「話し合おう」について。


「話し合おう」というシチュエーションに遭遇したことがない人はいないと思う。今日もどこかで誰かが話し合いをしている。しつこいくらいに。
話し合いは、言葉を扱える我々人間ができる最強の落とし所を見つける作業だ。最強が故に、気付けば話し合いに熱中して何も決まっていないことも多い。そもそも何を話し合っているのかわからない時もあるし、双方一向に譲る気のない根比べが延々と繰り広げられる話し合いもある。そして何とか話し合いが終わり家に帰って寝て次の日の朝に、いや昨日は眠くて話し合いを終わらせるためだけに折れたなとなることもある。眠いくらいで信念を容易く曲げてしまえるような人が俺は好きだが、後悔する気持ちもよくわかる。またその時の話し合いでは本当に納得したが、実際やってみると話し合いの無意味さに気づくことも往々にしてある。

それはさておき話し合うこと自体は大いに素晴らしいことである。が、問題はそれを提案する人の実際のところである。「一旦話し合おう!」を言うコイツだ。
話し合おうと提案する人からは、現状このままだと良くないぞというメッセージが見え見えである。
コイツにありがとうと思うか、うるせえよと思うかは人とシチュエーションによるでしょう。
大抵の場合コイツが言う話し合おうという言葉は、詰まるところ「俺の意見をもっと聞け」になると思う。
もちろん全て飲み込めと言うわけではないが、もう少し俺の意見も取り入れつつみんなが納得する答えを見つけようぜ、といったものだ。それは夢みたいな話。

議論が少しまとまってきた時に「もう一回考えてみないか」と提案してくる人ならまだ納得していないことが分かりやすくて助かる。が、先陣を切った「話し合おう」は場を制される。コイツに。
話し合いがコイツのペースで進んだ先に待っているのは、コイツに従うか、コイツが納得しない地点に着地しそうになると「もう少し話し合おう」という特殊ディレイを喰らうかだ。
コイツは自分が不利になると、「まあみんながそう言うならもう仕方ない、ここは俺が折れるとしよう」みたいなことを言い出す。いやその感じそもそもずっとお前のペースだったのかよとなる。みんなで話し合うって言ってたのお前だぞと。帰れ。

ちなみにコイツとは俺です。
俺は納得いかない時にすぐ、話し合いを持ちかける。
もし納得してるなら話し合いなんて必要ないし。
この世にある話し合いとは、誰かが納得しない場所から生まれ、誰かが折れる形で消える。
話し合いとはかくも儚く美しい。
そして比較的俺はこの話し合いが得意だ。
芯を捉えたような関係のない話を自信満々にぶつける。相手が隙を見せるとここぞとばかりにつけ込む。もはや話し合いの結果なんてのはどうでも良く、話し合いに勝つことが目的になることもある。コイツが強いのは、ハナから結論などどうでも良いと思ってるからだ。話し合いに勝てさえすればどこに着地したって構わないというわけである。キモすぎる。マジでやめよう。


ついでにもう一つ、自分のキモいところを書く。
それはマジで話を聞いてない時があること。
ボーッとして話しかけられても無反応。
天才にしか許されない所作。
実際はマジで何も聴こえていないだけ。
これは俺の父にもあった特徴だ。
自分から質問をしてきたのに、その返答を聞いてない。明らかに自分のターンなのに喋らない。部屋の一点を見つめて動かない。
厄介すぎる父のこの特徴を、小さい頃は不思議に思っていたが、気付けば自分も脈々と受け継いでいる。
父が見ていたある一点にこの特徴を発動するためのエネルギーが溜められていて、その一点をいつの日か俺が見たことで溜まっていたエネルギーが完全に注がれ受け継いだのかもしれない。
それからというもの、授業を丸ごと聞いていなかった日や、監督のサインをまるで見てない日があった。戦慄した。
他に何か考え事をしていないことはないが、特別そういうことではなく、単に自分だけの時間を生み出して閉じこもっているような感覚。が近い。

監督のサインで思い出した。
僕は中1の秋から中3まで野球をしていた。キモい。
そのキモさは地元が田舎だったことに起因する。
全校生徒は40人程度だった。それでも部活動はいくつか存在しており、当時の野球部は部員が8人だった。ので、秋の大会に出られないと。そんな話を全校集会でしていた。白いユニホームで話す8人のうちのほとんどは僕の友達だった。
当時僕は学校の部活はせず、外部の乗馬クラブに通っていた。つまり学校としては帰宅部だったため、秋の大会だけなら出ても良いよと名乗り出て、野球が楽しくてそのまま所属した。乗馬もすぐ辞めた。
これまで馬との競技しかしてこなかった自分にとって、チームスポーツは輝いて見えた。

監督のサインの話に戻る。
皆さんは、「バスター」を知っているだろうか。
バスターとは、打者がバントの構えをして守備を前進させたところで、やっぱり普通に打つという戦術である。姑息すぎる。
僕は当時、バスターを知らなかった。
試合前の作戦会議の時に監督が、「これがスクイズ、これがエンドラン、これが送りバント、で、これがバスターね」
周りの部員はみんな、了解っすって感じだった。
バスターって何ですか?と聞けば良かったが、野球始めたて君の僕には縁のないものとして聞かなかった。
そしたらサインが出た。監督が最後に肘を触ったらバスターだった。監督が最後に肘を触った。ふざけてるのかと思った。俺がバスターだと?打席の中でバスターの意味を考える。多分、めっちゃ打てって意味だろうと思った。ここはもう、空振りでもいいから全力で振れ!そんなメッセージがバスターには込められていると思った。打った。3ベースヒットだった。完璧なバスターを披露した僕は三塁ベースの上でベンチのみんなの方に目をやった。「バスターだって言っただろ!」監督が笑いながら俺に言う。え、ホームランじゃなきゃダメなの?と思った。でもそんなサインがあるなら毎打席出すべきだし、それが出来たらサインとかマジで要らない。ずっとバスターでいいんだから。
で、ベンチに戻ってから本当のバスターの意味を聞いた。姑息すぎる。そんな感じの技ならもっと姑息な名前にして欲しかった。フェネスとかにして欲しかった。ただもしフェネスだった場合、俺はあの日打席の中でフェネスをしなければならなかったことになる。きっと何となく、ギリギリまで粘ってフォアボールを狙うみたいなことをしただろう。フェネス。

北海道ならウケる可能性のあるツッコミ
お前その冬の走り方やめろ
おやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?