■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」001 ■■ 〇「『人生で一番高い買い物~あるミュージシャンのある物語』~カール・アンダーソン (パート1)
■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」001 ■■
〇「『人生で一番高い買い物~あるミュージシャンのある物語』~カール・アンダーソン (パート1)
(本記事は最後まで読めます。読後良かったと思えばサポートをお願いします)
【The Most Valuable Thing He Ever Bought In His Life】
買い物。
「ソウル・サーチン・ブログ」になってから18年。それ以前の執筆活動も含めると1975年からとして45年。そのアーカイヴから傑作を掘り起こしていくシリーズ、その第一回。過去20年超の中で僕がもっとも好きなストーリーの一本です。カール・アンダーソンのインタヴューは1991年6月14日と1992年8月5日都内のホテルで各60分程度行われました。本稿のオリジナルの一部はダイナースクラブの会報誌「シグネチャー」1995年3月号に発表されそれに加筆修正しました。
深淵なテーマは「人生の微調整」、そして、これまた普遍的な「父と子」。カール・アンダーソンの人生における「微調整」とは、そして、カールと父の確執とは。あなたが買った生涯でもっとも高い物は何ですか? 5000字超の物語をゆっくりお楽しみください。
(黙読ゆっくりで1分500字、早い人で1分1000字~1200字換算すると、10分から5-6分です。ちなみに声を出してのいわゆる「音読」、あるいはアナウンサーは1分300字くらいの速度で読むそうなので、アナウンサーが読むと17分くらいの至福のひと時です)
~~~~~
カール・アンダーソンの人生で一番高い買い物~
『人生で一番高い買い物~あるミュージシャンのある物語』
衝突。
父親が聴かせてくれたサム・クックとナンシー・ウイルソンのレコードがその息子の行く道を決めた。父は彼に医者になってほしいと願ったが、息子は歌手を目指した。父と衝突し家を出た時16歳だった少年、彼の名はカール・アンダーソン。今年(1995年)で50歳になるヴェテラン・シンガーだ。(カールは1945年2月27日生まれ)
彼は自らを「人生をゆっくり学んでいるスロー・スターター」と呼ぶ。カールには大学に通う息子がいて、父も健在だ。二十代でヒット・ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』に抜擢されスターになった彼はここ数年、じっくりと自分の人生の様々な部分を振り返り考えるようになった。
カールは人懐っこい笑顔を見せながら、ゆっくりと言葉を選んで語る。
「私はずっと長い間、仕事ばかりを追及してきた。だが、ほんの数年前から、自分の人生を第一に考えるようになった。仕事第一で行くとどうしても自分自身の人生が二義的なものになってしまう。だが、実際はそうではないんだ。反対なんだよ。自分の人生を追及していけば、仕事におけるキャリアはそれに付いてくるんだ」
大きく息をついて、彼は自分の人生を振り返る。五十代にアプローチして、やっと自身が成し遂げてきたことをよくも悪くも冷静に評価できるようになった。
「子供時代は厳しく辛かったが、二十代前半は本当によかった。若くして、世界中に行け、おそらくこの仕事をしていなければ決して会えないような人々にも会うことができた。イギリスの女王やイタリアの首相に会ったり。だが大人になった今、それを考えると、そうしたことが一体何の意味があったんだろうと思う。子供が生まれて、私はそれまでやってきたことの意味をじっくりと考えるようになった」
そして、ちょっとしたことが、人生を変えるという話をしてくれた。
@@@@@
微調整。
彼は、二十代で結婚し息子をもうけたが、その後離婚。離婚して数年間、独身生活を続けていた。食事は、ほとんどすべて外食か、家で食べるときでも、テレビを見ながら、簡単なものしか食べていなかった。そんなとき、友達が面白い本をカールにくれた。『人生のインストラクション・ブック』といった類の本で、ここには、ちょっとした生活のヒント、人生を楽しく過ごすための格言のようなものが、たくさん書かれていた。
いわく「商売のトリックを学ぶな。商売を学べ」。
いわく「消防士、警察官、兵士には敬意を表しなさい」。
いわく「両親を尊敬し、母親には電話をしなさい」。
いわく「車は、安い車を選び、家は自分が買える範囲でもっとも高いものを買いなさい」。
