夜の終わりには小さな温もりを。

 木々の囁きがよく聞こえる夜は、気をつけて集中しなくても彼を感じることができるから好きだ。
 柔らかさの下に骨の硬さのある膝に頭を乗せながら、私は目を閉じる。
 後頭部に彼の気配がそっとある。くつろぐ私に対して邪魔にならないように息を潜めて、吹いてくる風に合わせて身体を撫でてくれる。
 彼が祖父から受け継いだという古い家の縁側は私が歩く度にキィキィと鳴いたが、今はじっと私達の体重を支えている。

 庭で小さく喋り合う虫は今宵の月をどう思っているのだろか。
 瞼越しに感じる薄明かりは冷えた夜と対をなすように温かい。

 カレンダーを捲って三度ほど空を逆回転させた今日、彼は私に結婚することを伝えてきた。
 相手は察しのいい女だった。この家に足を踏み入れる度、私は彼女を観察していた。彼女が畳を擦る足音に気をつけ、座る時に服を整え、耳障りな雑音を鳴らさずに腰を下ろすのを見た。その一連の動作には、私でも敬意を表するものだ。あれでもう少し口数が少なければと思うが、彼が静かすぎることを思えば丁度いいバランスなのだろう。

 彼と彼女がお似合いなのはわかっていた。二人が結婚することにおかしなことは一つもない。
 しかし、私はそれを受け入れたくはなかった。彼が彼女にとられることに恐怖した。
 彼女はそれを私が言わずとも理解し、だからこそ私の前では彼に過剰な触れ合いを求めようとしなかった。

 憎らしかった。とても憎らしくて仕方がなかった。だが、声をかけても答えない私に関わろうとありとあらゆる策を講じる彼女を見ていると、次第に黒々とした感情が薄れていくのを感じた。完敗だった。悔しいと思う隙すらなかった。

 明日、彼女はこの家に引っ越してくる。数年前に唯一の肉親である父を失ってから、彼はずっと一人暮らしだった、そんな彼が血の繋がらない相手と二人で暮らすのは簡単なことではない。それでも必要なことだった。
 私は身体を伸ばす。彼の膝に頭を寄せた。彼の笑い声が小雨のように降る。それを全身に受けると、肌に染みこんでじんわりと広がった。
 月のように万人へ与えるのではなく、私だけに与えられる温もり。これは今だけのものだ。

 ここは楽園だ。天国のように退屈ではなく、刺激に満ちた世界。その中でも最も美しい私だけの場所。
 しかし、天国が悠久であるのなら楽園は有限だ。失われるものだ。

 彼の大きな手が首を撫でる。顔を少し逸らしながら私は無言で催促した。
 これが永遠であったらよかったのに。
 私は閉じたままの瞼を持ち上げて、明けない夜の月のような彼を向く。
 黒を纏う私では彼を夜に縛りつけることしかできないだろう。けれども彼女ならきっと澄み渡る青と光をくれるはずだ。
 それなら、私は明日が来る前に月と一緒に沈もう。

 漂う夜を彼が吸う。
「月が綺麗だよ」
 ええ。月が綺麗ね。
 届かない意味を乗せて、私はにゃあと鳴いた。

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