第2章 IP6とは、いったい何をしている物質なのか?
細胞内で化学的な情報を伝達する役割を担う分子
それは、1985年夏のある土曜日の午後のことでした。私はいまでも覚えています。
専門雑誌「Cancer (ガン)」の8月15日号を庭先の郵便受けからとって家へ向けて歩きながら、その目次に目を通していました。
と、そのときです。私は、エルンスト・グラーフ博士の論文のタイトル「食事による大腸ガンの抑制―その主役は食物繊維か? それともフィチン酸か?」を見つけ、たいへん刺激されました(グラーフ博士の研究については、第1章で述べました)。
グラーフ博士のおかげで、私はフィチン酸に精通することになりました。言うまでもなく、私は魂を奪われたのです。
何度も何度もその論文を読み返して、グラーフ博士の論じているフィチン酸とは、細胞内にある6つのイノシトール・リン酸化合物のうちの一つであるということがだんだんわかってきました。
このグラーフ博士の論文が、科学者がイノシトール・リン酸化合物について研究を始めるきっかけとなりました。
イノシトール3リン酸(IP3) は、そのころすでに細胞内で化学的な情報を伝達する役割を担う主要な分子であるということがわかっていました。
フィチン酸という名前のつけ方について、なぜイノシトール6リン酸あるいは、短くIP6と呼ばないのだろうかと私は考えました。
イノシトール6リン酸、IP6という呼び方のほうが、膨大なイノシトール化合物の一つであることがわかりやすいだろうと思ったからです。
このように考えて、私は仮説を組み立て、その後何年かかけていくつかの実験を、考え考え行うことになりました。
そしてついに、このユニークな化合物(IP6)が健康にもたらす数多くの有益性を発見することになったのです。
体内で大活躍しているイノシトール・リン酸化合物
イノシトール6リン酸は、1855年に同定されました。ヒトの細胞も含めほとんどあらゆる哺乳動物の細胞内に認められ、極めて重要な細胞機能を制御する役割を担っています。
IP6は、心筋や脳、骨格筋などに高濃度に分布しています。
細胞膜は、すべての細胞を保護し、栄養素が細胞内へ入り、細胞内生成物(老廃物も含む)が細胞外へ出ていくのを制御しています。
これらの細胞膜に、リン脂質と呼ばれる特別な分子が含まれています。
リン脂質は、基本的な脂肪と無機質のリンから構成されています。
フォスファチジル・イノシトールは、これらのリン脂質の一つです。
ホルモンや、神経接合部間伝達物質や、その他の生体内化学物質などが細胞膜と反応すると、イノシトールが種々の数のリン酸基を伴って生成されてきます。
これがリン酸化イノシトールで、IP6も含まれています。
もう一つのリン酸化イノシトールはIP6で、細胞内のカルシウム代謝に関係していることが知られています。
これらのイノシトール・リン酸化合物が生体内で何をしているかを解明することが、多くの研究者の重要な課題となっています。
もうお気付きのことと思いますが、IP6は健康への有益な効能を数多く秘めていて、われわれを期待の興奮へと導く分子であるということが、明らかになりつつあるのです。
生化学者や細胞生物学者は、IP6に起こる奇妙な反応過程に注目していました。
その反応過程とは、リン酸化と脱リン酸化で、イノシトールにリン酸基が一つ付いてイノシトール・リン酸化合物が生成される反応であり、また逆にリン酸基がはずれてイノシトールになる反応です。
イノシトールは、リン酸基が一つから6つまで付いたかたちで存在します(プロローグおよび図1を参照)。
リン酸化と脱リン酸化の反応過程がどのように細胞の働きに影響を及ぼすかというのが、学者たちの関心事でした。
リン酸基の数が少ないイノシトール・リン酸化合物(IP1、IP2、IP3、IP4)は、細胞へ情報を伝達することが知られています。
これらのイノシトール・リン酸化合物の一つの分子が細胞表面の分子に接触すると、ある種の化学的情報を細胞内に伝達します。
この情報伝達は、2つある方法のどれか一つで行われます。
すなわち、IPn(n=1~4) が細胞を取り巻く細胞膜の外面に結合し、それに続いて一連の細胞内の反応を惹起するという場合であり、もう一つはIPn(n=1~4)が直接細胞内に作用する場合です。
