ICOMOSのヘリテージアラートの「17世紀から続く東京の庭園都市パークシステムの中核」は存在しない概念では?
「ユネスコの諮問機関であるイコモス」と紹介されるICOMOS(本部:フランス)が、2023年9月7日に神宮外苑の再開発に関してヘリテージアラートを発出した。
このヘリテージアラートを根拠に、「神宮外苑地区まちづくり」の計画反対派が正当なお墨付きを得たかのようにふるまい、メディアもこぞって報じ、東京都が事業者による伐採の予定を延ばさせたかのように説明されている。
このヘリテージアラートへは、事業者からも9月29日に反証である「ヘリテージ・アラート」に対する事業者見解についてが発表された。
しかし、事業者からの反証項目にない大きな疑問がこのヘリテージアラートにはある。
ヘリテージアラートが掲載されたページのキャプションにも使われている「ヘリテージ・アラートの焦点は、再開発により差し迫った脅威に直面している『庭園都市パークシステム』の中核である。」という表現だ。
この表現、概念は正しいのか?
庭園都市パークシステムは一般的にも学術的にも存在しない言葉
庭園都市パークシステムの中核とする神宮外苑、江戸時代は大名屋敷(庭園)では無い
神宮外苑をあたかも青山下野守の屋敷であったかのように詐称
以上3点について、説明する。
「パークシステム」とは
最初に検証の前提として「パークシステム」という言葉を紹介する。
パークシステム(park system)とは、日本語では公園緑地系統と訳されている。
東京大学の非常勤講師であった石川幹子氏は、1996年度第31回日本都市計画学会学術研究論文集所収の「23.パークシステムの都市防災計画における意義」で、パークシステムの萌芽として1858年のニューヨーク・セントラルパークの開園と、この「大規模な田園型公園を整備するとともに、この計画と連動させ、公園へのアプローチ道路として、六列の並木を有する広幅員街路を新設したこと」をあげられている。この構成により、広幅員街路(パークウェイ)が火災の延焼を防ぎ、結果として公園隣接地の不動産価値の増大となったと記述されている。
これにならったシカゴの公園整備の例をあげ、次のように記述されている。
本論文では、日本にパークシステムを紹介した片岡安の「現代都市之研究」を紹介し、その後都市計画分野で一般的になったパークシステムが帝都復興計画にも影響を与えているとしている。
一方、日本ではどうだったか。
日本の造園学者、農学者で現在福井県立大学学長の進士五十八(しんじ いそや)氏の第69回建設産業史研究会定例講演『日本の近代公園史、緑の東京史』(2013年11月21日開催)から抜粋する。
アメリカではシステマティックに公園が整備されてきた。それをパークシステムとした。しかし、日本には緑地があるが点で配置され、アメリカのようにネットワークになっていない。日本で都市計画としてパークシステムの考え方が実行に反映されたのは、帝都復興計画からである。
そもそも、日本の江戸時代には「パークシステム」と呼べるものが存在しなかったことになる。
17世紀から続く東京の庭園都市パークシステムの中核?
ヘリテージアラートでは、庭園都市パークシステムという言葉がたびたび使われる。
パークシステムと同様、専門用語かと思いきや、検索してみてもこのヘリテージアラート以前には存在しない言葉だ。
2022年12月以前の指定で「庭園都市パークシステム」をGoogleで検索するとこの状態だ。1件あるが、このページを確認すると、FaceBook内で今年に入って投稿された情報が引っかかっているようだ。
さて、庭園都市パークシステムはヘリテージアラートでどのように言及されているか。
ヘリテージアラートでの庭園都市パークシステムは、まずこの図のタイトルにある。
そして、このページの図のキャプションもこのように記述されている。
ここから、読み取れることは、次の2点である。
「庭園都市パークシステム」は、17世紀より引き継がれていること
「庭園都市パークシステム」の中核は、神宮外苑であること
そもそも、江戸時代がはじまる17世紀に、江戸には「パークシステム」が存在しないことが、冒頭に紹介した進士五十八の文章からわかる。
大名の庭園が点在していただけである。そして何より、神宮外苑は1926年の竣工である。
この時点ですでに「17世紀から続く東京の庭園都市パークシステムの中核」というものが存在しないことがわかる。
ICOMOSのヘリテージアラートは、存在しない概念をヘリテージアラートのために生み出し、発表したことになる。
神宮外苑にあたる場所は江戸時代なにがある?
