〇ソウル・サーチン・ラウンジ54~江守藹のアラバマ物語 パート4
〇ソウル・サーチン・ラウンジ54~江守藹のアラバマ物語 パート4
(本作・本文は約5800字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、11分から6分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと19分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)
~~~~~
〇 5か月ぶりソウル・サーチン・ラウンジ54~江守藹のアラバマ物語 (パート4)
Emori Ai’s Alabama Story (Part 3)
アラバマ物語。
毎月第3水曜日に新宿歌舞伎町の「カブキ・ラウンジ」で行われているソウル・ミュージック、ブラック・カルチャー、ダンス・ミュージックなどに詳しいエキスパートを招いてソウルバーの片隅で話をするようなインタヴュー形式で話を聞く「ソウル・サーチン・ラウンジ」、その第54回が5か月ぶりに行われた。これは当初2020年4月に予定されていたものがコロナ禍で延期されたもの。トークゲストは、日本のソウル界、ダンス界、ブラックカルチャー界の伝説(レジェンド)江守藹(江守アイ)さん。
(カブキラウンジから見えるゴジラ)
体温を測り、手をアルコールで消毒し、シールド型マスクを二人でつけて、扉を開けて換気し、ソーシャル・ディスタンスを十分取って、大声でしゃべらず、マイケル・ジャクソンのようなソフトスポークンで敢行したトーク・イヴェント。そのレポート第4弾。
~~~
1.アメリカ南部の旅~オーティス・クレイとの親交
江守さんは1996年、アトランタ・オリンピックがあるので、南部のことを紹介する本があまりないということで、ヤマハ出版でそうした本を作ろうということになり、メンフィスやアラバマなどよく知った場所を再訪する。
その取材過程でも、それまでに親しくなったルーファス・トーマスやオーティス・クレイらとさらなる親交を重ねるようになった。
メンフィスに行ったとき、ルーファス・トーマスに電話すると、さっそく会いに来てくれたが、その日は予定があったので、翌日ルーファス・トーマスが持つラジオ局で朝番組をやっているので、そこに遊びに来ないかという。翌朝一番で電話をすると、なんとルーファス・トーマスが風邪をひき、当日出演キャンセルになっていて再会できなかった。
(全米で初の黒人所有のラジオ局と言われるWDIAは、ルーファス・トーマスが最初にDJをし始めたラジオ局)
(短パンがトレードマークのルーファス・トーマス。江守さんに会いに来たときは長ズボンだった)
その後、東京に帰る乗り換え地がシカゴだったので、2-3日シカゴで過ごし、オーティス・クレイに会うことにした。ちょうどオーティスがシカゴの北部のブルース・ライヴ・ハウスがいくつもある地域の店でライヴをするというので見に行った。
(オーティス・クレイ)
オーティス・クレイと江守さんの関係はオーティスが1978年4月、O.V.ライトのピンチヒッターで来日したときちょうど赤坂にオープンする予定だった新しい店「ブーツィー」の杮落しに1日招いてからの関係だ。
今ではブルーノートやビルボードライブなど、食事ができてライヴが見られるという店が普通にあるが、1970年代の東京にはほとんどなかった。店舗プロデューサー、江守藹としての金字塔のひとつでもあった。
「若干の食事、フライドチキンとかポテトとか酒のつまみがでるライヴハウスはあったんだけど、ちゃんとした食事ができる店はなかった。そこで、食事ができて、一流のDJがいて、週末にはダンスもできるような店を考えた。イタリアンのちゃんとしたコースを出すレストランで、ライヴも見られるという店だ。
赤坂で『フランス乞食』と『スーパーコップス』というディスコをやっている会社が、その『スーパーコップス』を閉じて何か新しいことをやりたいと相談を受けたので、そういうアイデアをだしたんです。そうしたら社長がのってくれてやることになった」
