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The edge of お江戸-10

八兵衛はちべえさん、元気だったかぃ?」
 
正座をしたままそう聞いた吉次郎きちじろうの声は、ややかすれていた。
 
「おんなじ事聞きよんねんな」
 
嘉兵衛かへえは笑った。
 
「おんなじ事?」
「番頭さんも、“あいつ元気にしてますかぃ?”て。笑いながら聞いてきはったわ。えらい寂しそぅな顔やったけど」
「そうかい・・・」
 
八兵衛というのは、今日、嘉兵衛が自分のはなしを出版してもらおうと、吉次郎が彫った木版を持って回った3つの版元はんもとのうち、3軒目の版元の番頭ばんとうである。
小太りで人の良さそうな笑顔の中にも、目には油断のならない光をたたえていて、木版もくはんを見るや一目で吉次郎が彫ったと見抜いた。
 
1軒目はト書きの噺を読んだだけで断られたが、2軒目と八兵衛の所はト書きを読むと算盤そろばんで額を提示してくれた。
 
木版を見せた時、彫られたの見事さに驚いていた2軒目の番頭が、“吉次郎”の名を聞いた途端手のひらをかえすように、“あいつの木版でうちから地本じほんは絶対に出さない“とつっけんどんに断られ、訳が分からないまま3軒目に行くと、見るなり吉次郎が彫ったと気づいた八兵衛は、力なく手にした木版をたたみに落としながら、添えた片手の指を板の一角にひっかけたまま、“また腕上げやがった”とさびしそうな笑顔を浮かべていた。
 
『吉やんの事・・ご存知なんですな?』
『おたく・・嘉兵衛さんでしたな・・吉次郎とはどういう?』
『今一緒に住んでますねん』
『あいつと?そら、ご愁傷しゅうしょう様としか言いようがありませんが』
『というか、わいが居候してますねんけど』
『・・・苦痛を感じるのがお好きという趣味がおありで?』
『いや別にそういうわけやおまへんけど』

それから八兵衛と名乗った番頭は、駆け出しの頃から吉次郎を知っていて、目をかけ、“いい削り方しやがるなぁと思ってね”と、まぶしそうな顔で、何人か書き屋を紹介していくうち、めきめき力をつけていったなどと、昔話を嘉兵衛にしてくれた。
 
『八兵衛はん、その、吉やんは・・・』
『今頃ぁ、江戸で五本の指に入る彫師ほりしんなっててもおかしくねぇです』
 
八兵衛は、物問いたげな嘉兵衛の素振りに気づきながらしゃべるのをやめようとはしなかった。
 
『画がうまいとかへたとかそういうんじゃなくてね』
『あ・・へぇ・・』
粗削あらけずりなんだけど、あいつの彫りが通った跡ってな、なんてぇか人肌みてぇな妙な生々なまなましさがあってね』
『そうでっか・・』
『久しぶりに今日、それを拝んで・・そしたら一段と・・』
『八兵衛はん・・あの、』
『板の上で画が踊ってやがる』
 
そう言って八兵衛は嬉しそうに破顔一笑はがんいっしょうした。
 
『何やったんでっか?吉やんは?』
『・・・またあいつの地本が読みたくなっちまいましたよ・・・』
『・・・・・』
 
それから八兵衛は顔を下に向け、うつむいたままくぐもった声を出した。
 
『・・そいつぁ、本人に聞いておくんなぃ』
 
言いながら顔を上げ、嘉兵衛に向き直る。
 
『あたしの口からってのはね・・あいつがどう言うか・・』
『・・・込み入ってると?・・その・・事情いうんか・・』
『吉の奴が、自分の中でどうけじめをつけたんだか・・』
『けじめ?』
 
嘉兵衛の目から視線を外して、八兵衛は言った。
 
『それともけじめなんぞつけようもねぇのか』
『・・・・・』
『そういう事になってるが、俺にはどうもそうじゃねえような気がしてね。
吉の奴が結局自分でそういう事にして、地本から足抜いちまいやがった
と、そう思えてならねぇんでさ』

(なるほど面倒くさい事になっとると・・一筋縄ひとすじなわやないちゅう事か)と嘉兵衛は思った。
 
『逃げたんだか、あきらめたんだか・・』
『よくわかりまへんが・・・よくわかりました』
 
嘉兵衛は持ってきた風呂敷ふろしきを広げ、その上に乗せた木版の
四隅よすみそろえると、丁寧ていねいに包み始めた。
 
『あれほど地本の板を彫るのが好きな奴ってのも珍しくてね』
 
八兵衛が嘉兵衛に目を戻して笑うと、下を向いてる嘉兵衛の顔にもうっすらと笑みが浮かんだ。
 
『そうみたいでんな・・・』
 
言いながら、はしっこでわえる。
 
『嘉兵衛さん』
 
顔を上げると、八兵衛の真剣な目とぶつかった。
 
『俺が知る限り、奴の気性からとても逃げるなんて事ぁやるとは思えねぇ。
また地本の彫師をあきらめるってのも考えられねえんです。それが証拠にあなたのはなしめいも彫らずに画をつけてる』
 
