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The edge of お江戸-2

一文無しとなった嘉兵衛かへえ、居酒屋から居候先の貧乏長屋の一角へ、とぼとぼと歩いて帰っくると、罵声と枕が飛んできた。

「ただいまじゃねえこの野郎!」
「たたたた・・・何しよんねん!かったいの頭に・・これ木やぞ?
 真っ暗闇ん中よう当てられたな?」
「てめぇのおかげで油買う金もねぇんだよ!今時分までどこほっつき
 歩いてやがった?」
「やかましわ!ぬか漬けもよぉ作らんくせして、女房みたいな事
 ぬかしなはんな!」
「おめぇみてぇな老けたツラに女房なんかあってたまるか!」
「やかましい!顔のこたぁほっとけ!」
「何時だと思ってやがるこの薄らトンカチ!」
「わしゃ泳ぎは得意じゃ!」
「そういう意味じゃねぇやコンコンチキめ!寝てる所起こされる
 こっちの身にもなってみろってんだ!」
「ネタの仕込みに行っとったんやないかい!」

「ほおお!それはそれはご苦労さんなこって。で?いいネタぁ仕込め
 たんだろうな?毎晩毎晩遅くまでうろついてきやがって。
 ここんとこちっともおもしれぇ話書いてね・・・いやここんとこ
 どころじゃねえや、おめぇがおもしれぇの書いたの、
 ありゃ何年前の話だ?なあ?
 おかげで俺の商売もあがったりだ!そろそろ本気出してもらわねぇと
 おまんまも食えなくなるわけだこれが?なぁ?」

「人の気も知らんでアホんだら!わしかて必死に考えてんねん!」
「お?開き直りゃがったなコンチキショウめ。何を考えてんだ何を?
 考える考えるっておもしろくもねぇ話が油汗と一緒ンなって流れる
 だけで、それじゃ行灯もつかねぇときやがった!
 ガマガエル以下かてめぇは?」
「なんやとぉ?」「なんじゃあぁ?」

ドスン!バタン!と夜中の取っ組み合いの音に「うるさいっ!何時だと思ってんだい!」と隣のおかみさんの怒声どせいで、自分達のたてる音がどれぐらい響くか想像がついた二人は、動きを止めると、暗闇の中、
今度はぼそぼそ声でののしり合った。

「われ、本気で殴りよったやろ?」
「何言ってやがる、六分でしか殴ってねぇや、べらぼうめ」
「ガマガエルたぁあんまりな言いようや、わしがガマガエルならあんたは
 ボウフラやんけ」
「なんで俺がボウフラだ?」
「昼間っから棒もってふらふらしとるからや」
「俺が持ち歩いてんのは棒じゃなくて、木版の寸法はかる物差しだ、
 こんちくしょう」
「ほんまクチ悪いわこの人、年中怒ってばっかや」
「誰が怒らせてんだ誰が?え?」
「ボウフラやのぉてフグやな」
「黙れ薄らトンカチ」
「わしゃ泳げるちゅうねん」
「うるせぇ、寝る」

真っ暗な中、彫師ほりし吉次郎きちじろうが布団にもぐりこむ気配がする。
吉次郎、年の頃は二十八。嘉兵衛より二つほど年下だが向こう気が強く、
年上の嘉兵衛にも遠慮がない。

「吉やん・・・」

嘉兵衛は暗闇の中、布団の盛り上がった気配に向かって声をかけた。
居酒屋では孫四郎だけが飲み食いしており、嘉兵衛は何も食べていない。
どころか、朝から一日中何も食べていなかった。

「るせぇな・・俺ぁ寝てんだ」
「起きとるやないかい」
「寝てるっつぅの」
「なぁ?・・金貸してくれへん?」
「・・・・・」
「一文無しやねん」
「・・・・・」
「まだ屋台のうどん屋やってるやろ?」
「・・・・・」
「朝から何も食うてへんねん・・・」
「・・・・・」
「死にそうやゎ・・・」
「・・・・・」
「夜は何食うたんや?」
「・・・・・」
「卵焼き食べたいわぁ・・」

と、ガバッと布団の跳ねあがる気配がしたので、嘉兵衛は「おおきに、吉や」と言いかけた所でえりがグイと引っ張られ、そのままずるずるひきづられた。

「あいた!いたたたた!」と上がりかまちの所をドスン!と嘉兵衛の尻が思い切りもちをついても、なおずるずるとひきづっていく吉次郎、
実の所、朝は芋粥いもがゆを食べたものの夜は飯抜きであった。
卵焼きは吉次郎の大好物である。

