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Distance -2/4

7/21行われたWBC世界バンタム級タイトルマッチ。
チャンピオン中谷潤人選手vsビンセント・アストロラビオ選手の戦いは
現時点で最強の挑戦者と目されていたアストロラビオ選手が、1R、
中谷選手の左ストレート・ボディ・ブロー一発でKOされ終わった。
試合開始から157秒。

KOで終わった場合など通常なら、レフェリーの手が上がってKO勝ちが確定した瞬間、勝った方のスタッフ達は我先にリング内に飛び込み、自陣の選手
に代わる代わる抱きついて、喜びを爆発させるものだ。

ところがこの試合。
一度立ち上がってから再びしゃがみ込んだアストロラビオ選手の頭を片方
の手で抱きかかえながら、もう一方の手を上げ、中谷選手のKO勝ちを
レフェリーが宣告し、ゴングがカンカンとけたたましく鳴り響く中、
中谷選手のスタッフは誰一人リング内に上がってこなかった。

会場は湧いていたが、中谷陣営のコーナーだけお通夜みたいにシーンと
していたような印象がある。
私の印象が極端すぎるだけで、実際はそんな事もなかったのだろうが、
KO勝ち確定後、誰もリングに上がってこなかったのは本当である。
ボクシングでこんなシーンは、初めて見た。

相手をKOし、悠々と振り向いた中谷選手は誰も上がってこない自分の
コーナーへと戻りながら、その顔に笑みを浮かべて両腕を広げてみせた。
すると、やっと名トレーナー、ルディ・エルナンデスがリング内に
上がってきて、笑みを浮かべながら1RKO防衛を果たしたチャンピオン
と抱擁し、次いで他のスタッフも一人一人リングに上がり、微笑みな
がらの抱擁を中谷選手と交わした。

随分静かな抱擁シーンだと思った。
皆笑顔を浮かべてはいたが、その笑みが強張っているようにも見え、
抱擁もどこかぎこちないように感じた。
この時のスタッフ達の胸の内を私はこんな風に妄想した。

(え?・・・・え?)
(・・何でラウンド途中で中谷戻って来てんの?)
(勝っ・・た?・・って事?)
(終わり?・・・え?)
(OK,Junto!Great!・・It's so・・uhm・・・What did you do?)

多分にバイアスがかかり過ぎた妄想だが、私にはこんな風に見えた。

何と言っても最強のコンテンダーである。
負けるという事は考えていなかったと思うが、ルディを筆頭とする
陣営も警戒する気持ちはあったはずだ。
間違っても相手がボディブロー一発で倒れるなどという事は、
その発想自体、無かったと思われる。

1R開始後、2分過ぎまで中谷選手は顔周辺にパンチを集中させていた。
ずっと上を攻撃していたのである。
アストロラビオ選手も何発かパンチを放ちはしたが、これといった
有効打は無く、中谷選手のパンチもボディに浅く当たったり、ブロック
の上からヒットしたりしていたが、こちらも有効打といえるほどの
パンチは無かった。

そして中谷選手がふいに、左ストレートのボディブローを放った。
強打したわけではない。
いい感じに力の抜けた左がスムーズに中谷選手の肩から滑り出た。

この時、中谷選手の目線はアストロラビオ選手の顔あたりを見ている。
いかにも今までみたいに顔面周囲に行きますよ、と言う目線を相手の
顔あたりに据えたまま、中谷選手の左肩から滑り出たストレートは
真っすぐアストロラビオ選手のボディに吸い込まれていった。

その拳が打ち抜いた箇所はみぞおちの少し下の部分である。
通常であれば、単発ではみぞおち程打撃によるダメージは
与えられず、ヒットしても、あまり高い効果は望めない箇所だ。

自分で自分の腹を軽く打ち比べただけでもわかると思う。
みぞおちとその下の腸がある部分とでは、打撃によって加えられる
ダメージ効果は、10:3ぐらいでみぞおちが10となるぐらいだと。
(やべ・・吐きそう・・)

ではなぜ、アストロラビオ選手は10カウント以内にファイティングポーズ
を取る事ができなかったのか?
苦悶の表情を浮かべながらも、一度は立ち上がって戦おうとしたが、再び
自分からマットに崩おれてしまったのはなぜなのか?

