「ジョーカー フォリアドゥ」考察:すべてはこの男の妄想にすぎなかった
先日公開されたトッド・フィリップス監督による「ジョーカー フォリアドゥ」
日本公開前から賛否両論の声が飛び交っており、私もとても楽しみにしていました。
この記事は、「ジョーカー フォリアドゥ」のネタバレ付き考察です。
映画を見る前に抑えておきたい前提
まず、前提条件を抑えておきましょう。
トッド・フィリップスによる「ジョーカー フォリアドゥ」は映画としては非常に特殊で、
前作「ジョーカー」で起きたこと
前作が現実世界に及ぼしたこと
この2つを前提条件として抑えておく必要があります。
まず、「前作で起きたこと」は次のとおりです。
続いて、「前作が現実世界に及ぼしたこと」を見ていきましょう。
前作でも賛否両論はあり、主には以下の3つの意見が目立ちました。
「俺たちのジョーカーがやってくれた!!!」勢
この人たちは非常に分かりやすいです。
彼らは弱者として描かれたアーサーと自分との間に共通点を見出し、憎かった世間に強烈なパンチを食らわせてくれたジョーカーに共感と陶酔を感じています。
「こんなん俺たちの知ってるジョーカーと違う」勢
元々のDCコミックにおけるジョーカー、そしてダークナイトシリーズでヒース・レジャーが演じたジョーカーというのは、”悪事を嬉々として働く狂人”というイメージが強烈でした。
トッド・フィリップス版のジョーカーは、ここに”可哀想なアーサーが世の中にいじめられてジョーカーとして復讐した”というストーリーを添加したわけです。
特にダークナイトのジョーカーを歓迎していた人たちにとっては、ジョーカーという人物は最高に狂っていてクールなキャラクターでした。
ジョーカーは「弱くてはならない。狂っていなくてはならない」ため、弱くて脆い、そして狂いきることもできないアーサーは、蛇足であり不要なものとして映りました。
「キャラ設定、脚本がダメ。映画になってない」勢
映画には「神話の法則」や「ハリウッドビートシート」のように、脚本やキャラづくりのいわゆる教科書とされているものがあります。
ですが、この「ジョーカー」という作品はそういった基本法則をガン無視しているので、作品単体として見たときに、物語の転換点も滅茶苦茶だしアーサーの行動原理が分からない。キャラクターが一貫していないといった不満が生まれます。
さらに、ジョーカーという作品は名作を大量にオマージュしているのですが、この辺もよく言えばオマージュ、悪く言えばパクリということにもなっていたでしょうか。
ここまでの話をまとめると、「ジョーカー」は万人に理解できる映画作品というよりは
という作りになっています。
中でも、トッド・フィリップス版のジョーカー(アーサーではない)に熱狂していたのは、「俺たちのジョーカー!」勢であり、その中の一部に至っては勘違いして事件を起こすところまで至っている。
もちろん映画に現実世界への直接的な影響を危惧するのはナンセンスですが、「ジョーカー」は社会的な影響も非常に大きかった作品と言えます。
「ジョーカー フォリアドゥ」6つの仕掛け
さて、そんな背景の中で制作された「ジョーカー フォリアドゥ」
初見の人の大多数が、「突然展開されるミュージカル」に戸惑ったことと思います。
前作「ジョーカー」の陰鬱な空気感が頭に残っていると、歌って踊ってタップダンスまで披露するジョーカーの姿には非常に違和感を覚えます。
なんか違う映画?と思うぐらいテイストが異なります。
しかし忘れてはいけないのは、アーサーは”信頼できない語り手”であるということ。
前作でも隣人ソフィーとの心温まる関係は、アーサーが頭の中で作り出した妄想であり、実際には起きていなかったということが観客に明らかにされるくだりがあります。
つまり、アーサーの視点で語られるすべてのシーンは、
アーサーの妄想
実際に現実世界で起きたこと
この二つが入り混じっているということになります。
この点は「ジョーカー フォリアドゥ」の仕掛けを考察していくのが分かりやすいと思うので、見ていきましょう。
1.この物語はフィクションである
序盤で、刑務官4人がアーサーを引き連れて雨の降る中を歩くシーンがあります。
