【何かとの対話】自分は錯覚...
Q.誰もなにもやってないって?
(誰も何もやっていないとは、これも概念上はなんとなく漠然とした理解はできているけれど、やっぱりよくわからないです)
まず視点の違いを先に理解したほうがよさそうだ。
誰も何もやっていないっていうのは、あなたの視点から見たときに理解しようとしたらまずできない。
なぜならば、あなたの視点であると言う事は、あなたがそこにいるからだ。
あなたがそこにいるならば、あなた以外のものがいるわけだから、誰かがいると言うことになる。
ということは誰かが何かをやっていると言うストーリーに直結していく。
あなたの視点ではなくて、意識の側の視点で考えた時、それしかない。
1つしかない動きがあるだけなのに、ただ動きが表現をしていると言うそれだけのことなのに、誰かが誰かを待ち、その言葉の誰かと言う時点で、ただの概念でもあり、そもそもそこには概念の通用しない。
言葉など関係なく、ただ活動が起きていると言う言葉が、本来はギリギリの表現でそれすらも本来概念であって、それもない。
だから言葉で表現することはできないが、これが起きている。
今こうやってしゃべってる、これもただそれが起きている。
意味はそちら視点に映ったときに改めて現れるものであって、
これがフラクタルになっているところ。
意味が現れたときに、何かが現れるトリックのようなもので、いくつものそういうフラクタルな構造が折りたたむことでこの世界はできている。
あなたが理解できる範囲以外のところでもたくさんのことが起きている。
あなたが想像し得ないものはあなたの世界の中では無いことになっているけれど、もっともっと無限に見えない世界、あなたが見ていない世界、あなたがまだ感知していない世界などは無数にある。
それはあなたに限ったことではなく、現象のあなたたちは同じように個人的な自分を中心とした世界でしか物事は感知できなくなっているが、時に夢の世界意識の世界などで肉体を通さず、五感を通さず、世界を感じることができる。
それがあなたが感じていること、そういったものがあるのではないか、あるいはそういったものがある夢の世界で触れている。
覚えていないだけで、でもある。それも当たり前。
なぜならば、あなたは意識そのものだから。
人と言うのが、面白い仕組みになっている。
わざわざ言語も違い、その言語によって感じる観念、感覚と言うものも違う。
美しさの基準も全く違うように。
なので感じる世界と言うのは、あなた方人間の作り出した概念によるもので、失礼人間の作り出したと言う表現をしてしまったが、それすらの意識から現れた表出物であって、人間と言う人種が作り出したかのように見えるが、それすらもすべて現れの中で、起きているただの現象に過ぎない。
なので、あなたも現象であり、そしてあなた自身も気がついている通り錯覚であり、
夢の世界も同じ仕組みで現れている別の表現の世界であり、
そしてそれも、またあなたがそこで自分と言うものを感じているのであれば、それも錯覚である。
どちらも意識が表現として表したそれであり、
そこにリアル感があるかないかと言う概念をくっつけているかどうかだけであり、
実際にあなたが見たビジョンそれだけがあり、
夢の中で見た、あるいは現実も世界で見たと言う部分を外してみると、ただビジョンがあったということだけになる。
それは量子スープ記憶のスープの中から現れたものであって、あなた個人が現したものではない事はわかっているよね。
(錯覚と言われましても…。そしてあんまり回答になってない。)
Q.願望の現象化とは結局?