17世紀から続く東京の庭園都市パークシステムは、まったくのでたらめ、造語であることがわかった。
では、神宮外苑が中核とはどういうことなのか。
ヘリテージアラートに掲載されるこちらの図版では、大名屋敷の敷地を庭園と見なして図示している。神宮外苑は、青山下野守の敷地-Daimyo Estate (Aoyama-Shimotsuke) であったと赤色で塗りつぶしている。
余談であるが、ICOMOSのヘリテージアラートを構成するドキュメントのうち、この資料は通常「Background Document (背景資料)」と位置づけられる資料のようだ。ヘッダの右は「Heritage Alert Background Document」とつけるのが作法らしい。今回の神宮外苑に関しての資料は「Heritage Alert Template」とあり、文字通りテンプレートに書き込んで、ヘッダの編集をし忘れているようだ。ICOMOSのヘリテージアラート資料が、いかに適当に作成され、確認さえきちんとされていない資料かが推察される。
こちらは今回のヘリテージアラートより以前に発出された、別件のヘリテージアラートの背景資料。ヘッダーをみてほしい。
本題に戻る。
はたして、大名屋敷の庭園だったのだろうか。
古地図で確認してみる。
ヘリテージアラートと同じ1843年の古地図をさがすと、天保改正 御江戸大絵図(帙書:御江戸大絵図)というのがある。
明治神宮外苑周辺のランドマークは、まず紀州徳川家の中屋敷①。
紀州殿という表記と広大な敷地が目印だ。紀州徳川家は、上屋敷(公邸)は麹町にあり、こちらは私邸。この土地が後に宮内庁に献上され赤坂御所になる。もうひとつは、梅窓院②。古くから現在まで存在する寺で、ちょうど外苑前駅の三叉路の南側にある。
古地図も、この2つのランドマークのお陰で、神宮外苑の場所が容易に特定できる。
さて、ヘリテージアラートの図版で言及されている青山下野守の場所は現在の青山中学と北青山一丁目アパートのあたり③。厳密に言うとこの一角は神宮外苑ではない。
しかし、ヘリテージアラートの図版ではあたかも神宮外苑全域が青山下野守の敷地がであるかのように、赤色に塗りつぶされいる。
一方、現在の神宮外苑の場所④は、御鉄砲場(ヲテツホウノバ)、伊東修理守(伊東修理)、百人組(百人クミ)と、細々とした長屋のあたりにあたる。大部分が、大名屋敷ではなく、庭園とはいえそうにない地所である。
御鉄砲場は、その名の通り鉄砲で射撃訓練をする場所である。
百人組は、下級武士、同心。鉄砲部隊の住宅である。
伊東修理守の上屋敷は別にあり、こちらは下屋敷である。御鉄砲場と百人組に挟まれた土地、おそらくは鉄砲鍛冶、弾薬の鋳造、などもしていたのではあるまいか。実際に屋敷敷地内にあたる、現在の建国記念文庫のあたりは、鉛の土壌汚染があることがわかっている。
青山下野守の敷地ではなかったのか?
ヘリテージアラートの背景資料にもどる。
同じページに、2023年の公園が色分けされている。
よくみてほしい、1843年に赤く塗りつぶされ、青山下野守と注釈をいれていた土地、青山中学と北青山一丁目アパートの区画が塗られていない。
明治神宮外苑ではなく、神宮外苑地区まちづくりの計画区域でもないので当然ではあるが、青山下野守の大名屋敷と書いていたのに整合性がとれない。
まとめ
ICOMOSのヘリテージアラートの「17世紀から続く東京の庭園都市パークシステムの中核を保全し」は、根拠のない概念であり、根拠もでたらめであったことがわかる。
あらためて、3点、再掲する。
庭園都市パークシステムは、一般的にも学術的にも存在しない言葉
庭園都市パークシステムの中核とする神宮外苑、江戸時代は大名屋敷(庭園)では無い
神宮外苑をあたかも青山下野守の屋敷であったかのように詐称
本ヘリテージアラートが、神宮外苑地区まちづくりの事業者のみならず、東京都と都民の計画が、遅延という多大な影響をうけている。
のみならず、間違った認識を元に、メディア各社が計画に対して疑念の記事を多数あげ、反対運動もそれに比例して拡大している。
ICOMOSには、早急にヘリテージアラートの内容を見直し、訂正することをのぞむ。
少なくとも、ICOMOSのドキュメンテーションルールを見落としている、ヘッダの記述を訂正するべきだ。