(スーパーコップスのマッチ)
「オーティス・クレイはもともとO.V.ライトが来日する予定だったのが、病気かなにかで急遽キャンセルになり、ピンチヒッターで来ることになったものでした。たしかスマッシュの日高さんが呼んだ。今や、フジ・ロック・フェスティヴァルで大スターですが。(笑) たぶん、あのあたりのO.V.からのアーティスト・ネットワークがいろいろあったんじゃないかな。O.Vのあとのオーティス・クレイ、さらにそのあと、ドン・ブライアントとかアン・ピーブルスとか(いずれも、メンフィス・ハイ・レコードの重鎮)が相次いで来日するでしょう。オーティス・クレイもあの頃、レコードはメンフィスのハイ・レコードからでてたでしょう。ウィリー・ミッチェルのプロデュースで」
(O.V.ライト)
「オーティスと仲良くなれたのは、ピンチヒッターで来て、幸いにもライヴが素晴らしかったからライヴ盤も録音した。日本人のみんなが熱く迎えてくれた。ただ、そうなることは事前には誰もわからなかった。そのときプロモーターがちょっと困ってたので、じゃあ、僕が一日買うよ、ということで一日買ってブッツィーの杮落しのイヴェントにしたんだ。
小さな店だったので楽屋がないから、近くの東急ホテルに部屋を取って楽屋にして、あったかいレモネードを持って行ったりした。あのときはバンドもよかったねえ。で、そのあと僕は九州にしばらく行くことになるけど、そのとき、熊本・福岡にもオーティス・クレイを呼ぶんですよ。九州のちゃんとしたコンサートホールでやった。
嬉しかったのは川崎のチッタでやったとき。2階の招待席にいたんだけど、ショーの途中のMCで、彼は僕が来てるのは知らないんだけど、『今の僕がこうして日本に来られているのは、江守と桜井ユタカのおかげだ』と言ってくれたんです。泣けちゃったよ」
「そして、エディー・ケンドリックスの葬儀に行きました。その帰りにシカゴ経由で行くので連絡したら、シカゴに土曜日に着いたのかな、明日、ライヴやる、っていうことでライヴをシカゴの北に見に行った。そうしたらそこでもまた『今日ははるばる日本からエディー・ケンドリックスの葬儀の帰りに寄ってくれたエモリだ』と言って紹介され、席で立たされたんだ。そのとき、帰る前に一度一緒に食事をした」 1992年10月のことだ。
その後、オーティス・クレイがビルボード・ライブ出演で来日したときももちろんライヴを見て旧交を温めた。
「オーティス・クレイもものすごくいい人、ルーファス・トーマスもいい人。やはり、南部の人独特のサザン・ホスピタリティーなのかなあ。オーティスが亡くなったときの葬式やデニス・エドワーズ、ルーファス・トーマスのお葬式も行ってないんですよ。お葬式行くっていうのは、すごく労力がいるよね。あと、知ってからすぐにチケット取ったりしないといけないから」
(エモリさんと言えば、このイラスト)
2. エディー・ケンドリックスの葬儀
「アラバマは観光資源はないが、マッスル・ショールズ・スタジオとフェイム・スタジオがあります。あれはほんとに何もないところに、ぽつっとスタジオが立ってる。あのあたりって、まずビルがないから、空が広い。だ~~んとしてて、ただだだ広い。スーパーマーケットだって、平屋か2階建て。フェイムがここにあると、交差点まがってしばらく行ったフローレンスという街にマッスル・ショールズ・スタジオがあって、そのすぐ近くには大きなテネシー川が流れている。雰囲気はそっちのほうがいい。フェイムなんて、通りの横にぽつんとあるだけ。だけど、ロゴが目立つからね。近くに、もうひとつアラバマ・ミュージック・ホール・オブ・フェイムっていうのがある。そこも入場料払えばだれでも入れる。
(マッスル・ショールズ・スタジオ外観)
(フェイム・スタジオ外観)
マッスル・ショールズもちらっと入った。その日セッションをやってなければ、見ることはできる。ロイヤルは中に入った。