そうするとまたさっきの引き寄せの法則の話になるのだけれど、それで行くとわかりやすい、引き寄せたいと思う事は事象に近くなってきていると言うことであり、それも既にあると言うことに結びつく。
願望達成という意味で言ったら、これも概念だが。
すでにあるのを知っているからそうなることを知ってるから、あなたは望む。
つまりデジャヴと同じで、きちんとその方向付け未来について次の展開についてきちんと望んでいる通りになっている。
あなたはちょっと怖いと思ったと思う。
例えば事故に遭ってしまった人とか、前日までは元気でいたのに、翌日には突然事故で死んでしまったなどと言うのは、それも引き寄せなのかと言ったら?ということだろう。
例えばその場所に居合わせたということが既に方向づけになっている。
そういう意味では、量子スープの中で決められている現象の1つであって、
そこに対してあなたたちは「不幸なことが起きた」「残念なことが起きた」と言うふうに捉えているが、
もう一度話を戻せばではその亡くなっててしまった彼女と言うのは肉体がなくなったけれど、もともと意識なのでそのパーソナリティーと呼べるその部分は抜けるかもしれないが、本来の意識と言うのはもともとこちらであるわけだから、見ている側であるのでまぁ関係ないと言えば関係ない。
まぁ思考ではなかなかそうはいかないが。
それによって悲しい、あるいは愛していたなどの感覚のようなものが起こる。
ここが見えない部分の話で、人はそれを忘れがち。
だが、その女の子が死んでしまったとしたら、悲しむ母親など、それから横たわる肉体など、そういう絵を今想像し、またその想像したビジョンの中で、そこに概念をくっつけて、「かわいそう残念だ」などと言うストーリーをつけている。
同情することもある。
しかしこの場合の事実は横たわる人目から水を流す女性。ただしその感覚の中に現れている表現するとしたら、悲しい気持ち、愛の裏返し、別バージョンの、素直な気持ち。
もちろん概念が立つこともあるけど、人によりが言葉も何も出ない時は、常にストレートな感情が出ている。
あなたも体験したことがあるでしょう。あのかわいい鳥が死んでしまったときに、ただ絶叫しか出なかった。
あの時あなたの個人的想念・概念から一瞬外れたのを覚えている。
冷静にそれを見ている何かがあって不思議に思ったと思う。
あなたの表現はやはり反応だったが、その中に観念ではない愛のようなものが引き金となってあのような表現になる。これを細かく分析し始めると余分なことになるが、もちろんそこには観念も含まれている。
事実は横たわる鳩と目から涙を流す。
しかしそこに走馬灯のように、あなたがあの小鳥と出会ったときのいろいろなエピソードが場面ごとに浮かんだ。
あなたとその鳩との共通の思い出、あの子の走馬灯、個別のようでいて、あの子はあなた自身でもあった。そしてあの小鳥にとっても、あなたは自分自身でもあった。
あなたにとって悲しみも超えたけど、あの子に会えて出会えたことへの感謝の方が大きくなっている。
3年ほど泣いて過ごした時があったけど、あなたとあの子は同じものである。
今はわからなくてもいいから
あれは愛であると言う概念を持ったままでもいいので、あの子のことを思い出すと優しい気持ちになれるのであればあの子は優しい子であり、あなたの中にいつもいる。
今はその解釈でいいから。
Q. 現れって、なんで現れてるの
(ところでこの現れはなぜあるの?そして分離の感覚と言うものはなぜ起きたの。必要だったの。いつも不思議でしょうがない)
意識が自分から自分を生み出したというか、
生み出したわけではない分裂したわけでもなく、
発生させたわけでもなく、つながった状態で意識のフォーカスポイントと言うものを作ったわけだ。
その意識のフォーカスポイントというものが、いくつも作ることによって、相互的にお互いを観測することで、様々な見え方ができるようになった、そして同じ性質を持つ。
それらが同じように、自らか観測される作用を起こし、いくつもの現れができるようになり、それはもう、加速度的に一瞬の出来事で現れた。
常に意識の息を吹き込むことで、お互いがお互いに干渉しあって動き回ると言う法則で、固定されるものは、1つもなく、常に何かが起こり続けている現れ、続けているそれの複雑化したもの。
そしてその一つ一つの、この場合(比喩表現として)突起と呼ぶが、その部分から新たな観測が起きて、そしてそれらが波動周波数揺らぎのようなものを出してた新たな創造物が出来上がる、私たちはただ観測しているだけであってただその動きを眺めている。
どんな意味があろうがなかろうが、同じように眺めている。
フラクタルな構造になっているので、宇宙が観測者でありながら、宇宙が望むものはあなたたちの中にあらかじめ入っている。
あなたは気づいていたみたいだが、意識はただ観測し続ける、どんな感情があろうが、どんなものが現れようが全て受け入れている。
パーソナリティー、特に人間については、まずこれが現実だと思い込んでしまう。
まず錯覚の作用が起こり、その錯覚そのものも自然の摂理であるわけだから、疑問を持たれたところで、ただそういうように現れているとしか答えようがないのだが、大抵はそれには気づかない。
これが現実でこれが本物であってと言う思い込み、信念のもとにその世界を見ているそれぞれのフィルターで見ている。