「これはカリフォルニアではあてはまらないんだけどね。あそこではみんなが多くの時間を車の中で過ごすから」と彼は笑う。
その中に「良い食器を使いなさい」というフレーズがあった。カールはこれを見て思い当る節があった。というのは、彼が新品でもらった良い食器が段ボールに入ったまま、何か月も眠っていたからだ。そこで、カールはそれまでのインスタント・フードをやめ、毎日、前菜からメインまでコースの食事を自分のために作り始め、その眠っていた良い食器を使い始めたのである。それは自分自身を特別なゲストとしてもてなすディナーだった。
するとどうだろう。なぜか、人々の彼に対する接し方が急に変わり始めたのである。そしてまもなく、彼は新しいガール・フレンドと出会うことになる。ある晩、カールはその彼女を自宅に招き、ディナーを振る舞うことになった。しかし、彼にとって、良い食器を使い、前菜から始まるコース・ディナーを作るのはお手の物だ。ワインを用意して、テーブルをセッティングし、彼女のために豪華なディナーを準備すると、彼女は「これを本当に私のために作ってくれたの?」と驚いた。
彼は「もちろん」と答える。だが、彼にとっては昨日と同じものを、同じように作っただけなのだ。そして、彼と彼女は親密になっていく。
彼は語る。「それまでも、誰かゲストが来ればいろいろ料理をしたが、自分一人のためにきちんと料理をしたことはなかった。これは、人生における『微調整』だと思う。以後、すごく、自分の気分が良くなったよ。そして、同時に自分自身に対しても、ハッピーになった。何だか人生が開け始めたような気がしたんだ。それからは、それまで以上に自分自身を愛せるようになった。私がこのことから学んだことは、ほんのちょっとした『人生の微調整』でも大きな結果をもたらすことがある、ということだ」
@@@@@
責任。
なぜ、彼は人生の微調整を試みようと思ったのか。何か彼の人生に転機でもあったのか。
「ここ数年、人間というものがどれほど無力で、壊れやすいものかを痛感したんだ。ハイスクール時代からの親友が突然死んだ。彼は非常に健康で、素晴らしいスポーツ選手で、とてつもない頭脳の持ち主だった。そんな彼が死んで、自分の人生を振り返るようになった。彼はなりたいものには何でもなれただろう。大統領にだってね。今、彼がこの世を去って、どのようにして、彼の人生の尊さを計れるだろうか。彼のその尊さを語れるのは、恐らく自分も含めて彼を知るほんの何人かの友人たちだけだ。そこで、彼が私に残してくれたものに、私が何かを足して、だれかにそれを伝えたい。私もここ(日本)に来てほんの数日だが、私が日本を去った後も、ここには私と彼のレガシーは残る。彼には子供がいなかった。彼が死ぬ前に、同窓会のことなどで、いろいろ長話をしたんだ。そのときの同窓会は、彼が唯一出席できなかった会で、私が彼に電話して、その同窓会がどれだけ盛り上がり、素晴らしかったかを伝えた。次の年は私が日本に来ていて出席できなかったので、今度は彼が電話をしてきて、同窓会の話をしてくれた。そのとき、彼は今度結婚して子供を作るんだ、と言っていた。だが、どういうわけか結婚はしなかった。彼の存在は、彼を知っている人たちには強烈なインパクトを与えている。その彼の死は、私の人生に様々な点で大きな衝撃を与えた。つまり、次の瞬間に、何が起こるかわからない、ということだ」
カールはその後『ファンタジー・ホテル』(1992年)というアルバムを発表する。
「ここに収められた私のステイトメントは、今この瞬間こそ貴重なものだ、ということなんだ。この瞬間は、二度と再び訪れない、という意味だ。今起こっているいいこと、素晴らしいこと、この場にあるこの美しい色、いい匂い。これらは今ここで感じなければ、二度と感じることはない、ということなんだよ」
そして、カールはその頃から自分自身に対する責任感というものを真剣に考えるようになった。自分のレコードが売れないのは、レコード会社の責任ではない。自分にいい仕事が回ってこないのは、マネージャーのせいではない。私の人気が爆発しないのは一般大衆の責任ではない。それはすべて私自身の責任なのだ、ということを強く意識するようになった。そして、こうした意識が彼の人生を一歩進展させたと彼自身は思っているのだ。
@@@@@
闘争。
そして、彼が人生の微調整をしてから半年もしない内にこんな事が起こった。
16歳のときに彼が家出をして以来、父親とカールの間には深い溝があった。カールは自分が父が住むワシントンDCでコンサートを開く時に毎回父親を招待していたが、これまで一度も会場にやってきたことはなかった。