マラコは行った。マイアミのTKはいかなかったけど、ジョン・アビーのイチバンには行った。アトランタのちょっと郊外。ジョン・アビーはその昔、イギリスでブルーズ&ソウルという雑誌を出していて、それを読んでたので、彼もちょっとあこがれの人だったんで。ジョン・アビーには、デイヴィッド・シーのアルバムを売り込みに行ったんだが、アメリカではなかなか売れないだろう、ということで契約はできなかった」
「アメリカの葬式って派手なんですが、そのお話をしましょう。日本でいう斎場みたいなところに遺体があって、いちど、エディーの家に行きます。それまでみんなが家で待機してて、エディーが来ると、みんなで車に乗って彼が生前通っていたファースト・バプティスト。・チャーチに行きます。車列が約50台、前に白バイが2台、真ん中に2台、後ろに2台。ずっと、ゆっくり40キロくらいで走っていく。交差点を通るときも、そのフネラル(葬儀)の長い車列が通るまで、逆側は通り過ぎるまで全部止まって待ってる。葬儀の車列は大優先なんですよ。50台も通るとなると、けっこう時間かかるよ。教会に着くと、黒山の人だかりで、翌日のバーミングハム・タイムズに写真と記事が出てたんだけど、2000人がそこで待ってたんだって。
(エディー・ケンドリックス葬儀)
教会に着いた。ロバート・メイが運転して、僕がレンタカー屋で借りたリンカーン。葬式なので奮発しなきゃと思って。(笑) 前に乗ってるのはボビー・ウォーマックで、ボビーが車から降りるとまわりの人たちがウォーってなって、次に降りてきたのが日本人(の僕)で、みんな『なんなんだコイツは?』って顔をしてました。偉そうに教会に入っていく。みんなは教会の中に入れない。途中(エディーの)お母さんとハグして。その前日、エディーのうちに行って真っ先にお母さんのところに会いに行った。そうしたら、お母さんが『あなたがエモリか』って歓迎してくれた」
エディーは52歳で亡くなっているので、お母さんは70か80くらいか。
「お母さんは最近まで元気で、1992年には元気です。教会に入ると、スピーチ、歌、スピーチ。歌はまずデニス・エドワーズが1曲歌って、ボビー・ウォーマックも歌って。教会に入ると、初めてテンプテーションズのメンバーがいるわけ。オーティス(・ウィリアムス)のテンプスね。ほかにメリー・ウィルソンとかシュープリームスのメンバーとか、いつの間にか来てる」
ベリー・ゴーディーはいましたか?
(ベリー・ゴーディー・ジュニア=モータウン・レコーズ創始者)
「いたかどうか、わからない。いたかもしれないけど。わからなかった。あ、でも、来てないかもしれないな。というのは、エディーはモータウンやベリー・ゴーディーのことをボロクソ言ってたから。(笑) 今日、たまたまユーチューブでエディーのドキュメンタリーみたいの見たんだけど、それによると、どうもダイアナ・ロスがエディーのことが好きで、それをベリー・ゴーディーが取ってったみたいなことがでてたんですよ。だからエディーからすると、とても気に入らない。エディーとダイアナは、シュープリームス、テンプスができる前にはプライメッツ、プライムスのメンバーで元々仲間同士だったから。エディーは見ての通りかっこよくてハンサムだから女性はみんなエディーにぞっこんになるわけだけど。あと、ダイアナ・ロスも出身は本当はアラバマなんだけど、公式にはデトロイト出身になってて、でもさすがにダイアナは来てなかった。エディーとシュープリームスの中で一番仲いいのはメリー・ウィルソンね」
江守さんがこの日、偶然みつけたのは、音楽ドキュメンタリー『アンサング』のエディー・ケンドリックス回。
こちら(約41分)
https://www.youtube.com/watch?v=FTv-gQFeJXs&t=73s
「この中でちょっと残念だったのが、エディーの生前最後の公衆の面前でのライヴとして、1992年4月のアポロ・シアターの映像が紹介されてたんだけど、本当は1992年7月のパワー・ステーションが最後なんだよね。まあ、アポロのほうが見た目はいいから、しょうがないんだけどね」
あのパワー・ステーションはフィルムとかビデオとか残ってないのですか?
