右脳の静寂
反芻と反射
禅や非二元のメッセンジャーはよく「静寂」という言葉を口にする。
自我は人間のみにあり「自分と自分の人生」があるという勘違いを起こさせるシステムだ。ちなみに動物には自我がないそうだ。
それは何となく理解できる。言葉を持たない動物たちは、言語による思考を持たない。ましてや鏡を見てそれが自分だと認識できないのだから人間のように「自分」という明確な区分けができているとも思えない。
動物たちの行動は常に「反応」や「反射」だ。見えている(あるいは五感で感じている)ものごとや現象に、ただ直感的に反応しているだけだという。
頭の中で言語がごちゃごちゃ考えたりしていない。外界の刺激に対して反射的に動くだけなので、その時その時の対応しかない。
生存本能として直感的というか遺伝子的に危機管理に重要なことは学習して記憶するかもしれないが。
ということは、頭の中に「言語による思考」がマトリックスコードのようにダラダラと流れてはいないということだ。何もないスクリーンがそこにあるだけ。
動物たちは常に静寂の中にある。
ふだん、私たちの頭の中には「言語による思考」がダラダラと流れている。そしてそれはほとんどが反芻。
誰かが言った言葉や、テレビか何かで聞いた音声、あるいは以前見た情景だったり。そして、それらを見聞きしたときにどんなふうに感じたかで、その反芻した内容に反応している感じ。
そこまではおそらく、他の動物と同じように「反応」なのだろう。
しかし、人間はそれらの記憶を言語で表現できるという性質がある。だから過去の出来事を思いだしては、いつまでも同じような思考感情が湧いてきて、それに対してダメ出ししてみたり、再喜びしてみたり、ストーリーを組み立てる。
頭の中にダラダラ流れてくる思考(や情報)を拾っては、勝手な解釈や判断や、感情までも動員してなんだかんだと思考のストーリーを作ってしまう。
そして、それが自分に起こったこと(自我=自分の人生ストーリー)と思いこんでしまう。
どうやらこの「言語」による思考は左脳による影響が大きい。
悟りや非二元ではこの言語による思考(自我)が落ちて、その向こうの何もない静寂があることを伝えている。
ここがややこしいのだけど、人間は言語によって思考していて、それが自分の世界の全てなのだから知っていること以外は知ることができない。
予想も想像すらできないわけだ。未知以上に未知。何もないよりもっと何もない。無より無。自分で書いてても何言ってるのかわからない(汗)
混乱してくるなあ。
ジル・ボルト・テイラー氏の体験
アメリカの神経解剖学者のジル・ボルト・テイラーさんが以前、自宅にいたとき脳卒中になった体験談がネットで公開されている。
彼女は脳科学について専門的な知識のある学者なので、その時のことを科学的に自己分析して話を聞かせてくれている。
その体験談の内容がが、非二元の話ととても似ているのが面白かった。特に「静寂」と「今ここ」を体験した部分。
まず、右脳について。
私たちの右半球は、すべて現在のこの瞬間にかかわっています。まさに今ここです。私たちの右半球は、画像で考え、 体の動きを通じて身体で学びます。情報は、エネルギーの形をとって、われわれのすべての感覚器官を通って、同時に流れ込んできます。 そしてそれは、この現在の瞬間がどのように見えるか、その巨大なコラージュとなって噴出します。さらに、この現在の瞬間が どのように匂うか、どんな味がするか、どのように感じているか、どんな音がするか。私は、右半球の意識を通じて、私を取り巻くすべてのエネルギーと繋がったエネルギー的存在です。私たちは、一つの人間家族のように、右半球の意識を通じて互いに繋がったエネルギー的存在です。そしてまさに、今ここで、私たちすべてはこの惑星上で兄弟姉妹であり、世界をより良い処にするためにここにいます。この瞬間、私たちは完全です。私たちは全体です。そして私たちは美しい。
そして左脳について。
私たちの左半球は全く異なった場所です。左半球は直線的に系統的に考えます。左半球は過去を考え、未来を志向します。左半球は現在の瞬間の巨大なコラージュをもぎ取るように設計されています。そして細部を摘み取り始めます、そしてさらなる細部を、さらにもっと細部のさらなる細部を摘み取ります。そしてそれらすべての情報を分類し組織化します。私たちが学んだ過去のすべてと関係づけ、未来のすべての可能性に投げかけます。そして私たちの左半球は言葉で考えます。この絶え間ない脳の動きが、私と私の内的世界を、外なる世界に繋げます。それは小さな声で、このように私にいいます。「帰りにバナナを買っていかなきゃ、朝食べるのに」それは、いつ洗濯しなければならないかを私に思い出させる、あの計算する知性です。しかし多分もっとも重要なのは、私に「私は・・・私は・・・」と語りかけるあの小さな声です。そして左半球が「私は・・・」と語りかる瞬間に、私は分離されるのです。私は私の周りのエネルギーの流れから分離された一個の実体的個人になり、そしてあなた方からも分離されます。
左脳は「ストーリー(自我)」を担当する。
記憶を時系列に並べて、今より良い状態をめざして計算し、計画し、検証し、創造する。そうやって人類の文明は発展してきたわけだ。
一方、右脳は「今」を担当する。
そこには何の分別もジャッジもない、ありのままの状態をただ、そのまま読みとる。
ありのままを正確に見ないと、他の動物のように瞬間的に反射・反応ができないから。自己の解釈だの評価だのは不要。
人間に限らず、人や動物はまず、右脳の「今」この時この場の状態をありのままを受け入れて、その後何かしらの行動にでる。
必要なのは「生存」することなのだと思う。言葉がなくても十分に「生存」は可能なのだから。
ジル氏は、左脳の働きが低下して右脳だけになった時、自分自身がエネルギーとなって拡散するような感覚があったという。
このエネルギーが非二元でいう「意識」であったり「気づき」であったりするのだろうと思う。
「意識」や「気づき」というと、言語的な意識のようなものを想像してしまいがちだけど、そうではない。
言葉では感知できない「もともとあるそういうもの」のことを指していると思う。
つまり「これ」とか「それ」とか言われるもの。
よけい、ややこしいなあ。でも言葉でしめせないもの全てを指すと思う。
まあ、いいわ。
それではこの「意識」とか「気づき」ってのは何なんだ。
また次回。
ジル氏の記事のリンクを貼っておきます。同じ内容をYouTubeで本人トークで見ることができるんですけど、この人の話かた、ほんと面白いです♪
◆今回はイラストと脳の写真のコラージュ。グロくてごめんなさい。だからイラストの方を可愛くしたつもり。