「知らねぇよ、そんな事よりお前さん、なんだってちり紙なんかに、
それも地べたで物書いたりしてたんだい?」
「いや、頭ん中にあるもんを急いで書いておかんと消えてしまう
思いましてな」
「あんた・・・物書き商売かい?」
「へぇ、絵草紙の話書いてメシ食うてる、嘉兵衛いうもんだす」
“絵草紙”と聞いたとたんに、男の顔がぱぁっと明るくなった。
「お・・お前さん!そのなり見んと旅してきたばかりだろ?
江戸に知り合いはいるのかい?」
「いや、生憎一人もいてないですゎ」
「親類とか、別れた女房の家族とか」
「いやわて所帯持った事あれへんし、親類みたいなもんもおりま
へんねん、一人ぼっちでね・・それぁ寂しいもんですゎ」
「・・・すげぇ・・こいつぁすげぇぞ!」
「夜に一人でメシ食うてる時なんぞ、せつないやら情けないやら・・」
「これぞ神さん、東照宮さん、家康さんのお導きって奴だ!
捨てる神ありゃ拾う神くりゃちり紙様ときたもんだい!」
「たくあんありまっしゃろ?あれ食うてる時の音がね?
ポリポリ、ポリポリとだぁれもいない部屋で妙にひびきまんねん」
「ざまぁみやがれってんだ!どうだい?これも何かの縁だ。
俺にあんたのその話、彫らせてもらえねぇか?」
「へ?」
「俺ぁ、吉次郎ってんだ!木版画彫んのを商売にしてる!」
喜びと言うか、感激のあまり嘉兵衛は茫然となった。
が、頭の中ははっきりしていた。
(やっっっぱり!・・天啓やこれは!)
そしてもう一方で、こう思った。
(せやけど野グソて・・・・・腐れ縁ちゅう事かぇ?)