「徒花-ADABANA」レビュー 残念な映画と優れた映画の分岐点とは
10月18日公開の「徒花-ADABANA」を観てきました。
ウイルスが蔓延したディストピアで、延命戦略として自分とそっくりなクローンが育成されている。
病気になったときはクローンから臓器を提供してもらう。
といったあらすじです。
なんですが、正直なところあんまり面白くなかった笑
ただつまらないという感想で終わってもしょうがないので、今回はこの「徒花-ADABANA」を題材に、つまらない映画の共通点とはなにかについて掘り下げていきましょう。
同時に、良い映画は何で決まるのか、といったところにもアプローチを試みていきます。
「徒花-ADABANA」の面白かったところ
この世界では、クローンは本体に欠陥が生じたときのスペア用としての命でしかないため、本体への崇拝を洗脳されています。
本体の「良い記憶」のみをVRで体験させられ、自分とそっくりな姿をした本体のことは、神様のように「何か良いもの、素敵なもの、素晴らしいもの」としての刷り込みが行われているわけです。
そうした中で、病気を抱えてクローンからの臓器移植を待つ井浦新が自分のクローンと対面するわけですが、この演じ分けは素晴らしかった。
自分の人生に鬱屈を抱えた本体・井浦新と、虚構としての素晴らしい世界に憧れる夢見心地なクローン・井浦新。
同じ外見であっても全く別の人物に見えるという、これは彼にしかできない演技でした。
「徒花-ADABANA」の面白くなかったところ
井浦新の素晴らしい演技にも拘らず、なぜ私がこの映画をつまらないと感じてしまったのか。
その理由は4つです。
冗長で陳腐な状況説明
多くの失敗した邦画によくある残念なポイントですが、「徒花-ADABANA」でも状況説明を登場人物にさせてしまうのが冗長かつ陳腐に感じました。
この世界はどういう所で、どういう葛藤があって、ここに暮らす人々はどういうことで困っていて、というのが作品の冒頭でモブおばさんによって語られるのですが、演技も棒読みだし説明的です。
解説シーンではない普通の会話のなかで状況説明を人物にさせてしまってるので、余計に嘘臭く感じます。
やはり、映画というものは言葉ではなく画で語らなければいけないという風に私は思います。
ここが成功している例のひとつが、「私の叔父さん」という作品です。
農場で暮らす体の不自由な叔父と姪の暮らしが描かれ、説明的なシーンは一切ありません。
言葉を交わさずとも阿吽の呼吸で淡々と生活する風景が映されることで、この二人が何年も変わらない暮らしを続けてきたことが一切説明がないにも関わらず伝わります。
優れた映画は観客を信頼しており、言葉によってではなく緻密にシーンを描くことで伝えるべきことを伝えていると言えるでしょう。
主人公に動機がない
2つ目の残念ポイントは、最後まで主人公である新次の動機がよく分からないことです。
新次というキャラクターは、どうやら人生には失望しているということはなんとなくわかるんですが、行動の動機となるような明確な目的がありません。
目的がないので新次は行動をしません。
行動しないので中々シーンが動きません。
動かないシーンは非常に退屈ですので、結果中身のない雰囲気映画のように見えてしまいます。
最終的にはクローンに人生を明け渡そうとしているというという流れが何となくは見えるもののそれも終盤のシーンですし、なぜ失望しているのかという描写もないので動機が見えず、観ている側としてはライドするのが中々難しかったです。
一方優れた映画の共通点として、脚本術などでは「主人公に動機を据える」ということがまず真っ先に教えられます。
「ジョーカー」では社会に虐げられるアーサーの姿を追うことで復讐という行為がアーサーと観客の間に共通目的として据えられますし、「グラディエーター」で描かれるのは、妻と子が待つ家に帰るという宝物を手に入れるための旅路です。
動機があることで、観客は「主人公の願いや目的は叶うのか・それとも叶わないのか」という問いの答えを追っていくことができます。
この辺りが「徒花-ADABANA」はどうしてもビジュアル先行になっており、問いがないままストーリーを追わなくてはならないのがしんどかった。
What if?の問い設定が面白くない
「工学的ストーリー創作入門」によると、優れた映画には優れたWhat if、すなわち「もし○○だったらどうなるのか?」という問いが置かれています。
・もし他人の夢に侵入できたら?「インセプション」
・もし異星人に言語があって何かを伝えようとしていたら?「メッセージ」
また、What ifの設定は、SFの突飛な世界観でなくても可能です。
・もし自分が浮気をしている間に妻が事故で死んでしまったら? 「永い言い訳」
・もし聴覚障害の家族の中で自分だけ耳が聞こえたら?「Coda あいのうた」
優れたWhat ifは映画を面白くするための仕掛けとして、非常に重要な役割を果たしています。
「Coda あいのうた」では
・耳が聞こえない家族の中でひとりだけ耳が聞こえたら?