腹部のあの箇所には、タイミングによってはみぞおち以上に深刻な
ダメージを受ける場合があり、今回アストロラビオ選手が一発の
ボディブローで立ち上がれなくなったのは、これに該当するのでは
ないかというのが、私の見解である。

見解と書いたが、妄想と読み替えて頂いた方がいいかも知れない。
以下、話半分で読んで頂ければと思う。

まず、みぞおちより下の部分は、例え強打されても打撃による痛みと
いうのはあまりない。
あるにはあるのだが、倒れこんでしまうような痛みを受ける、と
いった事はまずないと思う。

そして前の記事、私は中谷選手の左ストレートがボディにヒットする
瞬間、アストロラビオ選手が体を、特に腹部を硬直させたように見える
と書いた。

中谷選手のボディブローにアストロラビオ選手が気づいた時は、既に
何をやるにも遅すぎるタイミングだったと思われる。
そしてインパクトの瞬間、その瞬間に合わせてアストロラビオ選手の
両肘が、内側にほんの少し絞られるように動いた、ように私には
見えた。

それは中谷選手のボディブローに対し、何もできない彼が最後に唯一
実行可能だったささやかな抵抗と映った。
自分の体、特に腹部を硬直させ、ボディブローの衝撃に対抗しようと
したのだと思える。

それを見ながら、(あぁ・・逆なのに・・)と思った。

消化器というデリケートな内臓を抱えた腹部への打撃を、腹筋の筋力
だけで跳ね返すというのはほぼ不可能だろう。
ボディワークで腹部をねじりヒットポイントをずらすか、脱力して
衝撃を背部へと流すかのどちらかしかない、と思う。
だがそんな事はアストロラビオ選手も分かり切っている事だろう。

腹をねじる余裕すら無かったか。
ヒットポイントをずらそうにも相手の拳がどこに向けられているか
見極めていなければ、ずらしようがない。
しかし、これも恐らくだが、中谷選手の拳がどこに向けられているか、
アストロラビオ選手はそこまでは見えたのだと思う。
見えてはいても、ブロックしたりフットワークを使って体の位置を
ずらして交わす余裕はない。
ならば腹部をよじってヒットポイントをずらすか?
いや・・・
中谷選手の拳の行く末を見切った上で、アストロラビオ選手はこう
思ったのではないか、と思う。

(ヒットポイントをずらす必要はない)

ボクサーであれば、多分誰もが知っている。
みぞおちより下の部分への打撃は、何回も繰り返し受けるとまずい
事になるが、一発だけであれば、さほどダメージは受けなくてすむ、と。
だからこそアストロラビオ選手は、両肘を絞って腹部に力が入る態勢
を整えた。その時間は十分にあったと思う。

そして彼は腹に力を入れた。
中谷選手の左ストレートがまともに入った。
衝撃でアストロラビオ選手の体が後ろに飛んだ。
吹っ飛ばされたというより、パンチの衝撃で同じ位置に立っている事が
できなくなったアストロラビオ選手が、自らマットを蹴って後ろに
飛んだ。
そして飛んだ直後、苦悶の表情を浮かべながら崩おれた。

その姿を見て私は思った。
(これは、あの時と同じなのでは?)
カウント8あたりでアストロラビオ選手は立ち上がった。
が、再びマットに崩おれた。
その姿を見て私は(間違いない・・あれと同じだ)と思った。

レフェリーがアストロラビオ選手の頭を片手で抱え、もう一方を
天井に向けて伸ばし、素早く左右に振る。
ゴングを連打する音が会場に鳴り響き、歓声は怒号に変わった。
その怒号が私の耳元で、怒鳴り声となって遠くで響く。
『おい!大丈夫か?・・空蝉!おい!』

大昔、週に2、3回、1年半ほどジムに通っていた事を以前何かの
記事で書いた。
プロテストも受けてないし、リングで試合というものを一度も
した事がないただの練習生でしかなかったが、スパーリングは
しょっちゅうやらせてもらえた。

相手が確か8回戦だか6回戦までのB級だったかC級だったかの
とにかくライセンスを持ってる人だった。
つまり、れっきとしたプロである。
そのプロのボディブローを下腹部に(恐らくみぞおちに入れたらきつい、
と思ってくれたのだろう、その人はあえてみぞおちを外し、その下の
部分に入れてくれたのだと思う)まともに食らった私は、崩れるように
リングにうずくまった。

そのままうずくまって動けなくなったわけではなかった。
逆である。
動かずにはいられなくなった。

うずくまって少し経ってから私は立ち上がり、次に中腰になり、
また体を伸ばすと次の瞬間には再びリング上に崩おれた。
それからまた少したってはちょっとだけ先ほどと同じように動き、
またうずくまって動けなくなる、というのを数分間、繰り返した
と記憶している。

