The edge of お江戸-6
日光からの帰り道、江戸に入る前日に一泊した旅籠で、嘉兵衛が徹夜して書き上げたお噺を、吉次郎は約ひと月かけて木版画28枚に彫り上げた。
この間、ちょこちょこ次の噺を書いたりしていた嘉兵衛だったが、それより別の事で忙しいひと月を過ごす事になった。
吉次郎がまだ1枚目を彫り始めた頃、ちょうどひと月ほど前の事である。
何もやる事がない嘉兵衛が所在無げにしていると、「街でも見てきたらどうだい?」と、木版に向かって彫り刀を動かしながらの吉次郎に言われ、そうしてみまひょか、と、見物がてら江戸の街をぶらぶらと歩いてみた。
元来好奇心が強い嘉兵衛は、物珍しさに“へぇ、ほぉ”と最初のうちは顔を右上、左下と動かしていたが、元々何となく落ち着かない気分だった事もあってか、そのうちすぐに手持無沙汰な心待ちになり、早々に居候先の長屋へと戻った。
帰ってみると、ひとりのおかみさんが出入口の引き戸の際に体を預け、中で彫り刀を動かす吉次郎と何かしゃべっているところだった。
「おや!もうお帰りかい?」
戻ってきた嘉兵衛に気づいたおかみさんが、相変わらずの腕組みで引き戸に体を預けた姿勢のまま声をかけてくる。
この長屋に住んでる人なんだろう、と見当をつけて嘉兵衛は愛想笑いを浮かべながら言葉を返した。
「あ、どうも、嘉兵衛いうもんだす」
「知ってるよ。隣に住んでる紗代といいます」
「こらまたご丁寧に。よろしゅう」
頭を下げ合った二人。
「今、吉っつぁんからお宅さんの話を聞いてたんだよ」
「さいでっか。何を言われたやら、恐ろしおまんな」
「ぷっ!おまんな?ちょいと吉つぁん、おまんなだってよ。
何?おまんなって?」
すると中から吉次郎が何か答えたが、何と言ったか出入口から少し離れている嘉兵衛までは聞こえてこず、「わははは」と吉次郎の言葉でこみあげてきた笑いの波に体を“く”の字に曲げる紗代を目の前にして、何と言葉をかけて良いやら嘉兵衛は苦笑いを浮かべてそこに立ってるだけの風情となった。
笑い転げるお紗代さん、見たところ25才の嘉兵衛より少し年上の
感じである。
大きな目を細めて小気味良く笑うその丸顔は愛嬌に満ちていて、小柄だが骨太で丈夫そうな肉付きをした体が、曲げた状態からしゃんと背筋を伸ばすと、案外小さくは見えない。
「ごめんなさいよ、おかしくてさ、つい」
「いやいや、江戸の人からしたら西の言い回しは変な感じですやろ?
それにしてもきょうは天気の塩梅がええですゎ。これで懐の塩梅が良けりゃ言う事なしですな。どないです?儲かってまっか?」
と満面に笑みを浮かべて嘉兵衛がそう言うと、すっと紗代が真顔になった。
顔色もやや蒼白気味に変わったのを見て、内心嘉兵衛は(え?)と
少し驚く。
子供の頃から人と話すのに抵抗を感じた事のない嘉兵衛は、誰とでも
如才なく話せる事もあって打ち解けるのが早い。
今もこれまでのように早く打ち解けようと、いつも通りの言葉をかけただけだったのだが。
「ちょいと!嘉兵衛さんだったね?」
「へ?へ、へぇ・・あの、」
「喧嘩売ってんのかい?」
「へぁ?・・いえいえいえいえ!とんでもおまへんがな!」
「ぷっ!・・・笑わして誤魔化そうったってそうは問屋が
卸すかぃ!」
(吹き出したかと思えば、またイキりだしたり、忙しい人やな)
「そうまでなめられちゃあ、黙っちゃいられないね!」
「いや、あのちょぉ、待っとくなはれ」
「ぶふぅっ!・・何がくなはれだ!ひはははは」
「いや笑うか怒るかどっちかにしなはれ」
「しははっ!しなはれ!ひゃははははははは!」
「今朝何食うたんですか?一体?」
嘉兵衛の言葉など耳に入らず、またも紗代は体を“く”の字に曲げた。
(笑い上戸ちゅうやつやな)と、再び怒り出されたくない嘉兵衛は、つい独り言として漏れないように、口元を固くし心で思う。
ひとしきり笑ってから紗代は、もう一度真顔に戻って言った。
「あらためて嘉兵衛さん」
「あ、はい」
「さんざん笑い倒した後で何だけどね」
「いえ、あの、わて、何か気に障るような事でも、」
「気に障るもへちまもないよ!言うに事欠いて儲かってますかたぁ
言ってくれるもんだね!」
「あ!・・いやあの、それ、西の方では挨拶でして、」
「ああご挨拶だね!全くだ!」
「はい、あの・・へぇ・・挨拶でっけど・・」
「・・・だから随分なご挨拶だっつってんだよ!」
「す!すんまへん!・・あの、挨拶・・したらあかんのですやろか?」
「はあ?いよいよもってますますただ事じゃないねこの人ぁ!
