シシー・ヒューストン91歳で死去~ホイットニー・ヒューストンの母~1989年インタヴュー時の思い出
シシー・ヒューストン91歳で死去~ホイットニー・ヒューストンの母~1989年インタヴュー時の思い出
【Cissy Houston Dies At 91 : Whitney Houston’s Mother】
母。
ホイットニー・ヒューストンの母であり、自身、ゴスペル・シンガー、ソウル・シンガーとしても活躍していたシシー・ヒューストンが2024年10月7日、ニュージャージー州ニューアークの自宅で家族に看取られながら死去した。91歳だった。認知症が進み、ホスピス・ケアを受けていた。義理の娘、パット・ヒューストンが発表した。
記事
https://www.bbc.com/news/articles/cx24l70pkd2o
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Cissy Houston, Whitney Houston's mother and a Grammy-winning singer, dies at 91
(約2分12秒)
シシーがホイットニーを温かく見守り、最後にアポロ劇場の舞台袖で、娘を迎えてハグするシーン
Whitney Houston - Greatest Love Of All (Official 4K Video) (4:51)
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評伝。
シシー・ヒューストンは1933年9月30日、アメリカ・ニューヨークのすぐ隣りニュージャージー州ニューアークに8人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。本名、エミリー・ドリンカード。上から2番目で長女のアーサー・リー・ドリンカード(1920年~2005年)に3人の子供がいるが、上からディオンヌ(1940年生まれ)、ディ・ディ(1942年~2008年)、マルセル・ジュニア(1947年~1968年)で、シシーはディオンヌの7歳年上の叔母、シシーから見るとディオンヌは7歳年下の姪にあたる。シシーの娘ホイットニーと、シシーの姉リーの娘ディオンヌはお互いいとこ同士にあたる。
ドリンカード兄弟姉妹は、近くの教会で歌い始め評判をとるようになる。ドリンカード・シンガーズと名乗るようになり、地元の教会で人気となるが、レコーディングの声もかかるようになり、ニューヨーク近辺のスタジオ・セッションの仕事をてがけるようになった。1960年代中期になるとそうしたスタジオでの着実な仕事ぶりが評価され、ポップ/ゴスペル・のコーラス・グループ、スイート・インスピレーションズと名乗るようになり、アリーサ・フランクリン、エルヴィス・プレスリーなど大御所のバック・コーラスをスタジオ、ライヴ・ツアーなどでつけるようになった。また、そうした評判を背景にスイート・インスピレーションズはアリーサが先に契約していたアトランティック・レコーズと契約。同グループ名義でアルバム・デビューを果たした。
そんな音楽業界の第一線で働く中、1963年にホイットニー・ヒューストンが誕生。しばらくは娘を連れてレコーディング・スタジオや子供を見てもらいつつ一部のツアーにでていた。
1969年末で、シシーはソロ活動に主軸を置くためと子供を育てるためにグループを脱退。以後、多くのレコーディングに参加。
1970年イギリスのレーベルから初ソロ・アルバムを発売後、1977年、ニューヨークのインディ・レーベル、プライヴェート・ストック・レコーズと契約。1978年に「シンク・イット・オーヴァー」の大ヒットが誕生。その後、コロンビア・レコーズからも2枚のアルバムを発売。ちょうどこの頃の1979年11月、ヤマハ主催の『世界歌謡祭』に「ユー・アー・ザ・ファイアー」でエントリー。グランプリにつぐ「最優秀歌唱賞」を獲得した。以後、ゴスペル・アルバムなどをリリース。コンスタントに活動を続けていた。
You're The Fire - Cissy Houston
https://www.youtube.com/watch?v=lw79gkbHQ_c
1997年に発表したアルバム『フェイス・トゥ・フェイス』、1999年に発表した『ヒー・リーデス・ミー』がグラミー賞「トラディショナル・ソウル・ゴスペル」部門を受賞した。
一方、娘のホイットニーには力の限りサポートし、デビュー前から自身のライヴで、娘に一曲歌わせてステージ経験を積ませるなど、英才教育を施した。1983年、アリスタ・レコーズと契約し、1985年デビュー後もアドヴァイスを与え続けた。スーパースターになり、ドラッグ禍に陥ったときも、リハビリに入るよう勧めた。
ホイットニーは2012年2月11日、48歳でグラミー賞前日にべヴァリー・ヒルズのホテルのバスタブの中で死去。その娘、シシーの孫、ボビー・クリスティーナ・ブラウンは2015年7月26日、22歳で死去。娘と孫を見送ることになってしまった。
