●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー
8月16日はアリーサ・フランクリンの命日。2018年に亡くなってはや2年。昨日、このノートでリンクもご紹介したナタリー・コールとアリーサ・フランクリンの確執と修復された友情についての物語をどうぞ。
(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)
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●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート1)
2016年01月15日(金)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12116099962.html
★●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート1)
【Aretha Sings Tribute For Natalie On Next Day Of Her Passing (Part 1)】
1.アリーサがナタリーへトリビュート
トリビュート。
2015年12月31日、ナタリー・コールが長い闘病生活の末、65歳で亡くなった。翌1月1日、コネチカット州で行われたコンサートでアリーサ・フランクリンはその死に触れ、ナタリーへ追悼の意を込めて、ナタリーの代表曲のひとつ「インセパラブル」を自身ピアノを弾きながら歌った。
(その動画)
Queen of Soul Aretha Franklin Remembers the late Natalie Cole
https://www.youtube.com/watch?v=5wWqHl309rM
「Inseparable
That's how we'll always be
Inseparable
Just you and me
It's so wonderful
To know you'll always be around me
(インセパラブル~引き裂けないもの、切り離せないもの。私たちは、ずっとこれからも離れられないもの。インセパラブル~あなたと私、あなたがずっと私のそばにいてくれるってどれほど素晴らしいことでしょう)」
ナタリーの死を知らない観客もいる中で、しっとりと情感を込められたアリーサの声と歌唱がその会場を感動に包み込んだ。
この曲をめぐるナタリーとアリーサの切っても切り離せないお話(インセパラブルなストーリー)をしよう。
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2.絶対女王~アリーサ・フランクリン
絶対女王。
1968年2月29日、ロスアンジェルスのセンチュリー・プラザ・ホテルなど(当時は複数の会場で発表式があった)で1967年度分(第10回)のグラミー賞が発表された。
この年、グラミー賞に新設された部門があった。そのひとつが「ベスト・リズム&ブルーズ・ソロ・ヴォーカル・パフォーマンス・フィメール(ベストR&B、女性シンガー部門)」だ。その前年(1966年度、第9回)まではR&B部門は「ベストR&Bレコーディングス」「ベストR&Bソロ、男性あるいは女性」「ベストR&Bグループ、ヴォーカルあるいはインストゥルメンタル」の3部門だけだった。それが1967年度分から男性シンガーと女性シンガーがそれぞれ別の部門になったのだ。
この時の女性部門の候補がアリーサ・フランクリンの「リスペクト」、エタ・ジェームスの「テル・ママ」、グラディス・ナイト&ザ・ピップスの「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しい噂)」、ニーナ・シモーンの「ユール・ゴー・トゥ・ヘル」、カーラ・トーマスの「ザ・クイーン・アローン」の5作品/アーティストだった。
https://www.youtube.com/watch?v=6FOUqQt3Kg0
https://www.youtube.com/watch?v=JZfjzMx57bs
