1949年、舞鶴に帰ってきた
父は敗戦後4年間シベリアに抑留され、1949年にぼろぼろになってやせ細って舞鶴まで帰って来た。農家の3男坊であった父は、5人姉妹であった母と結婚し婿養子となった。
父も母も働き者であった。米作り、養蚕、たばこの葉栽培、加工トマト栽培、朝から夕方暗くなるまで働いていた。子供も働いた。日差しで温められた脱穀後のわらの上で寝てしまった気持ちよさを覚えている。桑の葉をもぎ取り、トラクターにあふれんばかりに積み込んで、その上につかまって帰ったことも覚えている。子供ながら仕事を終えた高揚感で、大声で歌って帰った。
その頃大きな借金があったことを父の死後に知った。母の母、私の祖母が子宮がんであり、当時の最先端の医療を受けさせるため借金をしたらしい。父と母は働いて働いて借金を返したという。父は60年以上、死ぬまで一言も言わなかったから知らなかった。父の葬儀の席で母の妹から借金のことを聞いた。母の妹たちにすれば大きな恩であり、とても感謝していた。
父が介護施設に入った時の、施設の質問票を見たことがある。「これまでどんな生活をしてきましたか」の質問に、父は「子供の成長を楽しみに生きてきました」と答えていた。
14歳で満州にわたり、戦争に巻き込まれ、シベリアに抑留され、結婚し、働いて働いて、年を取り、あちこち痛くなり、耳が聞こえなくなり、目が見えなくなり、長男に死なれ、妻に死なれ、そして自分も静かにあちら側に行った。不平を言わず泣き言を言わず94年間誠実に生きた父。敗戦後のみじめな日本を再建してきたのは、父のようなたくさんの無名な人たちだ。
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