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The edge of お江戸-9

目の数を数えている余裕は吉次郎きちじろうには無かった。

乱暴な物言いでいきがっているが、元来がんらい根は一本気で曲がった事が嫌いなたちである。
ひたすら嘉兵衛かへえに、申し訳ない、という気持ちで一杯だった。

後家長屋ごけながやの吉次郎の部屋、座敷であぐらをかき、腕組み
して目を固く閉じ考え込んでいる嘉兵衛のそばで、吉次郎は
土下座してひたすら頭を下げ続けていた。

(この毛羽けばだちはただごとじゃねぇな、そろそろ替え時か?)

とあちこちささくれている茶色く変色した古いたたみを見ながら
吉次郎は思った。
目を数えている余裕は無いが、そういうのは目に入ってくる。
もっとも目を数えるなど細かすぎる行為は、単に性分に合わないだけかも
知れなかった。

「吉やん、もうええから顔上げなはれて」
「いや!ほんとに申し訳ねえと思ってる。おっちゃんが版元はんもと回りに行く時、こういう事になるような気はしてたんだ」
「おっちゃんではないけどな・・しっかし、なるほどなぁ。
せやから自分達で売ろう言うてたわけか・・・」
「すまなかった」

昼間、嘉兵衛が版元を回った時である。

1軒目でことわられ、今度はどうかと2軒目の暖簾のれん
をくぐってみれば、嘉兵衛のト書きに一通り目を通した版元の番頭さん、
やにわに算盤そろばんを取り上げるとチャッチャと玉を転がし、
止めた所で嘉兵衛の目の前に差し出して、こう言った。

「こんな所で、如何いかがでしょう?」

(ほれ!見てみぃ!)
と嘉兵衛は内心、快哉かいさいを叫んだ。

算盤の数字は、“これだけ出すんなら、店先に置いてやってもいいよ”
という額である。
安くはない。

しちに入れられるものなど無いから、金貸しを頼るしか
無さそうだ。が、今回はここから値切れるかもしれない。
さきさんが了承りょうしょうしてくれればだが。

「おおきに、ありがとうおます。そいで、ちょいと物は相談なんやけど」
「何でしょう?」
りの分だけ、こっから引いてもらうというのは無理な
相談でっしゃろか?」

そう言って嘉兵衛が風呂敷ふろしきの包みを解くと、
四隅よすみをぴしっとそろえた、茶色の板28枚のかたまりが現れた。

「ほぉ・・これは・・もう板は出来上がってるという事ですかな?」

と番頭さんは少々驚いた様子でのけぞってみせた。

「へぇ・・このでいきたい思てますねんけど・・むずかしですやろか?」

番頭は渋い表情をしてみせた。
当然であろう。
本来、彫りも版元で請け負い、お抱えの彫師ほりしに彫らせた
木版もくはんって製本するのが普通である。
絵草紙えぞうしにするまでの過程で、一番金のかかる工程がこの彫りだった。

通常、売れない書き屋がそれなりの腕をもった彫師と組んで、版元
に持ち込む事はまずない。
腕のある彫師なら、大抵はどこかの版元から仕事をもらえるわけで、
わざわざ売れるか売れないかもわからないはなしに、自分の金を持ち出してまで彫る物好きは、いない。

そんなわけで番頭への嘉兵衛の頼みは異例と言って良かった。
渋い表情に、(そんな話は聞いた事もない)という思いをにじ
せ考え込んでいる番頭に嘉兵衛はたたみかけた。

「一度見てもらえまへんか?この画。
持ち込んでるわぃが言うのも何でっけど、ええ画なんですわ」

と吉次郎の木版を一枚、困惑こんわくした顔の番頭の手にもたせるようにすると番頭、少しく目を見開いて画に見入った。

(どうや!吉やんのお手前てまえは!)
「これは・・・」

と言ったきり言葉が出てこない番頭、木版を斜めにしたり画を逆さまにしたりしてながめまわしてから、ようやく口を開いた。

「これを彫られた彫師の方、何とおっしゃるんで?」
「へぇ、吉次郎言いましてな、まだ23という若さですゎ。
これから先が楽しみな、」

トスンという音とともに嘉兵衛の言葉が途切れた。
同時に嘉兵衛には珍しく、血が頭に一気に昇った。

「な!・・何してんのや!」

番頭は、吉次郎の木版を嘉兵衛の目の前にほうり投げたのである。
思わず叫んで顔を上げると、さきほどまでとは打って変わった番頭の、冷え切った眼差まなざしが嘉兵衛を射抜いた。

「このお話、無かった事にして使ぁさい」

言うや番頭は立ち上がりながら向きを変え、のれんを分けて
奥へ入ろうとする。

「ちょ!・・・どういう事でっか?」

番頭はにべもく、振り返りもせずに言った。

「どこかで見たような気はしたんだが・・先に聞いておいて良かった。
あいつの汚らわしい画で刷った地本じほんがうちののれんから
出るなんざ、天地がひっくり返ってもあり得ませんや。お引き取りを」

押し殺した声で放り捨てるようにそう言って番頭は、
さっさと奥へ行ってしまった。

茫然ぼうぜんとそれを見送った嘉兵衛、しばらく動く事もでき
なかったがやがてのろのろと荷をまとめると、そそくさと店をした。

(何やったんや?今のは?)

と思いながら。

それでも、と気を取り直して3軒目を訪ねた。
結果は同じだった。
ただ、番頭の応じ方が2軒目と違っていた。

算盤はじいて額を提示してくれた所までは同じだった。
出来上がった木版があるから、彫りの分を引いてもらうというのはどうか、と嘉兵衛が言うと、気のよさそうな小太りの番頭、大げさに目を見開いて
みせた。

「ほぉ~、そいつぁ珍しい!話を聞いた事ぁあるけどねぇ、書き屋さんが
木版持ち込みできたてな事があったとか無かったとか、版元仲間にね。
いやいずれにしてもそんな事めったにあるもんじゃねぇや。
あたしもこの商売長いけど、そういうのは初めてでさ。
とりあえず、ちょいと、画を見させてもらえますかね?」

そこで嘉兵衛が恐る恐る手渡した1枚目の木版を一瞥いちべつした
番頭の、にこにこと愛想の良かったその顔から笑いが消えた。
しばらく、真顔まがおでじぃっと画を見据えていた番頭、
やがて画から目を離さずにこう言った。

「嘉兵衛さん・・でしたか?」

声色こわいろも先ほどまでの明るい調子でなく、りんとした響きに変わっている。

「へ、へぇ・・嘉兵衛だす」
「もしかしてこの画を彫った奴ぁ・・後家長屋ごけながやと言われてる所に住んでやしませんか?」

嘉兵衛は息を飲んだ。
ごくりという音が、しんとなった店先でやけに大きく響いた。

「やっぱりそうですかぃ・・」

木版の四辺の一角いっかくたたみとぶつかり合って、トスンという、2軒目の時と同じような音をたてた。
番頭は、視線が定まらぬような“てい”で、あらぬ方を見ていた。

力なく腕をだらりと下げたその指は、対角にある木版のもう一角に、
名残惜なごりおしそうに引っかかったままだった。

それは放り投げたというよりも、木版を持っている事に耐えかねて力が
抜けて畳に落ちたというような感じで、余所よそ行きの飾りが
全部抜け落ちた、素のままの顔に我知らずなっている番頭は、
こうつぶやいた。

「あの野郎・・また腕ぇ上げやがった・・」

真顔になったその口元には、さみしそうな微笑みが浮かんでいた。

<続く>

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