そしてこの中から見事にグラミーを獲得したのが、アリーサ・フランクリン(1942年3月25日生まれ)だ。受賞日時点でアリーサは25歳、他の候補はエタ30歳、グラディス23歳、ニーナ35歳、カーラ25歳だった。格から言えばニーナ・シモーンが取っても不思議はなかったが、「リスペクト」のあまりの大ヒットぶりが彼女に初のグラミーをもたらした。
アリーサのこの受賞は誰もが納得したが、ただこれがその後続く絶対的な「アリーサ王朝」の始まりだったことを予測する者はいなかった。
驚くことなかれ、アリーサはこの1967年度分から1974年度分まで8年連続でこのグラミー賞「ベストR&B女性」部門を獲得、これは彼女の「指定席」となり、彼女はR&B界の「絶対クイーン」となっていく。この浮き沈みの激しい音楽業界で、しかも業界最大のお祭りグラミー賞で同一部門8年連続獲得という記録は史上、他に例はない。それほどの大記録になった。
この8年間、少し先輩のエタ・ジェームス(1938年生まれ)は1968年、1973年、1974年と同部門にアリーサとともにノミネートされるが、ことごとくアリーサに苦杯を舐めさせられる。他にもニーナ・シモーン(1933年生まれ)、ルース・ブラウン(1928年生まれ)、ティナ・ターナー(1939年生まれ)といった先輩アーティストたちも挑戦するがいずれも若きアリーサの鉄壁に阻まれてきた。
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3.シカゴの野心あふれる若きプロデューサー
1974年。
アリーサは、以後も大ヒットを次々と放ち、音楽業界でも誰もが認める女性シンガーのトップとなった。そして、ソングライターやプロデューサー、アレンジャーなら誰もが彼女のために曲を書きたい、自分が書いた曲をアリーサに歌ってほしい、アレンジに参加したい、あわよくばプロデュースしたいと思うようになっていた。
(マーヴィン・ヤンシーとナタリー・コール)
シカゴのまだ無名だった若く野心あふれるソングライター、プロデューサー・チーム、マーヴィン・ヤンシー(1950年5月31日生まれ~1985年3月22日死去)とチャック・ジャクソン(1945年3月22日生まれ~)もそんな2人だった。
(左からチャック・ジャクソン、ナタリー・コール、マーヴィン・ヤンシー)
彼らは仲間とR&Bヴォーカル・グループ、インディペンデンツを結成し、1972年に「ジャスト・アズ・ロング・アズ・ユー・ニード・ミー」でデビュー。1973年に「リーヴィング・ミー」というソウル・バラードがソウル・チャートで1位、ポップ・チャートでも21位、ゴールド・ディスクを記録するヒットを送り出していた。
https://www.youtube.com/watch?v=wwiy03oYV_U
しかし、彼ら2人は表立ってステージに上がるより、曲を書いたり、レコードをプロデュースすることをもっとやりたいと考えていた。その頃の彼らの夢はアリーサ・フランクリンに自分たちの曲を歌ってもらうということだった。そこで彼らは自作曲をアリーサ・フランクリンのもとに送り、売り込んだ。
ゴールド・ディスクのヒットも放ったという若干の実績を背景に自作曲を売り込んだ彼らだったが、ヤンシー&ジャクソンが書いた作品は1曲を除いてことごとくアリーサから却下された。ヤンシーによれば、「それらの楽曲は、アリーサのスタンダード(平均点)にまったく届かないもの」と判断されたようだ、という。
しかし、アリーサは彼らが書いた「ユー」という曲を気に入り、録音する。
You- Aretha Franklin
https://www.youtube.com/watch?v=ZkrE_S36-B0
ちょっとシカゴ・ソウル調のなかなか聴かせるバラードで、アリーサはこの曲をなんと次のアルバムのタイトル曲に抜擢する。ヤンシー&ジャクソンにとっては一つの大きな夢がかなった形となった。
You- Aretha Franklin
https://amzn.to/3h0Rb5s
(LP) (CDがちょっとみあたらないようです)
『ユー』のアルバムはジェリー・ウェクスラーとアリーサが共同プロデュースしているもので、1974年の『レット・ミー・イン・ユア・ライフ』、『ウィズ・エヴリシング・アイ・フィール・イン・ミー』のアルバムに続く作品として1975年10月にリリースされる。
4.新人
新人。
しかし、ヤンシー&ジャクソンの曲は大半が使われず、失意の頃、彼らはシカゴで友人の紹介でまったく無名の新人シンガーと出会った。それがナタリー・コールだった。
