まちの理科室をつくろう(1)
「まちの理科室をつくろう」
その発想は絶望と孤独から生まれた。
2024年4月 僕は突然に事務職員になった。
これまで23年間、中学校の理科教員として務めてきた。
まさか理科の授業をしばらくすることができなくなるなんて思ってもいなかった。
年度末最後の授業では涙があふれてきた。
いつか、もっと生徒たちが楽しめる理科の授業をつくりたいなと思っていたのに、人生とはいつ何が起こるかわからないものである。
さて、新しい職場は学校ではないので授業はない。子供たちもいない。大人しかいない。給食もない。理科室もない。部活もない。
仕事は今まで全くしたことのない仕事ばかり。
特に僕の仕事は任用と給与に関する生粋の事務職である。
毎日3画面モニターをずっと見て、エクセルとSQLを触っている。
学生時代にドラクエやFFに没頭していた時でもこれほどモニターと向き合っていたことはなかった。誰とも話せずに、出勤から退勤まで1日中同じ姿勢でいることもある。姿勢と目が悪くなり、左側肩甲骨の辺りが常に痛い。今まで感じたことない痛みだ。
だから、昼散歩に行く。20分だけ、職場の周りの堀や中央公園、養浩館の周りを歩く。ちなみに自分の課がある11階までは毎朝階段で上がる。ちょうど200段ある。運動不足だ。堀にはカメやスッポン、淡水魚や鳥が見られ、少しだけ野外観察ができる。
家族からは「まるで定年退職した人みたい。」「理科の先生じゃなくなったの?」「今までやってきたことはもう終わり?」「このあとどうするの?」とあたたかくも直球の叱咤激励を受ける。本当にネガティブな4月を迎えた。見通しもない。仕事場で飛び交う専門用語もさっぱり分からない。
教えてもらわないと、昨年の資料をいくら読んでも分からない。同僚はみんな僕より若い方ばかり。「すみません、さっきも聞いたのですが、もう一度教えていただいてもいいですか。」「今お時間ありますか?」「これってどうしたらいいですか。」50歳を前に、最近特に物覚えがなくなってきた。
仕事内容は全く素敵ではないが、職場の方々は皆さん素敵な方ばかり、僕のメンターであるAさんはめちゃくちゃ教え方がうまい。本当は高校の数学教師だ。「今の僕の説明で分かりにくかったところはありませんか?」「大丈夫ですよ。いつの間にか分かってきますよ。」「さっきメモされていましたよ。」(メモをしたことすらすぐに忘れてしまうのである。)やさしい。
グループリーダーのMさんや、同じ任用担当のエクセル職人Tさんは、いつも笑顔であたたかく支援してくれる。先回りして助言してくれる。自分の所属するグループは、自分を含めてこの4人で結成されている。とりあえず8ヶ月が経ったが、彼らのおかげで乗り越えられたと感謝している。
戻るが、突然にいろんなことがなくなった4月であった。「理科ロス」「学校ロス」「生徒ロス」である。ついに「ああ仕事辞めたくなったらどうしよう」という気持ちも湧いてきてしまった。きっと初任者の方たちってこんな気持ちなのだろうなと思い知らされた。また、勉強やテストで点数を取るのが苦手な子供たちも、「わからない」「今何やってんだろう。」「僕って置いてけぼり。」というような辛さを味わっているんだと気づいた。分からなくても質問できない。何もできない自分の不甲斐なさ、存在感のなさ、孤独感。誰もそうさせようとはしていないのだが、本人はそう感じてしまうのである。
ただ、良いこともある。幼馴染の同級生Iくんが同僚になったり、理科の元教員(同じような境遇)が同じフロアに結構いたりする。ある日、中央公園で「理科教員ランチ」をした。となりの福井市役所に勤務しているKくんも集合し、6人でお弁当を食べた。(5月22日)久々の理科の話ができた。理科の実験や観察が恋しくなった。「この周辺に理科室があったらなあ。」「たまに理科の授業ができたらなあ」
「そうだ公共の理科室をつくろう」という発想がこの日生まれた。
絶望と孤独から、希望と仲間のありがたみを感じ、何か目標を見つけることができた。あの日の光景は忘れない。
課に戻ると再び黙々と事務作業であるが、少し気持ちが前向きになった。頑張る目標が生まれた。今の業務とも結びつくかもしれない。
人生は何が起こるか分からないものである。
さて、では「まちの理科室」をどう実現していくか。