二人の間の畳の上にちょこんと置いてある、嘉兵衛が今てっぺんを結わえた
ばかりの風呂敷包みを八兵衛は指さした。
 
ふしくれだったその人差し指の、第二関節の脇にほんの小さなタコがある
のを一瞥いちべつしてから、嘉兵衛は顔を上げた。
 
『まぁ、わぃにできる事なんぞあらしまへんが』
『嘉兵衛さん、店に入ってきた時と随分顔つきが違ってますな』
『・・・彫りの名人は、老け顔や言いまっせ。まだ25やのに。
おっちゃんて呼ばれてますゎ』
『やっぱり苦痛を感じるのがご趣味なのでは?』
『冗談はやめとくなはれ・・・ま、とりあえず帰って本人に聞いて
みますゎ』
 
嘉兵衛は風呂敷包みを手にした。
 
『できれば、戻してやりてぇんです・・難しいのはわかっちゃいる
んですがね』
 
首をかしげ、思案顔で八兵衛はつぶやいた。
 
吉次郎は、その八兵衛の店を出て帰った嘉兵衛の疑わし気な目を見て、
全てをさっしたかのように、長屋の自分の部屋の前で、
“やっぱり俺のせいで駄目だったか”といきなり土下座をした。
 
嘉兵衛がなだめながら、部屋に上げると吉次郎、座敷の上でも正座をする。
 
『吉やん、ええから普通に座りぃな』
『そうはいかねぇ』
 
と畳に落としたその目は真剣そのもので、どうあっても正座を崩す
気配はない。
 
どうしようかと思いつつ、ならば、この吉次郎が版元から地本を出してもらえなくなったのは一体何をやったからなのか、それを聞こうと嘉兵衛が、何をどう切り出すかと考え始めた所へ、だしぬけにポツリと言葉が目の前にこぼれ落ちてきた。
 
け売りだ・・・』
『・・・え?』
『抜・け・売・り、だよ・・版元が俺をめ出してる理由は』
 
嘉兵衛の胸の内を見透かしたかのように、顔を横にそむけながら
吉次郎は言った。
 
多数の物乃本屋があった京で、最初に“こう”ができたのはもう
百年以上前の事である。
本屋同士の相互扶助そうごふじょともなった共同体のようなものだった。
大坂でも講が生まれ、次いで江戸にもできた。江戸では“組”と呼ばれた。
 
八代将軍吉宗の頃だったか、その講、あるいは組が、お上のお達しで、本屋仲間、江戸では書物仲間とも言うが、公的な組合仲間として組織された。
 
以降、公的な出版はこの本屋仲間(書物仲間)を通して行われるように
なった。
 
月一で、忙しい時には月に二、三度、本屋仲間(書物仲間)の寄り合いがあり、それを“行司ぎょうじ”と呼ばれる月毎つきごとで持ち回りの世話役が仕切る。
 
古本や板木いたぎの市などもよおしに関わる事や、組合への新規参入などの手続き、新しい噺への添章そえしょうの発行、新刊本の献本けんぽん処理などが行われた。
 
添章とは、奉行所から出版の許可が出たものに行司が印を押したもので、
この添章によって公的に認められた本として出版され、四都(京、大坂、
江戸、尾張)で流通できるようになる。
 
添章の無いものを私家板しかはんといい、こちらはこちらで出版し、本屋で売られてもいたが、内容が添章ありの本と同じものだったり、一部を真似たり内容が似ていたりすると、その申し立てがこの仲間の寄り合いに寄せられる。
 
内容が全く同じで、今でいう海賊版の事を重板じゅうはんといい、一部を真似たり内容が似ているものを類板るいはんといった。
 
仲間の寄り合いで、仕事の割合の多くが、この重板や類板の申し立ての処理で占められていた。
 
『抜け売りて・・・』
『重板だ・・』
『玄人のあんたが重板を出したんか?』
『それも自分が彫って一度出した絵草紙の、な・・・』
 
顔を歪めながら、吉次郎はうめくように言った。
その横顔をみつめながら、嘉兵衛は思った。
 
(こら面倒そうや・・・)
 
八兵衛の言葉が頭をよぎる。
 
“『そういう事になってるが、俺にはどうもそうじゃねえような気がしてね。
吉の奴が結局自分でそういう事にして、地本から足抜いちまいやがった
と、そう思えてならねぇんでさ』“
 
付き合いはまだ短かい。
が、嘉兵衛は、もう吉次郎のケツの毛穴の数まで知っているような気になっていた。目の前の様子からして、重板を出した事に嘘はあるまい。
 
だが。
 
心の中でこう呟いた嘉兵衛の中には、疑念しかなかった。

(知ってるか吉やん?・・荷物がかかえきれん時はちぃと人の肩ぁ
借りるもんやで?)

それは、吉次郎への確信の上に成り立つ疑念だった。
 
<続く> 

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