当時のあらゆる女性シンガーのアイドルはアリーサだったが、ナタリーにとってもそれは同じで、アリーサはあこがれの存在、そして、尊敬する存在だった。だからナタリーは自らのステージでもアリーサの曲などを歌っており、アリーサ並に歌もうまかったので、ヤンシー&ジャクソンは「ネクスト・アリーサ」「ヤング・アリーサ」という逸材を発見したと喜び勇んだ。彼らはナタリーをプロデュースして売り込むことを考え、デモ・テープ作りに入る。そのとき、彼らがナタリーに提供した作品群が、なんとアリーサがボツにしてきたものだった。
しかし、このデモ・テープはあちこちのメジャー・レーベルからことごとく拒絶され、最終的にキャピトル・レコードが注目し、契約。ナタリー・コールは、1975年5月「ディス・ウィル・ビー」や「インセパラブル」を含むデビュー・アルバム『インセパラブル』でデビュー。すぐにヒットとなり、ナタリーは一挙に若き新たなスターになっていく。
Inseparable – Natalie Cole
ヤンシー&ジャクソンがアリーサに聴かせたデモ・テープの中に、「インセパラブル」があったかはわからない。ただ、そのうちの何曲かはナタリーによってヒットしたことは間違いないようだ。もし自分がボツにした曲を自分より若いシンガーが歌い大ヒットさせたことを見たら、クイーンの心中や穏やかでなかったことは想像に難くない。
アリーサが、ナタリーのヒットを見てヤンシー&ジャクソン作品の楽曲「ユー」をアルバム・タイトルにしたのかどうかはわからないが、ナタリーをスターにした新進気鋭のプロデューサー、ヤンシー&ジャクソンに一目置いたことは間違いない。
(この項続く)
ENT>ARTIST>Franklin, Aretha & Cole, Natalie
●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート2)
2016年01月16日(土)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12116100423.html
★●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート2)
【Aretha Sings Tribute For Natalie On Next Day Of Her Passing (Part 2)】
(昨日の続き)
(アリーサに曲を売り込んだが大半の作品を突き返されたヤンシー&ジャクソン・チームは、失意の中、シカゴで無名の新人女性シンガー、ナタリー・コールと出会い、プロデュース。見事なヒットとなっていく。)
5.明暗
明暗。
奇しくもナタリーが華々しくデビューした1975年、この年アリーサのシングル・ヒットは不調だった。同年10月に出たアルバム『ユー』からは、最初のシングル「ミスター・DJ(5フォー・ザ・DJ)」がソウル・チャートで最高位13位、続くアルバム・タイトル曲「ユー」が15位と、これまでのアリーサのシングルとしては振るわなかった。
1967年以来、彼女のシングルは、ソウル・チャートではほぼ確実にトップ10入り、いくつかのシングル盤のB面がトップ10入りを逃す程度だった。それとて、シングルのB面がチャート入りすることのほうがすごかった。しかも、彼女は毎年少なくとも1曲はソウル・チャートでのナンバーワン・ヒットを放っていたが、この1975年は初めてナンバーワン・ヒットを生み出さない年となってしまったのである。
その結果、絶対クイーンはこの年度のグラミー賞「ベストR&B女性」部門のノミネートを初めて逃すことになる。この時点でアリーサが9年連続同部門を獲得することは不可能になった。
そして、1975年度のこの部門を制覇したのが、同年「ディス・ウィル・ビー」でデビューしたばかりの新人シンガー、ナタリー・コールだった。ナタリー以外のノミネートは、グローリア・ゲイナー、グエン・マクレイ、エスター・フィリップス、シャーリー&カンパニーだった。ナタリーが25歳の時にレコーディング、ヒットさせた作品で、受賞時ナタリーは26歳になったばかりだった。(アリーサは誕生日が3月末だったために、受賞時は25歳だったが、すぐに26歳になった)
(アリーサの指定席を奪ったナタリー)