シンガーとしては、ゴスペル・シンガーとしての確かな歌唱と表現力で業界内での地位を築いた。また、アリーサのバックなど、バック・コーラスのシンガーとして、ルーサー・ヴァンドロスなどに大変好かれ、両者はお互いのライヴなどに足を運んでいる。
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▢「ミケールズ」でのシシーのライヴに客席から現れたシンガー~インタヴュー時の思い出
シシー・ヒューストンのライヴは1987年頃、ニューヨークのライヴハウス「ミケールズ」(97丁目&コロンバス・アヴェニュー、アッパーウェストサイド)で見た。これはすでにどこかに書いたかもしれないが、半分はシシーを見たいということと、もう半分はそこに娘のホイットニーが現れるのではないかという期待もあった。ただ、もうその時点でホイットニーはスーパースターの座についていたので、この小さなライヴハウスに来るのは、なかなか難しいかとも思われた。
シシーの歌声は、ゴスペルのルーツもありつつ、かなりポップ寄りの作品を聴かせていた。終盤に差し掛かり、やはり、娘は来ていないようだったが、思わぬサプライズ・ゲストが現れた。なんと、盟友ルーサー・ヴァンドロスが客席にいてステージにあげられたのだ。ルーサーの飛び入りには、ホイットニーの飛び入り以上に驚いた。何か一曲歌ったのだが、その曲名がどうしても思い出せない。そのとき、おそらくカメラを持っていなかったのだろう。2人のライヴの写真もツーショットもないようだ。今だったら、スマホでまちがいなく写真を撮っているはずだ。
ホイットニーにはデビュー前年(1984年7月)にカシーフ邸で会い、ライヴもその後アメリカで何回か見ていたが、本当に1985年2月のデビューからわずか1年で文字通りスーパースターに駆けあがって行った。あのときに、「スターになるというのは、こういうスピード感でなっていくんだ」と感激したものだった。
シシーのライヴを見てから12年後の1989年9月。当時新しく出る雑誌「エニー(Any)」の創刊号の目玉としてホイットニーのインタヴュー記事を書くという光栄に浴した。この雑誌は、ライヴのチケット販売とタグを組むもので、来日、チケット発売と雑誌創刊がセットになっていた。ツアーは1990年1月1日から始まる「フィール・ソー・ライト・ツアー」で、そのチケットが10月に発売され、雑誌もそれと同時に創刊された。
その雑誌用に、ホイットニー本人のインタヴュー、また、それぞれ別にシシー・ヒューストンのインタヴュー、父親のジョン・ヒューストンのインタヴューができたのだ。
シシーのインタヴューはホイットニーのインタヴューの前日だった。小一時間だったが、終始なごやかに進んだ。ただそのとき感じたのは、自身のこと(シシーのこと)を話すときなどはいくらでもいろいろと話をしてくれたが、ホイットニーのことになると、ちょっとナーヴァスになり、言葉を選ぶような印象を持った。1989年9月の時点では、もちろん、ボビーとの結婚も、映画『ボディ・ガード』も何もないので、彼女に関してネガティヴなことはほとんどなかったが、ホイットニーに関しては言葉が慎重だった記憶がある。それは裏を返せば、「私がこの娘の母親で、彼女のことは私が守る」という強い決意の現れだったのかもしれない。だが、そんなことは後から気が付くものだ。それと、彼女の話し方が、とてもソフトスポークンだったことも印象に残っている。ゴスペル・シンガーだからシャウト系のよく通る声かと考えがちだがそんなことはなかった。いわば、マイケル・ジャクソンのようなソフトスポークンだった。
その後、ホイットニーの伝記映画で、シシーがドラッグのリハビリを勧めるあたりのシーンを見て、それはそれで、表には出なかったが、大いに苦労したのだろう、と感じた。
天国で、娘のホイットニーと孫のボビー・クリスティーナとゆっくり再開してください。
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「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」誕生秘話については、拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(音楽之友社、2000年7月発売)の第3章「マイケル・マッサー」の回~「モハメド・アリの人生に聖火を灯した男」に詳しく書いてありますので、興味ある方はぜひ、図書館などで入手してごらんください。
『ソウルサーチン R&Bの心を求めて』
2000/7/13
吉岡正晴 音楽之友社
ディーヴァ ホイットニーヒューストン物語 ペーパーバック – 1998/12/10
ジェフリー ボウマン (著), Jeffery Bowman (原名), 吉岡 正晴 (翻訳)
ENT>OBITUARY>Houston, Cissy [Emily Drinkard] [9/30/1933 – 10/7/2024, 91 year old]
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