カメラが上空から刑務官とアーサーを見下ろし、刑務官の持つ4本の傘はカラフルな色に変わります。
屋内に入ると、傘の色は黒に戻っている。
このシーンは明らかに「これから始まるお話は虚構ですよ」というサインです。(あと小ネタとしては、「シェルプールの雨傘」のオマージュシーンです)
その後には、「弁護士がアーサーの口元についた血を自分の唾液で拭う」というシーンが続きますが、この場面もアーサーのマザーコンプレックスを示唆するやや不自然なシーンであり、既にアーサーの妄想が始まっている可能性もあります。
2.ジョーカーとアーサーの仕草について
前作と共通して、アーサーの仕草とジョーカーの仕草は簡単に見分けることができます。
【アーサーの仕草】
・右手で煙草を飲む
・猫背で型が丸まっている
【ジョーカーの仕草】
・左手で煙草を飲む
・胸を張っていて、基本後ろに反り返り気味
右半身がアーサー、左半身がジョーカーを象徴しています。
ラストシーン直前でリーに電話をするシーンではアーサーの顔の左半分が影になっており、この人物がアーサーであること、またはジョーカーの不在を抱えたアーサーであることが示唆されます。
ただし今作においては、アーサーっぽいのに左手を使っているシーン、ジョーカーっぽいのに右手を使っているシーンも紛れ込んでおり、その境界が曖昧に崩れていくところも注目です。
3.ミュージカル的シーンについて
「ジョーカー フォリアドゥ」は、
豪華な伴奏と共にアーサーやリーが歌い上げるシーン
重苦しい重低音が鳴るor音楽のない重苦しいシーン
このどちらかで構成されています。
そして、アーサーやリーが歌い上げるシーンは基本的にアーサーの妄想であり、虚構です。
しかも、アーサーはジョーカーになった妄想の中でさえ、幸せになることができません。
信じたはずのリーに銃で撃たれ、あるいは自らこめかみを中で打ち抜く。
フォリアドゥは、現実だろうと妄想だろうと、アーサーが幸せになることはないということを徹底的に突きつけられる映画でもあります。
4.なぜ今作ではアーサーは歌うのか
前作でのアーサーは、コメディアンを目指してジョークは言うものの、フォリアドゥのようにミュージカル調で歌ったりはしませんでした。
前作のアーサーのイメージからすると違和感を覚えますが、これは、
”歌を愛するリーの世界がそのままアーサーの内面世界に適用されていた”
ため。
アーサーは不定形の人物です。
外的な要因によっていかようにも変貌する、嘘つきで信用ならない面があります。
固定化された自己というものがないので、リーの世界に呑み込まれていった。
結果、前作の人物像とは異なる”歌うアーサー”になっていたという解釈ができます。
前作だけ見てもアーサーは矛盾だらけで行動原理の分からないキャラクターではありましたが、前作と今作のアーサーを重ねてみても掴みどころがありません。
これはキャラクター設定や脚本の不備というよりも、アーサー自身が一貫した定型の人物ではないということを示しています。
5.ジョーカーのメイクを”させられる”アーサー
前作では、アーサーは自ら自分にメイクを施し、ジョーカーへと変貌していました。
しかし今作では、アーサーが他人によってジョーカーに”させられる”シーンばかりが目立ちます。
このことの示唆するところは、今作においてはジョーカーは成り上がったカリスマではなく、”作られたカリスマ”であるということです。
自らメイクをしてジョーカーに”なっていった”前作とは対照的です。
6.リーの役割について
リーというキャラクターは、
”アーサーではなくジョーカーに心酔し、勝手にカリスマに仕立て上げて勝手に失望していく観客”
のメタファーとして機能しています。
リーは「実家に火をつけて母親によって閉鎖病棟送りにされた」という嘘をついてまでアーサーに近づきますが、そのことを指摘されても悪びれることはありません。
アーサーを直視せず平気で嘘をつくリーの姿は、映画を表層的にしか受け取ることのできない観客の浅薄さへの批判とも取れます。
フォリアドゥはアーサーと観客への断罪の物語
改めて、全体の時系列を整理してみましょう。
アーサーの妄想ミュージカルが合間合間に展開される(しかもかなり分量が多い)ので見失いがちですが、フォリアドゥは明らかに、6人を殺害してしまったアーサーへの断罪の物語でした。