一言で言えば、身の置き所がなくなったのだ。
じっとしていたいのだが、じっとしていられなくなり、次いでまた
じっとせずにはいられなくなる。
私の頭はパニック状態だった。

(何だ?これ?・・・みぞおちに入れられた時と全然違う!・・)

先ほどインパクトの瞬間、アストロラビオ選手は腹部に力を入れた、
と書いた。
力を入れ、硬くなった腹部は体の胴体の一部としてある。
その胴体におおわれた中身は真空状態であり、内臓が置かれている。
みぞおちより下の腹部に打撃が加えられると、その打撃が内臓に伝える
のは、痛みではない。
(多少の痛みはあるが)

振動である。
真空である内臓が置かれている空間に、硬くなった分、より直接的に
打撃の振動が全ての内臓と胴体に覆われた真空の空間のすみずみまで
伝わる。すると、どうなるか?

一度立ち上がったアストロラビオ選手が、再びうずくまってから
ずっと動かずに耐えているのを見て、
(さすが、プロの世界ランカーは鍛え方が違う)と私は思った。
私はずっとじっとしてはいられなかった。
痛みで?

あの時はそう思った。
みぞおちに食らった時とは明らかに違う、鈍痛と鋭い痛みが混ざった
ような、それらが交互におとずれるような痛みがあったからである。
が、じっとしていられない理由は他にある、とも思った。

痛みだけで動かずにいられなくなったわけではない、という確信に
近い思いがあった。
その思いが一つの、今こうして書いているこの解釈に辿り着いたのは
あのボディブローを食らってから何年も経った後の事である。

とにかく少しの間、じっとしていなければいられず、少し経つと今度は
じっとしていられなくなる。
身の置き所がない。
体が求めているものを求めて、やたらと動きまわり、逆に全く動けなく
なり、を私は繰り返した。
何を求めて?

酸素、である。
その解釈に何年も経ってから私は辿り着いた。
空気は入っていく。
浅くだが、呼吸はできるのだ。
が、酸素を取り込む事ができない。
あの感じはそういう事だ、と思っている。

酸素を取り込むには、肺に酸素を取り込む必要がある。
肺に酸素を取り込むには、酸素を入れる事ができる空間が肺に
なければならない。
肺に膨張と収縮という反復運動をさせなくてはその空間はできない。
酸素は肺が膨張した時にできる空間に入り込む事によって体に
取り込まれる。

肺に反復運動を、”させる”?

そう、肺は膨張・収縮するが、自分で動く機能はない。
では何が肺を膨張・収縮させるのか?
肺をおおっている胸郭(肋骨が一杯ついてるヤツ)が拡大・縮小
する事により、胸腔(胸郭を含めた空間)内の圧が変動し、
その圧の変動によって肺が膨らみ、酸素を取り込める空間ができる。

では何が胸郭を拡大・縮小させるのか?
胸郭下部に付いているドーム状のもの、横隔膜である。
膜と命名されているが、横隔膜は筋肉である。
人体最大の吸気筋で、安静呼吸の7割を担っているとされている。
(野田市役所ホームページ、横隔膜と呼吸より)

この横隔膜が腹部と胸腔を分けており、吸気時、収縮する事で
胸郭を広げ、胸腔内を陰圧にする事で肺が膨らみ、胸腔内圧と
膨らんだ肺内の圧を等しく保とうと、膨らんだ肺の空間に空気
が流れ込み、酸素を体内に取り込む。

この時、横隔膜は、収縮すると下方、つまり腹部側に下がって
いく仕組みになっている。
中谷選手の左ストレートを下腹部に受けた事によって、その振動が
アストロラビオ選手の硬くなった腹部から胴体の真空を通ってその
真空内にある全ての内臓に直接伝わる。
そして全ての内臓と腹部内の空間すみずみまでが、激しく振動する。
その中を横隔膜は、下がっていけるのだろうか?
収縮できるのだろうか?

下方、つまり腹部へ下がろうにも振動で下がれなければ収縮する事が
できず、すると胸郭も広がらず、空気を入れる為の空間が肺内にできず、
従って酸素を体内に取り込めない、という状態になるのではあるまいか?

さて、この部分は途中で切るわけにはいくまい、と書いたら5000文字を
超えてしまった。
続きは次回に。

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