シャルリー・エブド テロ後に初めて出た2015年1月14日号の一面
キャプション「Journal irresponsable(無責任新聞)」
この「無責任な新聞」というキャプションは今号で初めて使われたわけではなくテロ前の号にもしばらく前からタイトル下方にかさなるようにもっと小さく出ていましたが、今回は大きく掲載され、全体のデザインがシンプルなだけあって余計目立っています。
ちなみにシャルリー・エブド紙の「責任」を負わされることに反発し、一度 、なにも掲載されていない白紙のページに「Journal responsable(責任のある新聞)」とキャプションを入れたものを発行したことがあります。
テロ後に最初に発行された号の話に戻りますと、
マホメットが手に持ったプラカードのメッセージは
"Je suis Charlie"(私はシャルリー)。
ご存知の通り、表現の自由を抑圧するテロに抗議するにあたり、テロ後にあっという間にフランス国民に行き渡り、デモの標語にも使われた言葉です。
そして
Tout est pardonné
というキャプション。
私個人はこれを、「マホメットも、あんな酷いテロの被害者となったシャルリーエブドに共感している。いままで自分がさんざん戯画化されてきたことも全てゆるして水に流す」ということを表したいのだと解釈しました。
ただ、それは同時に、イスラム教徒(の一部?)に不快感を示されれば示されるほど断固としてコケにしてきたマホメットにそれを言わせているということは、つまりは「自分たちがマホメットをコケにしてきたことは寛容にみられて許されてもいいものだ」という意味も含んだ両義的な解釈が可能だと思いました。
この曖昧性は、テロ後、Je suis Charlie(私はシャルリー)を標語に大規模デモをしたフランス国民に対しては、執拗にマホメットを描きつづけることでテロに負けないことを示さなくてはならないが、同時に世界の注目も集まっている状況の中、悩みに悩んだあげくの、シャルリー・エブドの苦肉の作ではないかと思ったのです。
ちなみに、このようなイスラム戯画が世界的には通用しない感覚であることは少なくともシャルリーエブド内でもかつて自覚している人間がいて議論があった模様です(ソース)。
この
Tout est pardonné
を、読売新聞(1月31日付夕刊)は
「全て許される」
と訳して、関口涼子氏の記事(http://synodos.jp/international/12340)に「重大な誤訳」と指摘されています。正しいのは「全ては赦された」であると。
読売の記事(抜粋):「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる。」
Tout est pardonnéというのは「何してもえーんだよ!(Tout est permi)」とは違い、日本語で漢字を選ぶとすれば「赦す」のほうが誤解はないです。
それは関口氏の指摘の通りです。キリスト教で「神は赦してくださいます」などという時のpardonner(赦す)です。
しかしそれをマホメットに言わせていることで、シャルリー・エブドがこれまで描いてはイスラム教徒(普通のイスラム教徒から過激派まで)の不快感を買い続けて来たカリカチュアを肯定していることにもなるので、イスラム教徒は必ずしもこのように理解したわけではないようです。
なぜなら、実際、この号の発行後、ニジェールではアンチ・シャルリーの暴動が起こって(シャルリー・エブドのイスラム教をつついた絵を書いた人たちは私の思うに間違いなくキリスト教徒でなく無神論者だと思うのですが)キリスト教会がぼんぼんといくつも燃やされフランス人は外に出ないようにフランス領事館は勧告を出していました。チェチェンでは政府が主催して、シャルリー・エブドに抗議する大規模なデモ行進が行われました。
事件のショックから徐徐にフランスが目覚めはじめた今頃になって、フランス側からも、やっと、以下のような意見が出はじめています。パリ政治学院で情報戦争と政治学を教えるファブリス・イペルボワン教授(ジャーナリスト小林恭子氏によるインタビュー)のご意見です。
「14日に、シャルリ・エブドが事件発生以来初めての号を出した。イスラム教の預言者ムハンマドと思しき人物が「私はシャルリ」と書かれたカードを持っている。その上に「すべては許される」と書いている。どのような意味に受け取ったか。
私の個人的な解釈だが、キリスト教的なムハンマドだなと思った。「テロ行為を行った人を許す」という意味に見えた。シャルリの表現を支持し、かつテロ犯を許す、と。
キリスト教から見たイスラム教のイメージに見えた。もしキリスト教徒の教会が攻撃されたなら、イエス・キリストの最初の弟子ペテロが同じことを言ったかもしれない。シャルリの風刺画家はこれを知りながら、キリスト教的な考えをムハンマドに言わせたのではないか。
いずれにしても、ムスリムにとって大きな侮辱であることに変わりはないと思う。」
インタビュー記事全文:http://toyokeizai.net/articles/-/58902
この絵を描いたLuz自身はテロ後のインタビュー(テロ後の最初の号発行前のもの)において、このように言っています。(テロ後のJe suis Charlieデモのすごい盛り上がりと同調圧の中でよく言えたと思っていますが…)
「僕たちの絵には存在しない象徴としての責任を担わされてしまった。これは僕たちには重過ぎる。僕も、それを堪え難く思っている人間の一人です」
「Charb(犠牲となった風刺画家の一人)は、タブーと象徴を倒し続けることができると思っていました。ただ、今や、僕たち自身が象徴になってしまった。自身が象徴そのものである場合、それをどうやって破壊したらよいでしょう?
「シャルリーエブドは発行します。自らに鞭打ってね(ここ原文 Je vais me forcerで「嫌だけど我慢して」のニュアンスがあります)。死んだ仲間たちを悼むためだ。しかし、彼らはフランスのために死んだわけではありません! 今や、まるでシャルリーは表現の自由のために倒れたようなことになってしまっている。愛されその才能を賛嘆されてきた僕たちの仲間は死んだ。ただそれだけのことなのに。」
(以上)
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