イノシトール1,4,5ー3リン酸(IP3)が、細胞に反応を起こさせる情報運搬の役割を担っていることはよく知られています。
ここで、イノシトール・リン酸化合物の前に表記してある数字は、リン酸基が結合するイノシトールの炭素原子の番号と数を表しています。
イノシトール分子には、全部で6個の炭素原子があります。
IP3の伝達する情報には、細胞内に蓄えられているカルシウムを放出させて細胞分裂を起こさせるという機能情報も含まれています。
IP3のいとこに相当するIP4は、細胞内にカルシウムを蓄えるように作用することが知られています。
リン酸基結合数の多い 1,3,4,5,6ー5リン酸(IP5)やイノシトール6リン酸(IP6)も、哺乳動物の細胞内に豊富に存在し、イノシトール・リン酸化合物の大半を占めています。
IP5とIP6は、先に述べたようにヒトの細胞を含めてほとんどあらゆる哺乳動物の細胞内に存在してり、他のIPよりも多い量を占めています。
では、なぜ細胞内にIP5とIP6が豊富に存在するのでしょうか? 自然の女神のなすことには、すべて意味があります。
いますぐに、その意味はわからないとしても、これら分子が生体内で生物学的に何をしているか、われわれは知ることになるでしょう。
最近の研究で、IP5とIP6がどのように機能しているか徐々にわかってきました。
たとえば、鳥類の赤血球のヘモグロビンの酸素結合と、この保持をIP5が制御していることがわかってきました。
また、メンニティ博士と共同研究者たちは、1993年、IP6とともにIP5が神経細胞の興奮、刺激を引き起こす原因物質に含まれていることを示しました。
これまで、IP5とIP6は、不活発で生体内代謝のプール内では眠った状態であると考えられていました。
しかし、最近の研究では、これまで考えられていたより活性があり、いつも代謝回転していて、細胞内でダイナミックな役割を果たしていることがわかってきました。
後の章で述べますが、IP6が以前にも増して注目を浴びるようになってきたのは、IP6がガンの予防およびガンの治療に効果があることがわかってきたからです。
せっかくの有効成分を捨ててしまう現代人の食生活
先に述べたように、IP6はあらゆるところにありす。
たとえば、植物や植物に関連した土壌中の物質にもあります。
IP6は、かなりの量が穀物と豆類に含まれています(0.4~6.4パーセント)。
成熟した大豆の種子は最大2.58パーセントのIP6を含んでいますが、大豆を用いた加工食品(合成物)のIP6の含有量はより少ないといわれています(Harland BF, Ober,leas, 1987)
では、IP6がどこに存在するのか、より詳しく見てみましょう。
IP6は、種子のタイプによって、さまざまな部分に存在しています。
たとえば、単子葉類に属す稲や小麦では、IP6は外被(ふすまあるいは、アルロンと呼ばれる部分)を構成する粒子のなかに集積されています。
単子葉類とは、植物の分類用語で、種子から発芽したばかりの幼若な芽(葉)が一枚である植物を総称してこう呼びます。
トウゴマ、ピーナッツ、綿の実、インゲン豆などの双子葉類の種子では、IP6はフィチンとして存在します。フィチンとは、カルシウムやマグネシウムとの結合物(IPの塩と呼ばれます)のことです。
図2は、米の粒から分離したアルロン粒子を示しています。
アルロン粒子は、いくつかのフィチンの封入体をもっています。
IP6は米、小麦、ライ麦などのシリアル穀物のふすま(種子の外層部分)に豊富に含まれているため、通常の精米あるいはふすまの部分を取り除くような処理によってIP6のかなりの部分が失われてしまいます。
たとえば、精製した米(白米)を食することは過去数十年来の流行ですが、IP6が欠乏してしまうことになります。
しかし、トウモロコシは他の穀類と異なっています。つまり、IP6のほとんど(約88パーセント)が、胚芽の心(中心部)に含まれています。
したがって、胚芽を取り除いたトウモロコシには、IP6がほとんど含まれていないということになりす。
表2にさまざまなパンのIP6含有量を示しました。
IP6に関しては、その発見以来、ジェットコースターのように激しい浮き沈みがありました。
初期の人気の理由は、主にIP6がリンの主要な蓄積形態であるという事実でした。
なぜなら、リンは胚芽を有する種子やあらゆる細胞にとって必須の栄養素だからです。