冗談じゃないよ!」
「ちょ、ちょっと待っとくなはい、何か勘違いを」
「勘違いで誤魔化そうたぁいい度胸だ!表へ出ろぃ!」
「いやここ表でっけど」
「い!・・わかってるよんなこたぁ!そうじゃなくてさ!」
部屋の中から吉次郎の笑い声が聞こえてくる。
(何かわかってるんやったら、出てきて何とか言うてくれたら
えぇやないか!)
と思いながらも嘉兵衛は、へたに吉次郎に声をかけようもんなら
目の前の癇癪玉がどんな弾け方をするかわかったもんじゃないので、今はなだめる事に専念しようと心に決めた。
「あの、おかみさ」
「うるさい!あたしがしゃべってんだ!黙って聞きない!」
「へぇ・・すんまへん」
「何もあたしだってね、好きで女やもめの貧乏暮らししてるわけじゃ
ないんだ。ふらっと出ていっちまったきり3年も音沙汰無しのクズ野郎の事なんかきれいさっぱり忘れさせてくれる儲け話でもありゃ、そりゃ飛びつきたいような毎日さね!それをお前さん、へらへら笑って儲かってますかなんぞ言われた日にゃあ、そこまでおちょくられて黙ってられるお紗代さんじゃないんだ!」
「えらいすんまへんでした。その、どうすればよろしか、おっしゃってもらえまへんか?」
心の機微を嗅ぎ取る勘所においては天下一品の嘉兵衛、挨拶だなんだとへたに言い訳すればなお泥沼になると見切って一切言い訳をせず、黙って紗代に従うのが一番と考えた。
「ついてきなぃ」
と、紗代。
嘉兵衛はおとなしくついていった。
のが、まだ昼前の事であった。
夕餉の刻限になった今時分になっても、まだ帰ってこない。
いい加減不安になってきた吉次郎だったが、それでも彫り刀の動きは止まらず、ジョリッ、ジョリッという音だけが室内に響いていた。
と、閉めた引き戸の向こう、表の方からくぐもった声が響いてくる。
「ありがとう!本っっ当に助かりました!ありがとうね、ありがとうございます!」
吉次郎の彫り刀の動きが止まった。
(あれぁお紗代さんの声かぇ?)
戸を間に挟んでくぐもって聞こえるその声が、いつもよりかなり高い事がはっきりとわかった吉次郎には、同一人物のものとは思えないほどよそ行きに聞こえた。
「たいした事ぁおまへん、それよりえぇんでっか?こんなにぎょうさん、」
「いいのいいの、右隣は吉っつぁんだけど左のおさきさん、女だてらに棒手振やっててさ、売れ残った魚があった時ゃこの長屋中に配ってくれんのさ」
「かえってすんまへんなぁ、えらいおおきに」
「そんなに大きくないよ、このさんま。まだ秋口んなろうって
時だからさぁ」
「へ?・・あ!そうでっか!それはそれは!」
「吉っつぁんによろしくね!ホントありがとう。
ありがとうございました!」
吉次郎の彫り刀は止まったままだった。
(声、いつもと全然違うじゃねぇか・・一体?)
と、引き戸が開いて嘉兵衛が入ってくる。
が、片手にこぶりの桶をかかえ、もう片手一杯に風呂敷のような布袋を3つもぶら下げているものだから、戸が閉められない。
「ちっと吉やん、閉めてくれへん?わい手が・・・」
「お、おぅ」
立ち上がった吉次郎、一日中座っていたからか、両足にしびれが走ってよろよろとよろけつつ、出入口へと向かった。
「ひやー!ぎょうさんの頂きモンでっせ!今夜の夕餉はこの年で
一番豪勢や!」
桶と布袋を置くと、嘉兵衛は吉次郎に中身を報告し出した。
「さんま二尾!煮干しの煮たの!大根のつけもん!ごぼうを昆布で
巻いたの!それと卵焼き!お紗代はん、焼いてくれはったんや!
吉やん大好物なんやてな?それにこっちはこれ!お紗代はんが
わいと吉やんにて!にぎり飯!八個も握ってくれたわ!」
戸を閉めた吉次郎は、(長年、隣同士で暮らしてきて、こんだけのモンもらった事今まで一回もねぇぞ俺?)と思いながら、見下ろす剥いた目を、嘉兵衛が運び入れた数々の品物にすえたまま、呟くように言った。
「誰かんとこで赤んぼでも生まれたかい?」
「それやったら赤飯がいるがな。わてへのお礼やて。
こんなにぎょうさん!」
吉次郎は品物から、にこにことした嘉兵衛の笑顔に目線を移した。
「おっちゃん・・・何やったんだ?一体?」