「残ってないんだよねえ。探せば、誰かが撮ってるかもしれないけどね。今だったら、スマホでみんな撮ってたかもね」
吉岡。「1992年だったら、ソニーの一般向け8ミリビデオが1989年に出てるから、誰かしら撮ってるかもしれないですね」
「まあ、アポロ・シアターがファイナルのほうがいいけどね。(笑) ただ、最後のコンサートがアポロです、って出るんだけど、その前にちょろっと僕の(日本公演の)ポスターが映るんだよ。日付はでてないんだけど。正確に言えば、日にちは書いてたかもだけど、年号書いてないんだよ」
(左からデイヴィッド、デニス、エディー、いずれも鬼籍に入られた)
3. ターニングポイント
すでにここで10時を過ぎ、ソウル・トレインの話、ドン・コーネリアスの話、これが1999年の話なので、勝本さんの話など、また次回でしょうか。
ソウル・トレイン・カフェは1999年にお台場にオープンし、約1年半続いた。しかし、この話が出たときに2年後に六本木ヒルズで店をやる選択肢もあった。
(ソウル・トレイン・カフェ)
「もし六本木ヒルズでやってたら、今も店は続いてたかもしれないですね。でも、短気な江戸っ子は2年その時点で待てなかったね。店はいい店だったけど、場所がまずかったということだと思う。まあ、それもそういう流れだったと思う」
まさにそこで歴史は動いたのかもしれない。
(もし、2年待ってお台場ではなく、六本木ヒルズに出来ていたら…)
(江守さんが1998年にリリースした南部紹介の本)
~~~~
江守さんの話は、今回は『アラバマ物語』ということで、アラバマ、南部中心の話になった。江守さんの話を聴きながら、ネットでその場の写真などをスクリーンに映し出していると、まるでアラバマに疑似旅行しているかのようだ。葬儀の模様などを江守さんの言葉を聴きながら、自分の脳内でイメージを作り上げていくと、まるで映画のよう。
(写真提供・上田さん。左から吉岡、DJオサ、江守)
江守さん、そしてご参加いただいたみなさま、今回も長時間、おつきあいありがとうございました。
~~~~~
Setlist : Soul Searchin Lounge #54
1st set
Show started 19:30
TM What’s Going On – David T. Walker
M01 Searchin For Love – David Sea
M02 If Loving You Is Wrong – David Sea
M03 Distant Lover
Ended 20:42
2nd Set
Started 20:58
M01 Sweet Home Alabama – Lynyrd Skynyrd
M02 I Stand – David Sea
Show ended 22:20
~~~~~
■サポートのお願い
ソウル・サーチン・ブログは2002年6月スタート、2002年10月6日から現在まで毎日一日も休まず更新しています。ソウル関係の情報などを一日最低ひとつ提供しています。
これまで完全無給手弁当で運営してきましたが、昨今のコロナ禍などの状況も踏まえ、広くサポートを募集することにいたしました。
ブログの更新はこれまで通り、すべて無料でごらんいただけます。ただもし記事を読んでサポートしてもよいと思われましたら、次の方法でサポートしていただければ幸いです。ストリート・ライヴの「投げ銭」のようなものです。また、ブログより長文のものをnoteに掲載しています。
オリジナルはソウル・サーチン・ブログ
ソウル・サーチン・ブログ・トップ
https://ameblo.jp/soulsearchin/
noteでの記事購入、サポートのほかに次の方法があります。
方法はふたつあります。送金側には一切手数料はかかりません。金額は100円以上いくらでもかまいません。
1) ペイパル (Paypal) 使用の方法
ペイパル・アカウントをお持ちの方は、ソウル・サーチンのペイパル・アカウントへサポート・寄付が送れます。送金先を、こちらのアドレス、 ebs@st.rim.or.jp にしていただければこちらに届きます。サポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名でも可能です。もし受領の確認、あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。
2) ペイペイ(PayPay) 使用の方法
ペイペイアカウントをお持ちの方は、こちらのアカウントあてにお送りいただければ幸いです。送金先IDは、 whatsgoingon です。ホワッツ・ゴーイング・オンをワンワードにしたものです。こちらもサポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名などでも可能です。もし受領の確認、あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。
3) サポートしたいが、ペイペイ、ペイパル、ノートなどでのサポートが難しい場合は、 ebs@st.rim.or.jp までご連絡ください。銀行振込口座をご案内いたします。(ちなみに当方三井住友銀行です。同行同士の場合、手数料がゼロか安くなります)
コロナ禍、みなさんとともに生き残りましょう。ソウル・サーチン・ブログへのサポート、ご理解をいただければ幸いです。
ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴
ANNOUNCEMENT>Support
~~~~
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?