おそらくリンは、すべての細胞のもっとも重要な分子(ATP)の主要な部分を占めていると考えられます。
ATPすなわちアデノシン3リン酸は、あらゆる細胞でエネルギーを蓄えている分子です。
ATPがないと、細胞はその機能を停止してしまいますし、またこれらの細胞によって構成されている有機体(生物)は死んでしまいます。
これは、植物にも、動物にも、生命あるものすべてに当てはまります。
したがって、IP6は抗ガン作用をもっているばかりでなく、基本的な工ネルギーの原料であるところのリンの供給源でもあるのです。
IP6が関心を呼ぶ他の理由として、活性酸素阻害作用を有しているということがありますが、これに関しては第4章で述べることにします。
IP6の素晴らしい効果がこれまで明らかにならなかった理由
IP6についての初期の好ましい印象も、時には無視されることがありました。
なぜなら、生体内での微量元素の代謝に及ぼすIP6の役割について誤った理解があったからです。
過去約半世紀のあいだ、フィチン酸の豊富な食品を摂取していると生体内微量鉱物元素の欠乏を来す可能性があるかもしれないと論ずる研究者がいまし
た。
近年、アメリカの健康志向の人々のあいだで、肉とポテト中心の食事から、繊維質とフィチン酸の豊富な植物性の食事へと切り替える人が多くなっています。
それに伴って、フィチン酸に寄せる関心もまた変わってきました。
見かけや匂いが本物の肉に似ているばかりでなく、味までも肉によく似た合成食品が大豆からつくられるようになっています。
その結果、かなりの量のIP6がその合成食品に含まれています。
これについては、もう少し詳しく説明をしておいたほうがよさそうです。
IP6のもつ性質の一つは、栄養学的に重要なさまざまな微量鉱物元素(カルシウムから亜鉛に至るまで)と強固な複合体を形成する(キレートする)ということです。
キレートするという言葉は、ギリシャ語でカニの鋏でつかむという単語からきています。
微量元素は、カニの鋏のなか、あるいはIP6の分子が形づくるバスケット状の構造に取り込まれます。
こうして、キレートするという言葉が生まれたのです。
もう少し専門的に言うなら、IP6は「in vitro(実験室の試験管内)」で、プラスの電荷をもってイオンと呼ばれるある種の鉱物原子(微量元素)と複合体を形成するということです。
IP6とイオン結合しやすい順に列挙すると、銅(Cu)、亜鉛(Zn)、コバルト (Co)、マンガン (Mn)、鉄(Fe)、カルシウム(Ca)となります。
かつては、一般的にIP6が食物中に含まれるこれら微量元素の生体内利用を阻害すると考えられていました。
つまり、生体内でキレートすることにより、これらの微量元素が吸収されにくくなると考えられていたのです。
したがって、当面の最大の関心事は、IP6が生体内で微量元素の吸収を抑制する可能性があるだろうという仮説です。
しかし、この仮説は正しいのでしょうか?
一般的に、ある種の物質の特性を分析し、同定する際に踏むべき科学的な手順は、純粋な(あるいは、できる限り純粋に近いかたちの)物質を入手して評価しなくてはならないということです。
鉄の吸収をIP6が抑制すると報告している研究は、すべてではないにしても、そのほとんどが純粋なIP6について行われたものではありません。
むしろ、IP6を豊富に含んでいる食物について行われた研究です。
純粋な、あるいは分離精製されたIP6の化合物は、これらの研究には用いられていませんでした。
今日、食物中に含まれるIP6は、食物中のタンパク質と結びつき、腸管内の消化酵素により壊れやすくなることが明らかになっています。
ガンやその他の病気に対する効果もなくなってしまいます。
また、タンパク質と結びつくことにより、IP6の胃での吸収も遅くなります。
かくしてIP6は、それが消化管内微量鉱物元素と結合しうる場所に長い時間停滞することになります。
これに対して、純粋なIP6はタンパク質と結合することがほとんどないので、細胞に素早く大量に取り込まれます。
第8章でも述べますが、微量鉱物元素とキレートを形成することが、IP6あるいはフィチン酸の摂取を妨げることはまったくないということなのです。
*天然抗ガン物質IP6の驚異(アブルカラム・M・シャムディン著)より出典