それを言おうとした嘉兵衛だったが言葉を出す余裕もなく、ガラリと引き戸が開き、気が付くと外にほっぽり出されていた。

「出てけ!もう帰って来んな!」

そう声が上から降ってきたと思ったら、引き戸が嘉兵衛の目の前でぴしゃりと閉められ、中からつっかい棒のゴトリというくぐもった音が聞こえた。

あっけに取られて嘉兵衛は声もなくその場にへたりこんでいたが、ぐぅというお腹の音で我に返り、ふところから紙と筆と携帯用の墨壺すみつぼを取り出すと、何事か書いてそれを引き戸の脇の壁に唾で貼りつけ、よろよろと闇の中へ歩き出した。

翌朝。

目覚めて外に出ると、先に井戸をつかっていた隣に住む紗代さよが、早速他のかみさん連中の輪から抜け、近寄ってきたので吉次郎は顔をしかめた。

「ちょいと吉つぁん」
「悪かったよ、ゆんべは。あんまりにも腹がたっちまったもんでさ」
「最近しょっちゅうだねお宅ら。夜中にドッタンバッタンいい加減に
 しとくれよ!ここんとこ寝つきが悪くなっちまってんだよ、こっちは」
「悪い悪い。ごめんよ」
「で?嘉兵衛さんは?」
「それがどうやらいねぇみてぇなんだよな・・・」
「いないってどういう事さね?」

嘉兵衛がいないと聞こえた、井戸の周りで水を汲んだり、おしゃべりしてたおかみさん連中が手と口を止め、一斉にこっちを見るのがわかって吉次郎は内心(うわぁ・・・)と思いつつ紗代に言った。

「いやまさかほんとに出てくとは思わなくてよ、朝んなりゃ引き戸の横っち 
 ょにでも転がってンだろうと思ってたんだが、」
「はあ?あんた追ん出したのかぃ?」

紗代のひときわ大きな声に、井戸の周りにいたのが一斉に
動き出した。
(うそだろ?おい?嘉兵衛!勘弁しろよ!ほんとに出てくなよ。
 薄らトンカチが)

「ちょいと!吉つぁん!」
「いや泳げんのはわかってるって」
「何トンチンカンな事言ってんだい!どうしてくれんのさ!今日漬物石運ぶ
 のと大根刻むの嘉兵衛さんにお願いしようと思ってたんだよ?
 あんたやってくれんだろうね?」

かみさん連中に周りをぐるりと囲まれ、何か言おうとした吉次郎だが言葉を発するいとまも無かった。

「うちは物干しざお直してもらう事になってんだけど?」
「うちは壁に空いた穴修繕してもらう事になってんだよ。
 あんたがやってくれんだね?」
「近所の犬らへの餌やり、あんたに頼むって事でいいのかい?」
「うちは布あてだよ?吉つぁん、あんた裁縫さいほうできん
 だろうね?」
「そうか、もう9月になるもんね」
「そうそう、冬物につぎあてしとかなくちゃ、凍え死んじまうよ」
「吉つぁん、昼過ぎてからちょっとお使い頼めるかね?」
「うちは今日ぬか漬け作る日だから、よろしくね」
「うちは・・・」

「待った待った!勘弁してくれ!俺に出来っこねぇだろ?」
「何言ってんだい!この長屋じゃ長年嘉兵衛さんに色々頼み事聞いて
 もらって助けてもらってさ、お駄賃だちん程度だけど
 あたしらちゃんとお返しはしてきたんだ。
 彫屋だか何だか知らないが嘉兵衛さんのおはなし以外
 ほとんど仕事がないあんたがおまんま食えてんのはそのおかげ
 もあるだろう?
 追ん出したんだったら嘉兵衛さんの分、あんたにやってもらう
 のが筋ってもんさね、違うかい?」

紗代の口上に、周りのかみさん連中からそうだそうだの声が上がる。

「冗談言っちゃいけねえ!あいつ以外の彫りの仕事だってあらぁ!」
微々びびたるもんだろ?かわら版の仕事なんかとうに他所に
 もってかれたの、知ってんだからね、あたしゃ」
「い・・いや、まぁ、そ・・そんな事より!俺探してくっから!な?
 ちょっと待っててくんなぃ!な?」

「ちゃんと連れ帰ってきとくれよぉ?」という誰かの声を尻目に吉次郎は
そそくさと一旦家に入り、上っ張りを羽織って50cmほどの物差し片手に
外に出た。

引き戸を閉める時、横の壁に何やら紙が貼り付いているのに気がついて、
ペラリはがして見ればどうやら嘉兵衛が書き残していったものらしい。

恐らく暗闇の中で筆を走らせたのであろう。
ミミズがのたくったようなそれに書かれている“かな文字”は、こうとしか
読めなかった。

“おじやになりました”

吉次郎はそれを片手でくしゃりと丸め、懐に入れつつ嘉兵衛を探しに
歩き出した。

「あの野郎、あまりに腹が減って食い物になっちまいやがった」

<続く>

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