もちろん先程の突起物のようなところから様々な波動を出すので常に変わり続けている。
それは新しい波動を出していることもある。
それによりまた新しいクリエイトが起こり、ただそれを続けているだけであって、あなた方の概念で言ったら、嫌われるかもしれないが意味などは無い。
それに意味をつけて苦しんでいるのが特性であって、それも摂理であって、例えば桜の花がピンク色なのも摂理であって、何か問題があるかと言ったら何も問題は無い。
そういうものであってそのように現れていると言うだけであって、まぁ例えばいずれ黄色くなるかもしれないし、青くなるかもしれない。
それはその時の摂理によるのでわからないが、今のあなた方人間においても同じことが言える。
今は分離感と言うもので固定されているように感じ制限されているように感じ。
そして、ではなぜ生きているのか、有限のこの世界でと言うふうに感じ、
なぜ上下関係があり、分け隔てがあって、
そして差別があって、どうして1つになれないのかと言う疑問が残り、
どうしてこんなに生きづらいのか、それが必要かどうかもわからない。
ツールに踊らされ必要かどうかもわからない。
消費と生産に関わっていなければいけないのか、そんなことをやっているより、本来もっとやりたいこと、感じたいことがあるのではないだろうかと感じている人が増えている。
この場合の感じている人という言葉も違和感があるのが、わかっていると思うが「感じ」がある。
つまりはその時その時の摂理によって観念そのものも変わるし、概念などは特に変わってしまう。
人間の思い描く価値観なども当然変わり、今のあなたが感じている社会通念はこうであるが、
今の自分はこうなのに「社会にうまくマッチせず生きづらい」ということについて、これもまた思い込みである。
気にしても仕方がないというか、あなたがそう思ったのであれば、あなたの世界はそうなだけであって、
実際問題、あなたの外側の世界が相変わらず分離感のあるエゴ丸出しの、
必要のないものに消費と生産を繰り返す、感覚や感情を忘れて、ただ雑念と思考に追われている、そういう社会の中に自分がいると感じているのであれば、ただそれが見えているだけの話で、実際のところは事実ただ人がうごめいていると言うだけ。
そしてそういった想念ももちろん勘違い錯覚である。
Q. しつこいようですが「私」は錯覚なんですね
あなたが何を考えても構わない。あなたがどんな錯覚を起こしても、それは悪いことではない。錯覚しているのは悪いことだとなんとなく感じているがそうではない。
あなたの観念があるだけで、そもそも観念であって、あなたと呼んでいるが、あなたはいない。
観念があるだけ・思考があるだけ・感情があるだけ・想念があるだけ・思い込みがあるだけ・勘違いがあるだけ・恐怖心があるだけ・不安があるだけ・未来と過去があるような感覚があるだけ。
そしてそれらを持った記憶があるだけ。
それらの寄せ集めを「個人」と呼んでいるだけであって、それ自体も呼びやすければ。
「良い人生」もそれらの記憶の集大成をそう呼んでいるだけであって、
そこに価値や愛しさや考えなどをつけるつけないはそれぞれによる。
ただしそれも記憶であって、ある時にあり、この瞬間にあるものであって、
常にあるものではない。
あるように思い込んでいるだけで、背負っているように感じているだけで、実際にはこの体によって五感として感じているこれと同時に起こっている思考があるだけであり、思考している内容があるだけで、そのように世界を移し取ってみている価値観感覚が世界観があるだけで、その世界観もただの錯覚であるあなたが感じてると思ってるが、実際は、価値観と言うものも事実ではない。
その感じがあるというのが事実。全てにおいて本来そう。ただそのこの感じがあるだけ、事実はほとんどの場合この感じがあるだけストーリーがあるよとあなたは言いたいみたいだわが、ストーリーのような感じがあるだけ。
概念は全て嘘と呼んでもいいし、幻と呼んでもいいが、概念は全てただの概念であって、消えてしまうもの。ストーリーもとってはおけないもの。
記憶も、個人で記憶が飛ぶことなんかよくあるわけだから、記憶も所有物ではない。
つまり所有できるものなんか何一つなかった、自分と言う存在すら錯覚であったとはそういうことであり、
なんで現れているのかっていうことで言ったら、
そのように意識の中で意識同士が干渉しあって影響しあって、新しい「感じ」が生まれてるだけ。
そう答えはそれだ。現れが現れている感じ。
なぜならば見えているビジョンはそのそれら現れの元となる意識のエネルギーと個体のエネルギーによって、見え方などがいくらでも変わるから、あなたが見ているのが絶対的な真実ではない。
ただ逆を言えばあなたが見ているあなただけの世界はあなただけの真実事実でもある。
ちょっとややこしいだろうけど、見えてる世界も1つじゃないよっていうこと。
そして夢はそれらをミックスしたようなもので、あなたの概念が外れてきているので緩くなっているところに好きなものを想像できるスペースが広がっているそういう状態であって、いくらでも無限に想像することができる。
(続く)
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