父親はカールの仕事を理解できないでいた。また、医者になって欲しいという自身の夢を叶えてくれなかったことへの恨みもあったかもしれない。だが、その時、80歳を越える父親が、生まれて初めて、カールのコンサートを見に来たのだ。カールの姉が無理矢理父親を連れてきたとはいえ、何はともあれ会場にやってきたのだ。それは、父親にとって初めてのカールのステージであるだけでなく、生涯初めて見るコンサートだったのだ。車椅子には乗っているが、父は頭脳は明晰でまだまだ健康だ。
カールは、父親がステージ上の自分のことを見てどう思うか考えた。80歳を越えた父は、まもなく50歳になろうとしている自分の息子がステージでしていることを見てどう思うのだろうか。父親が50歳の時には、何をしていたのだろうか。ステージで歌いながら、そんなことばかりがカールの脳裏をかけめぐった。
おそらく、父親も混乱していたにちがいない。カールがやっていることは、きっと、父からすれば20歳位の若い連中がやるようなことだと思っただろう。
「私は、父が絶対にそう思ったと確信しているよ」とカールは言う。父親は、カールがこのショウ・ビジネスの世界に入ることに反対で、まったくサポートしてくれなかった。
「父は決して私がシンガーになることを喜んでいなかった。多分今でもね。これは私の人生における最大の闘争だった。父親は私に医者になってほしかったのだ。実は私自身も、(今では)息子にはシンガーにはなって欲しくないと思っているんだ。ただし、彼がその道を選ぶのなら、力を貸すけれどね。息子は、私が歩んだ道よりはもう少しましな道を歩むことになるだろう。だが、私は父が自分にそうしてくれなかったことに対して彼を責めたりはしない。私が父親と断絶してしまったからだ。父には私をサポートするということがどうしても理解できなかった。そのことで私は悲しい思いもしたが、今、息子ができて、父の気持ちが少しはわかったような気がする。父親を見て、息子を見ていると、いろいろなことがわかってくる。例えば、息子が12歳になれば、自分が12歳の時と重ねあわせながら振り返ることができるからね」
彼は続ける。「十代の時、父が私を応援してくれようが、くれまいがそれは関係なかった。彼がたとえ私に罰を与えても、私は自分がしたいことに邁進したからだ。私は時にこんな責任を感じることがある。つまり、私には今13歳になる息子がいるが、息子は私にとっての『未来』なんだ。私はこの世界が彼にとって快く住めるようなところにしたいと思う。戦争なんか起こらないでほしいし、責任感というものを息子にももって欲しいと思う」
カールと長い間戦ってきた父親は、何千人もの観客の前でカールが歌う素晴らしいステージを見て、どう思ったのだろうか。驚いたかもしれないし、恐怖さえ感じたかもしれない。それはすべて彼にとって初めての新しいことだったからだ。
「父は何も口に出して言わないが、それでも、恐らく、私のことを誇りに思ってくれたに違いない」とカールは推測する。
@@@@@
解放。
彼はその日、車椅子に乗った父親をステージに上げ、観客に紹介し、父に向けて「イフ・アイ・クド」という曲を歌った。
「もし私にできることなら、私が経験してないことでも、おまえに教えよう。もし私にできることなら、私が燃やしてしまった橋をもう一度元通りにして、おまえを渡らせよう」といった内容の、いわば親から子へのメッセージ・ソングだ。カールは、これを父から自分への歌として歌ったのだ。
「『イフ・アイ・クド』を歌う時は、いつも涙がでてしまうな。父親には、(僕からの)そのメッセージが伝わらなかったようだ。でも、これは自分自身のためにやったからいいんだ。それは私にとっての解放の瞬間だった。父親は、私にサム・クックとナンシー・ウイルソンを与えてくれた。彼が与えてくれたそうしたレコードに影響され、私はシンガーになりたいと思った。だから、その部分で父親にも責任はあるんだがね」と彼はポツリと言った。彼にとっては、家を出てから30余年にして初めて、父親に自分の気持ちを何千人もの前で告白することができ、満足だったのである。
良い食器を使い始めたことと、父親がライヴを見に来たことは直接関係ないかも知れない。だが、カールにとってそれは偶然とは思えない。
彼は言う。「何かに価値を付ければ、それがそのものの価格になる。私は自分がしたいことをするため、ミュージシャンになるために大変高い代償を払った。つまり、これは私が生涯買った物の中で、もっとも高い買い物だった。私はこれを父親から買ったのだ。だがその価値は充分にあった」
彼がそう言ったとき、彼の目は赤くなっていた。
IF I COULD – Carl Anderson
