The edge of お江戸-3
二晩目である。
嘉兵衛は、今や自分がどこにいるのかさえわからなくなっていた。
二晩目、すなわち居候先の吉次郎に追い出された晩から、明けて
その日も終わろうという夜。
追い出された日と、その翌日である今日とこれで丸二日、
何も食べていない。
夜の帳はとうにおりており、今時分、何刻かもわからぬまま
嘉兵衛は、目に入った板の上にどおと倒れこんだ。
打ち捨てられた空の大八車の上だと気づいたのは後の事だった。
もはや空腹感は無く、ただ体に力が入らず、歩こうとすると膝から下が
ぶるぶると震えて思うように足が動かせなくなっていた。
(わい・・・このまま死ぬんやな・・・つまらん一生やったゎ・・・
大坂帰りたかったにのぉ・・・涙も出てこん)
感情も感覚も麻痺してるのか、何も感じなかった。
このまま目を閉じれば、それでこのつまらん一生も終わるんやな、とそんな事が頭の隅にぼんやりと浮かぶだけだった。
(閻魔はんてどないな顔してんねやろ?・・・
やっぱおっき体してんねやろか?)
どれくらい経ったであろうか?
体をゆすられて嘉兵衛はかすかに目を開いた。
「おい、起きろって・・まだ寒さも七分どころって時分だが、
さすがにこんな板の上で何にも掛けずに寝てちゃ
風邪引くぜ?・・あれ?」
体の揺れが止まったところで、嘉兵衛はぱっちりと目を開けた。
月明りを背に覗き込んでくる相手の顔は、逆光でよく見えない。
が、羽織袴できっちりした身なりをしているのはわかった。
「おめぇ・・・絵草紙書きの・・何とか言うヤツじゃねぇのか?」
「え・・えんまはんも袴はくんだっか?」
「何言ってやがんだ?お前さん、大坂へ帰ったんじゃねぇのかい?」
「地獄からでも帰れまっか?大坂?」
「おい、しっかりしろよ。この世は確かに地獄みてぇなもんだから、
あながち間違っちゃいねぇが。
それにしてもお前さん、ひどい顔してるなぁ」
「生まれつきでんがな、ほっときなはれ」
「そういう意味じゃねぇよ」
素性もわからぬ羽織袴の手に助けられ、嘉兵衛はようやく半身を起こした。
正気をやや取り戻したものの頭はまだぼーっとしたまま、助け起こしてくれた羽織袴を見ているが、目線は相手を通り抜けた遠くを泳いでいる。
「覚えてねぇか?確か4、5年めぇに会った・・ほれ」
羽織袴が月明りに照らされる方へ顔を少しそむけると、見覚えのある
馬のように面長の顔が青白く浮かんだ。
一辺に正気が戻った嘉兵衛は素っ頓狂な声を上げた。
「は!・・・八丁堀の旦那ぁ!」
「しぃっ!夜更けにでけぇ声・・・おいっ!こら!」
「旦那ぁあああっ!」
思わず八丁堀に抱き着いた嘉兵衛の目からは、溢れ出した涙が次から
次へと流れ落ちた。
「おめぇっ!やいっ!離しやがれっ!」
「旦那ああああっ!」
年の頃40半ばである八丁堀の旦那は、南町奉行所の万年ヒラのお役人、
屋台で一杯ひっかけての帰り道、使い古しの大八車の上でおおいびき
をかいてる奴がいたものだから、お役目柄素通りするのも何だと思い、
かといって岡っ引きを呼びに番所へ引き返すのも面倒なので、とりあ
えず形だけでも声をかけておこうとしたのだった。
嘉兵衛と八丁堀が初めて会ったのは5年前、嘉兵衛が大坂から日光東照宮
までの一人旅を終え、しばらく経ってからの事だった。
吉次郎と知り合ったのは、それよりも前の事、旅の途上だった。
5年前、大坂から一人、長旅でふらふらになりながら嘉兵衛が東照宮にたどり着いた時の事。
着いて早々、本殿前で手を合わせる嘉兵衛の閉じた目の闇の向こう、すーっと白装束に白髪頭、白髭流々と膝まで伸びた翁が突然現れた。
(い!・・家康公!)とは嘉兵衛が勝手に思い込んだだけで、
翁は名乗ってもいない。
恐ろしくなった嘉兵衛は目を開けようとしたが開かなかった。
堅く閉じられた瞼を押し上げる事ができず、手のひらとひら
を合わせた両手を引き離す事もできず、やがて顔や背中にびっしょり脂汗
をかいて、がたがた震え始めた。
お参りの順番を待っていた老齢のお婆さんが、大層心配そうに斜め後ろから嘉兵衛をのぞきこみ、「おめさん、だいじょぶか?腹でも下してんのか?」と聞くが、嘉兵衛には聞こえない。
翁は猿達を見るでもなく、空をゆっくりと見回しながらにこにこと笑っている。
よく見ると犬が一匹混じっていた。
それと翁は片手に何やら丸いものを持っている。
猿達と一匹の犬はその丸いものが欲しくて、翁の周りをぐるぐる回っているような、とそう思った瞬間、目があいた。
同時に手を引き離す事もできた。
汗びっしょりになりながらも震えが止まった嘉兵衛は、恐ろしさも消え去り、かわりに異様な興奮に包まれていた。
(これはお告げに違いない!)
「これ、ちり紙やっから、な?あっちの茂みさ行って
そん中でたれろ?な?」
唐突に斜め後ろから紙の束を差し出された嘉兵衛は(これまたお告げだ!)と思い、くれた老婆の手を両手で握りしめると、気味悪そうに手を引っ込めようとする老婆をぐいと引っ張り、「おおきに!おばあさん!かたじけない!」とその束片手に、お婆さんが指さした方向へと一目散に駆けだした。
茂みの所まで、一気に走ってきた嘉兵衛は、その勢いのまま地面に伏せ、懐から筆と携帯用の墨壺を取り出し、老婆がくれた紙に一心不乱に文字を
書き連ねた。
お告げ、と嘉兵衛が思い込んだ先ほど翁が出てきた情景を思い浮かべながら、半ば勝手に言葉が溢れ出てきて、わき目もふらずに文字を
綴った。
すると、脇の茂みの方でガサガサと音がする。
が、そんな事を気にしていられる嘉兵衛では無かった。
「おい!・・・おい!」
と茂みの中から声が聞こえてくる。
嘉兵衛にとってそれは虫が鳴いてるような音にしか感じられなかった。
何としても今、頭の中で溢れかえっている言葉達をこの紙に書きつけていかなければ、やがて泡になって消えてしまう、といった強迫観念にかられ、
嘉兵衛は筆を動かし続けていた。
「やい!てめぇは〇ンボか?聞こえねぇのかい?」
と先ほどからの声が大きくなった所でやっと顔を上げ、響いてきた方向を見た嘉兵衛は、茂みから顔だけ出してる若い男と目があった。
その距離、約2間半(約3メートル)であった。
<続く>