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なぜ「ジョーカー フォリアドゥ」はここまで酷評されているのか(そしてなぜ私はこの作品が大好きなのか)

「ジョーカー フォリアドゥ」は興行面でかなり苦戦しているよう。

私個人としてはフォリアドゥはかなり大好きで、こんな最高な映画ちょっとないぞ?と思ってたぐらいでしたので、この意見の割れ方はちょっと面白かったです。

そこでこの記事では、「ジョーカー  フォリアドゥ」の酷評組と絶賛組の意見の違いはどこからくるのかについて考察していきます。

「ジョーカー フォリアドゥ」酷評組の意見

「ジョーカー フォリアドゥ」を見て、少なくない人が分からなかった・受け入れられなかったと感じてしまうのには、大きく3つの理由があります。

1.映画的教養が必要
2.作品そのものとしての咀嚼力が試されている
3.アーサーなんて観に来てない

1.映画的教養が必要

まず、フォリアドゥの小ネタとして、50年代から60年代の映画やミュージカルが多用されています。

・「シェルプールの雨傘」1963年 冒頭傘がカラフルに変わるシーン
・「サマー・ストック」1950年 アーサー、リーが歌った「get happy」引用
・「バンドワゴン」1953年 アーカムで上映された映画で、アーサー、リーが歌う「That's Entertainment」引用
・「スイート・チャリティ」1968年 リーが歌う「If My Friends Could See Me Now」引用

また、前作ジョーカーは「タクシードライバー」「キングオブコメディ」にも大きな影響を受けており、フォリアドゥと共に映画史の大きな文脈の中で制作されている作品でもあります。

こうした概観が分からないと、作品内でのちょっとしたシーンでも意味が分からない部分が増えてきてしまいます。

50年代コメディ・ミュージカルに関しては、アーサーの憧れがそうしたエンターテイメントの中にあったというバックストーリーがありますが、
ここは分かる人だけが分かればいい的なネタでもあるので、「フォリアドゥ」というストーリーを楽しむ上ではさほど問題にはならないのではないかと思います。


もうひとつは、DCコミックとしてのバットマンをどこまで履修しておくのがいいのか問題について。

DC系列の中ではジョーカーは異質な世界線の作品にはなりますが、もちろんこれまでのDCバットマンがあってのジョーカーという作品なので、知っておくに越したことはありません。

最低限ダークナイト3部作は観ておいた方がより楽しめるでしょう。
余力がある人には、ティム・バートン版のバットマンも面白いのでおすすめ。

ただあくまで、「見たい人は」という注釈が付きます。
バットマンに出てくる人物と関係性だけ何となくウィキペディアとかで把握しておくぐらいでも全然OK。

2.作品そのものとしての咀嚼力が試されている

「ジョーカー フォリアドゥ」は、観客自身も頭を使って映画を咀嚼していく力、いわば観客力みたいなものが試されている映画でもあります。

この辺りの解釈としては、前回の記事でも解説しています。

ただ「フォリアドゥ」に関しては、宮崎駿映画みたく分かる人が誰もいないような難しい仕掛けは少ないので、以下の点だけポイントとして押さえておくのが良いでしょう。

  • 右半身がアーサー、左半身がジョーカーを象徴している

  • この作品にはアーサーの妄想と現実のシーンが入り混じっている

  • 前作のセルフオマージュが多数(同じアングルや、人物の同じ仕草が繰り返される)

3.アーサーなんて観に来ていない

さて、「フォリアドゥ」が楽しめない理由で最たるものがこの3つ目の理由でしょう。

すなわち、
俺たちが見に来たのはジョーカーが大暴れする姿であってアーサーではない。

「ジョーカー フォリアドゥ」は、前作以上にアーサー自身の物語です。
6人を殺害してしまったアーサーのカリスマは徹底的に剥がされ、断罪されていきます。
なんなら「ジョーカーは存在しなかったのではないか」という辛辣な現実まで突き付けられます。

なので、ジョーカーを観にこの映画に足を運んだ人にとっては、
「なんかよく分からないミュージカルを見せられた。」
「ジョーカーが誰も殺さない(妄想を除いて)しつまらん。」
「ていうかジョーカーおらんし」

そして、「ジョーカー」であんなにお祭り騒ぎで楽しかったのに、
正気になれ
弱者に救いなんてない
と説教された。という後味だけが残る。

酷評したくなるのも無理はないかもしれません。

「ジョーカー フォリアドゥ」絶賛側の意見

さて、ここからは絶賛側の意見、というか私の意見です。

控えめに言って、「フォリアドゥ」は近年の映画でもベストスリーに入るぐらい、もう超超超最高でした。

酷評側とはあまりに温度感が違いますので、詳しく深掘りしてみましょう。


まず、私が「フォリアドゥ」を見たときの前提として、
・映画的教養→バットマンざっと履修済み
・作品自体の咀嚼→自分で考察をしながら楽しめた
だったので、酷評側の理由2つはざっくりクリアできていました。

ただそれ以外に絶賛の理由として大きいのが
アーサーを見に行ったらめちゃくちゃアーサーだったので、注文したとおりのものが出てきて超絶満足おいしかった
なんですね。

私にとっては「ジョーカー」もアーサーの話でしたし、「フォリアドゥ」も前作をさらに上回ってもっともっとアーサーでした。

・おかしくなくても笑ってしまう精神障害者
・親にも社会にも見捨てられ裏切られ続けてきた
・世界に自分を認めてもらうこと=コメディアンになることを心の支えにしていた
・身勝手に人を殺してしまう幼児性
・本当は愛されたくて堪らない、知的レベルには6歳ぐらい
・妄想の中でだけつよつよジョーカー

アーサーがどれだけジョーカーを着込んでも、虚構としてのジョーカーをどんなに他人が愛してくれても、本当のアーサーのことを誰一人(観客含めて)愛してはくれない。
アーサーはどこにも行かれない。

「フォリアドゥ」はこれを徹底的にやってくれたので、私は作品を信頼できたし、これは作り物ではない本当のことなんだと思うことができました。

7割がた妄想の映画作品のなかで、前作のファンの一部を打ちのめしてでもリアリズムをやってくれた。
ここが非常に価値のあることであったと感じます。

死刑制度賛成ジョーカー礼賛の矛盾

日本では未だ死刑が慣行されていて、死刑囚に対する風当たりも非常に厳しいものがあります。
こちらのニュース動画のコメントを見てみると分かりやすいのですが、
死刑執行が死刑囚に告知されるのは当日の1~2時間前・・・憲法違反との死刑囚の訴えを退ける大阪地裁判決

「死刑囚に権利なんかない。ひどくされて当然」というのがコメントの大多数の意見です。
でもそうやってコメントをしている人たちが、「フォリアドゥ」を見て「ジョーカーが社会に復讐してくれなかったからつまらん」と言っているのは、なにか矛盾と社会的な病理みたいなものを感じます。

私たちは弱く愚かで、いつでも悪の側に転がり落ちることがあって、だからこそジョーカー2部作で描かれた「アーサーの総て」から目を反らしてはいけないと思う訳です。

ホワイト革命著しい現代ですが、そんな今だからこそ「ジョーカー フォリアドゥ」が生まれたことには大きな意味があったと思います。

今回はここまで。

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