https://www.youtube.com/watch?v=CZcx3x5FdGo
@@@@@
(この項、『イフ・アイ・クド』物語につづく)
吉岡正晴
(1995年1月・記=オリジナル)
(オリジナル・ヴァージョンはシグネチャー誌1995年3月号に掲載。ウエッブに掲載した本稿は、2002年9月、オリジナル執筆時に文字数の関係でカットしたものを加筆しました)
「ソウル・サーチン・ブログ」のオリジナルはこちら→
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/story/anderson199501.html
(注)
「イフ・アイ・クド」は、カールの1990年のアルバム『ピーセス・オブ・ア・ハート/(邦題・夏の夢のかけら)』に収録されています。
タイトル 「カール・アンダーソン/夏の夢のかけら 」
原題 Pieces Of A Heart
メーカー MCA
レーベル GRP
品番 MVCR 67 (旧番号:VICP-48(900621・VI))
発売日 1994年8月24日 (再発)
税込価格 2,548円
https://amzn.to/2y8x3gF
演奏者 カール・アンダーソン(vo)ジョー・サンプル,ラッセル・フェランテ (p)カーク・ウェイラム,サム・ライニー(sax)ラス・フリーマン(g,sy n)(2)ブレンダ・ラッセル(vo)他
曲目
(1)マイ・ラヴ・ウィル
(2)ベイビー・マイ・ハート(デュエット・ウィズ・ブレンダ・ラッセル)
(3)ハウ・ディープ・ダズ・イット・ゴー?
(4)ユーアー・ザ・リーズン
(5)ホット・コーヒー
(6)心のかけら
(7)イフ・アイ・クッド
(8)チルドレン・オブ・ア・レッサー・ゴッド
(9)ライフズ・レッスンズ
(10)ダンス・オブ・ザ・セヴン・ヴェイルズ
(11)処女航海
(2002年9月25日アップ)
ENT>STORY>The Most Valuable Thing He Ever Bought In His Life
■サポートのお願い
本ソウル・サーチン・ブログは2002年6月スタート、2002年10月6日から現在まで毎日一日も休まず更新しています。ソウル関係の情報などを一日最低ひとつ提供しています。
オリジナル・ブログ:https://ameblo.jp/soulsearchin/
これまで完全無給手弁当で運営してきましたが、昨今のコロナ禍などの状況も踏まえ、広くサポートを募集することにいたしました。
ブログの更新はこれまで通り、すべて無料でごらんいただけます。ただもし記事を読んでサポートしてもよいと思われましたら、次の方法でサポートしていただければ幸いです。ストリート・ライヴの「投げ銭」のようなものです。また、ブログより長文のものをnoteに掲載しようと考えています。
サポート方法として実験的に次の方法を試してみます。
方法はふたつあります。送金側には一切手数料はかかりません。金額は100円以上いくらでもかまいません。
1) ペイパル (Paypal)使用の方法
ペイパル・アカウントをお持ちの方は、ソウル・サーチンのペイパル・アカウントへサポート・寄付が送れます。送金先を、こちらのアドレス、 ebs@st.rim.or.jp にしていただければこちらに届きます。サポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名でも可能です。もし受領の確認、あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。
2) ペイペイ(PayPay)使用の方法
ペイペイアカウントをお持ちの方は、こちらのアカウントあてにお送りいただければ幸いです。送金先IDは、 whatsgoingon です。ホワッツ・ゴーイング・オンをワンワードにしたものです。こちらもサポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名などでも可能です。もし受領の確認、あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。
コロナ禍、みなさんとともに生き残りましょう。サポートへのご理解いただければ幸いです。
ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴
ANNOUNCEMENT>Support
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?