概念ってないよ、たぶんね
それは本当に赤なの
子どものころ、よく考えていた。
「私が赤だと思っているこの色は、本当にみんなにとっても赤なのか」
私が赤だと思っている赤は、じつはみんなの言うところの青だったりして?
イチゴやトマトやバラや血液や夕日や炎や、赤とよばれる色のついたものはたくさんある。
私が「イチゴは赤いよね」と思って指し示したとしても、みんなが私が思うところの青を赤だと認識していたら、結局『うんうんイチゴは赤い』という共通認識になり、会話としても認識としても何の問題も障害もないわけだ。
だから、真相はぜったいにわからない。
他人の身体に入って、他人の目からイチゴを見て、ようやく「ああ、良かった、みんなも私と同じ色に見えてる」と思えるかな。
でも、ちょっと待って?
イチゴの赤を認識している「私」が他人の目を通して見たとしても、「赤い色と思いこんでいる私の意識」が見てるんだから、やっぱり私の思う赤にしか見えないのではないだろうか。
ややこしい。
ピーマンは苦いのか、イチゴは赤いのか
イチゴに限らず、私にとっての認識は他人と同じとは限らない。
見えているものが全く違うのに、同じ言語で表現すれば、事実上「みんな同じ認識」になるわけよね。
だから結局、個人の持つ概念なんてそれぞれで、お互いにぜったいにわかりっこない。
味だってそう。
私が苦いと認識している味は、他人にとって甘いと認識しているのかも知れない。
「ピーマンは苦いよね」と言葉で表現したとき、言葉の上では同じ認識になるけれど、想像する味覚はそれぞれ全く違うのかも知れない。
同じかも知れないけど、同じであると証明することは絶対にできない。
人が言葉による表現で「これはこういうものである」と定義つけただけだ。
全てにおいて、言葉はイメージをしばる。
そして、言葉によって概念は作られる。
当たり前だけど、誰でも「知っていること以外は知らない」んだから。
概念は幻をむりやりカタチに変えたもの
知らないことは、その人の概念上に存在しない。
「あり得ない」のではない。もともと存在しないのだから想像すらしないのではなく、絶対にできない。
ある時何かのタイミングで知って、はじめて概念上に現れてくるだけ。
そして、はじめてその人なりの概念になる。概念ってデータだから。
人間はそのデータを持っているのが『自分』だと思いこんでしまう。
でも、よくよく考えてみると『自分』ってのも本当はデータそのものってことになるのよね。
氏名、生年月日、家族、住所、学歴、職歴、経験、思い出、これ全てデータであって、言葉で綴った記憶。
『自分』から全ての言語ひっこぬいたら、つまりデータを全て引っこ抜いたら、何が残るんだろう。
つまり、まっさらの状態。初期化状態。
そんな生まれたての赤ちゃん状態で、目の前にイチゴがあったらどう思うんだろう。
赤でも青でも何色でもない。甘くも苦くもなんでもない。名前もない。分類もない。安全が危険か食べれるものかどうかもわからない。だって何にも知らないんだから。
ただ、それがあるだけ。同様にすべてがただ、そうあるだけ。
概念なんて、じつはあるようでない。
人間があとから言葉として取り決めて、そしてそれぞれに思いたいように思いこんだデータなだけということ。
そして、その認識が共通かどうかまではわからない。たぶんこんなような感じよね、っていう曖昧でざっくりした認識なだけ。
で、その認識のさらに細分化して言語化したのが現在。日々刻々と新たな概念が加わっていく。
増えれば増えるほど(というより細かく砕かれていく感じ)複雑になりどんどんカオス化していく。
AIにはたぶん真似できないね、このカオスっぷりは。
78億通りのバラバラな概念。概念というか幻。
もしも、この78億の概念(データ)がぶっ飛んだらどうなるかな。
そのときは、きっとエデンの園のようになるんじゃないかな、と思う。
という感じで、今日はイチゴのイラストをアップしますね。
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