幕開けは赤で染めて【ロトあだ/SS】
人生は十二の頃に唐突に始まる。それより前の出来事は全て、この日に比べれば些事である。
それはまず、目に染みるような煙草の煙から始まった。肌を刺す冷たい風が吹き始めた初冬のことだ。
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引き摺られるようにして連れてこられた事務所は、知らない煙草の匂いで満ちていた。息が詰まりそうになって俺は思わず視線を足下へと向ける。殺風景な部屋はそれでも綺麗に整頓されており、塵一つ落ちていないのがより余所余所しさを増長させた。
「借りたものを返せちゅう、簡単な話よな」
しわ一つないスーツを着込んだ男は、ぎらぎらした目で此方を睨めつけた。言っていることは正しい。正しいからと言って従えるわけではないのが辛いところなのだけど。
父の会社の倒産と残された多額の借金。暴利な利子が付いたそれはまともに返せるようなものではなく、俺は今こうして人権を剥奪されたような視線を一身に浴びている。ともあれこれもまた、結局はよくある話なのだろう。この街の治安は悪く、日々誰かが神様から不幸のチケットを受け取っている始末なのだから。
「まあ、坊主は別嬪だからな。稼ぎはどうとでもなるだろうよ、なあ?」
ぐっと顔を近づけて来た男が、吸っていた煙草の紫煙を無遠慮に吐き出す。嫌な匂いに思わず咽せると、周囲にいた別の男達が楽しそうに笑っていた。視線を下げた先、デスクの上に俺の学生証が無造作に置かれているのが見える。それだけのことで、なんだか心臓を掴まれているような気がしてしまうのは何故なのだろうか。
目に涙が浮かんでしまうのが悔しかった。煙が染みる目を擦って相手を見返すと、男はいつの間にか立ち上がっており、俺の腹をしたたかに蹴りつけた。
意識がぐらぐらとしてその場に崩れ落ちる。立ち上がれない俺の背を硬い革靴が踏みつけた。ぞっとするほど冷たい声が上から降って落ちてくる。
「目が気に食わん。躾けておけよ。ただし顔は傷つけるな。こいつ買いたいっていう、趣味の悪い変態がいるんだわ」
靴底に乗る体重で、背骨が軋むような音がする。なんだか縄の軋む音に似ていて吐きそうになった。腐臭。軋む音。ゆらゆら揺れる、かつて両親だったもの。全部脳裏にこびりついて離れない。俺もいずれああなる。――いや、もしかしたら、ああなっていた方が楽だったのかも。
ばん、と大きな音が鳴り思考はふっと中断された。扉の開く音だった。
背を踏みつけていた圧が消え、俺は床に転がったまま酷く咳き込むことになる。この部屋に誰か入って来たのだ。
やって来たのは男で、その顔は酷く憔悴していた。譫言のように何かを呟いていたかと思えば、急に大声を張り上げる。
「……っ、襲撃です! 黒八鬼組の奴、親父の留守を狙ってきやがった!」
全員が息を呑んだ。男の言動を正しく理解ができず、さりとてその迫力に呑まれていたのだ。男の目には、ただただ恐怖の念が滲んでいたから。
口を開いたのは俺を踏みつけていた偉そうな男。
「何人だ?」
「へ……」
「何人だって言ってんだ殺すぞ! 相手の規模だ! 数では負けてねえはずだろうがくそったれ!」
部屋の空気はもはや一変していた。手に拳銃やナイフを持っている者もいた。張り詰めた緊張のなかで、怯えきった様子の男が叫ぶ。
「――ひ、ひ、《《一人です》》! あいつ、あの化け物、一人で八人殺っちまったんだァ!」
男はそこまで言って、けたけたけたと壊れた人形のように笑い始める。異様としか言いようのない様相。ただ見ているしかなかった俺の耳に、ぐしゃりと果物が潰れるような音が届いた。
まるで壊れた人形みたいに、すぐ目の前に男が倒れ伏す。赤い血だまりが床に静かに広がっていく。後頭部が潰れていた。視線を滑らせて前を見れば、倒れた男のさらに奥、扉の前に一人の男が立っていた。
「邪魔だ」
褐色肌の男だった。少年らしさの残る顔が、酷く楽しそうに笑っていた。
右手が真っ赤で、よく見れば拳から赤い液体が滴っているのがわかる。彼はその手に付けていたナックルダスターを投げ捨てて、銃を構えていた男の方へと突撃した。
悲鳴をあげた男が引き金を引くより早く、鋭い一撃で蹴り上げる。倒れ伏した男のそばに転がった銃を拾い、躊躇うことなく頭を撃ち抜いた。叫びながらナイフを向けてきた別の男へもう一発。別方の男へは腹部へと肘を入れ、さらに蹴り込んで沈める。骨の折れるようなどこか水っぽい音がして、倒れたそれはもうピクリとも動かない。
こうも簡単に人は死ぬのかと思わざるを得ない、一切の無駄がない鮮やかな動きだった。俺はただそれを見ていた。男と目が合う。灰色の双眸が俺を射貫き、呼吸ができなくなる。
「……は、はは、ははははは!」
俺のすぐ後ろで、先ほどまではこの部屋で一番偉かったはずの男が笑っていた。顔面には恐怖が張り付いていて、震える手でスマホを握りしめている。それを耳に押し当て、親父、親父と繰り返した。
暴力の権化のような男は、スマホに忙しなく話しかけている男へ静かに拳銃を向ける。
「来ねえよそいつは。今頃死んでる」
ぱん、と乾いた音がした。俺と男を除き、全員が死んでいた。
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男の視線が初めて俺を見た。ちらりとデスク上の学生証へ視線を移し、それで恐らく概ねを理解したのだろう。彼は躊躇いなく、こちらに銃口を向ける。
恐怖はなかった。たとえ、これから死ぬのだとしても――もしかしたら、見惚れていたというのが正しいのかもしれない。目が離せない状況を喩えるなら、それが一番近いのではないだろうか。
引き金を引く。カチリ。響いたのは乾いた音。
男は無感情に拳銃を捨てた。人の命を次々奪ったものとは思えないほど軽い音をたてて、それは血の海の上を滑っていく。
「生きたいか?」
俺の人生は、この時に唐突に始まった。死にたかった気持ちも、悔しかった感情も、両親を失った哀しみも、絶望も、諦観も、その全てが些事となる。
「……生きるよ」
「そうか」
次に俺を襲う男の蹴りは少しも捉えられなくて、腹に喰らった一撃で視界はぐるりと暗転する。
交わした言葉はたったこれだけ。きっと男の記憶に俺は少しだって残らない。
なのに俺の脳にはずっと、あの灰色の目が焼き付いて離れない。美しくも残酷な、あの冷たい色が。