・耳が聞こえる主人公がもしも歌うことを愛したら?
のように、一つのWhat ifが畳みかけるように次なるWhat ifを作りだしていくので、物語の重厚感がさらに増しています。
一方「徒花-ADABANA」を見てみると、
もし自分とそっくりなクローンが将来の臓器移植のために育てられていたら?
というWhat ifが置かれてはいるものの、SF界隈ではこすり倒されてる問いであり少々ひねりが足りません。
(クローンに人生をもらうのではなく人生を奪われたら?というWhat ifもありそうですが、示唆的に提示されるだけなのでストーリー本体のWhat ifにはなっていない。)
クローンとの接触禁止がルール化されているものの縛りとしては緩かったり(意外と簡単に会える)、クローンが”それ”と呼ばれていることに対する論理が薄かったりと世界観設定としても諸々ちょっと甘いんですよね。
この辺りも効果的なWhat ifが設定しづらい要因だったかなと。
主人公に対して社会や他者が甘くて縛りが効いてこないので、全体的にぼやぼやしていました。
カタルシスがない
そして、これまでに紹介した
・主人公に動機がない
・効果的なWhat ifがない
という2つの残念ポイントは、「カタルシスを作れない」という致命傷を作品に与えています。
カタルシスとは、「こうなったらいいのに」という観客の願望を叶えて(または裏切って)すっきりする物語終盤のシーンのことです。
悪者に勝利した!という単純な構造に限らず、カタルシスは物語の余韻を作りだしてくれます。
たとえば、銃乱射事件の被害者家族と加害者家族が対話する「対峙」では、赦しというテーマが重要なカタルシスになっています。
安楽死を扱った「すべてうまくいきますように」のカタルシスは、困難を越えて安らぎを手に入れるアンドレと、彼を送る家族のグリーフケアです。
カタルシスが生まれるためには、
・主人公の動機が困難な障害によって阻まれる過程
・優れたWhat ifに対する納得感のある回答
という2つが不可欠です。
その点「徒花-ADABANA」は主人公の動機とWhat ifの設定でほころびが発生してしまっているので、必然カタルシスも生まれにくくなってしまっています。
「クローンの提供待ちをする主人公と、崇拝を洗脳されたクローンが作られた善意で主人公の人生を乗っ取る」というストーリー自体はやりようによっては面白くなりそうなので、こうした脚本構造にはもう少し注力があっても良かったのではと思います。
まとめ
さて、考察を通じて分かった優れた映画の共通点についてまとめておきましょう。
脚本術というのは、映画や物語を画一化するためにではなく、観客を物語に効果的に引き込むために存在しています。
感動する作品には必ずロジックがある訳です。
スカッとするために映画を観に行くのもいいですが、能動的に取りに行くと映画は断然「理解る」し、面白くなっていきます。
脚本術に興味が湧いた方にはこちらの本もおすすめ。
というわけで今回はここまで。