そして同時に、リーというキャラクターを通して一枚ずつ薄皮を剥がすようにジョーカーを剥がし、アーサーに戻していく。
そのプロセスを通じて、メタ的にジョーカーに心酔した観客を打ちのめす物語でもあります。
ジョーカーを愛しアーサーを見捨てるリーの姿を通して、トッド・フィリップスは
お前らが愛したのはあくまでジョーカーだろ。弱くて嘘つきなアーサーのことなんて見えてもいなかっただろ。
と告げているのです。
(アーサーをアーサーとして見ていたのは小人症のゲイリーだけで、彼が証言台に立つシーンはフォリアドゥでも非常に良いシーンでした。)
フィクションに救いなんてない
アーサーによる最後の自白は、
「ジョーカーは存在しない」
私たち観客は、アーサーなのか、それともジョーカーなのかという視点で作品を見ていきますが、前作から今作までひっくるめて、そこにいたのアーサーという人物だけでした。
さらに言えば、私は
結局のところアーサーもジョーカーも存在しなかった
のではないかとも思います。
つまり、アーサーは「アーサー・ジョーカー」という2つの顔を持つジキル&ハイド的な人物なのではなく、相手によって都合よく見せる顔を変える見苦しい嘘つきであるということです。
誰にでもなれる=自分というものがない=誰でもない人物
これがアーサーの本当の正体です。
すなわち定型としてのアーサーやジョーカーなんて、観客である私たちが信じたかった虚構にすぎないのです。
この物語の主人公は、同情に値する可哀想なアーサーでも、悪のカリスマとしてのジョーカーでもありません。
アーサー≒ジョーカーとは、
”相手や状況によって都合よく仮面を付け替える嘘つき”
であり、
”マザーコンプレックスを抱えた惨めな妄想狂”
です。
もっと言うと、前作でジョーカーに心酔してフォリアドゥを見に行った人たちは「カッコいいジョーカー=カッコいい俺たち」として自己投影をしているので、
「弱くて愚かな非カリスマ=ジョーカーに自己投影したお前ら観客」
という図式が成立してしまい、トッド・フィリップスからの
お前ら観客も自分がないジョーカーであり見苦しい嘘つきなんだぞ
というメッセージまで垣間見えるわけです。
そして、それこそが「That's Entertainment」「That's Life」として物語が締めくくられる。
誰一人得をしない辛辣なラストシーンすぎてマジで最高。
今作のサブタイトルは「フォリアドゥ=二人狂い」ですが、狂っていたのは
アーサーとジョーカーなのか、
アーサーとリーなのか、
それともアーサーと観客なのか。
真実はトッド・フィリップスのみぞ知る、というところでしょうか。
余談:アーサーは「バットマン」に登場するジョーカーなのか
考察&レビューとしての本筋は以上で、ここからは余談です。
「ジョーカー」「ジョーカー フォリアドゥ」のアーサーは、DCコミックスやダークナイトで描かれたジョーカーと同一人物なのか?
この点についても、最後に考察してみようと思います。
前作「ジョーカー」ではブルース・ウェインは少年の姿で描かれており、対面するアーサー(ホアキン・フェニックス)は43~44歳という年齢でした。
これまでのDC系列のブルース:ジョーカーの年齢差からすると、これは少し不自然な感じがします。
青年ブルースではなく少年ブルースを起用しているので、ここに何か意味があるとすると、次のように考えるとつじつまが合うかもしれません。
そして、この説に従うと、トッド・フィリップス版の「ジョーカー」「ジョーカー フォリアドゥ」においては、
ということにもなるでしょう。
これこそいちファンの妄想にはなりますが、父を殺されたハーレイと父殺しのジョーカーという構図になるのがまた熱い。
ん~なんだか3作目の制作が見えそうな気もします笑
「ジョーカー フォリアドゥ」は、作品の構造だけ考察していっても非常に面白いんですが、決めのシーンがいちいちカッコよすぎるので映像面でもかなり楽しめました。
今は賛否両論ですがなんだかんだ時間が過ぎればカルト映画として地位を確立していそうな気も。
気になる方はぜひ劇場へ足を運んでみてください。