つまり、ナタリー・コールは8年連続この指定席に君臨してきた「絶対クイーン」を打ち破る快挙を成し遂げたのだ。25歳でクイーンの座についたアリーサの後を追うように、クイーンの8歳年下26歳のナタリーがその座にほぼ同じ年齢で就いたというわけだ。
この時のノミネート楽曲はシングル盤の「ディス・ウィル・ビー」だったが、同シングルを含むデビュー・アルバムが『インセパラブル』で、「インセパラブル」は「ディス・ウィル・ビー」に続いてシングル・カットされ、ソウル・チャートでナンバーワンに輝いていた。
(左からマーヴィン・ヤンシー、ナタリー、チャック・ジャクソン)
この年こそアリーサは同部門にノミネートされていなかったが、ナタリーは、翌年度(1976年度)、アリーサと堂々競いあい勝利する。それはあたかも新旧クイーンの交代を告げるかのような新しい時代の幕開けとなった。
アリーサの人気に若干陰りが見えたところに登場し、赤丸急上昇で人気となっていったナタリー・コール。まさに右肩上がりの線と右肩下がりの線がクロスしたかのように明暗を分けた景色を映し出していた。
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6.ライヴァル
ライヴァル。
こうして、この頃からしばらくアリーサとナタリーは、メディアから新旧ソウル・クイーンという扱いでしばしばライヴァル視されるようになった。
そして、アリーサはナタリーがグラミーのR&B女性部門を取ったことが、ことのほかお気に召さなかった。
メディアはナタリーを「新クイーン・オブ・ソウル」とはやし立て、それがアリーサの耳に入ると彼女はおもしろくなかった。そして一時期、二人はたとえばテレビの収録などで顔を合わせることがあっても、アリーサがナタリーを露骨に避けるようになっていた。
アリーサとナタリーの確執はメディアがまた必要以上に騒ぎ立てた。
ナタリーはそのことに傷つき落ち込んだが、なす術(すべ)はなかった。
そんな2人にちょっとした転機が訪れる。
プロデューサーからナタリーの夫となって、公私ともにパートナーとなり、その後離婚はしていたが友人同士であったマーヴィン・ヤンシーが1985年3月22日、シカゴで心臓発作のため34歳の若さで死去したときのことだ。このとき、アリーサはナタリーに丁寧なお悔やみの電報を打ったのだ。これを機に彼女たちの関係は修復されていき、二人は電話で話をしたりするようになり、徐々に関係を回復していく。
さらに、ナタリーが1991年父親ナット・キング・コールの作品ばかりを録音した『アンフォーゲッタブル』をリリースし、これが成功すると、アリーサは彼女が別のフィールド(ジャズの世界)に進んだことで、自分のR&Bのフィールドで競合しないことに安心し、より仲良くなったという。
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7. アリーサ・トリビュート
トリビュート。
2006年9月9日、ロスアンジェルス・コダック・シアター。
元々ルー・ロウルズが1978年にUNCF(ユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンド)のために始めたブラック・スターを集めたイヴェントが、形を変え2006年に復活した。それが「アン・イヴニング・オブ・スター~トリビュート・トゥ・アリーサ・フランクリン」というもの。記念すべき復活第1回がアリーサ・フランクリンへのトリビュート・イヴェントだった。
アリーサをトリビュートするために、シャカ・カーン、ジェニファー・ハドソンなど多数のスターたちが集まり、アリーサの曲を歌った。その中にナタリー・コールもおり、ナタリーは女王の前で、「コール・ミー」を堂々と歌った。
NATALIE COLE LIVE - CALL ME -ARETHA FRANKLIN TRIBUTE
https://www.youtube.com/watch?v=gPa85W4M9Gs
この模様は2007年1月にBET(ブラック・エンタテインメント・テレビジョン)からテレビ放映され、その後、DVD化された。
映像を見ればわかるように、あまりの貫録たっぷりのアリーサに、若きシンガーたちが尊敬の眼差しを送りつつ、緊張している姿がうかがえる。
ナタリーがアリーサに向かって堂々と歌い、アリーサが拍手喝さいを送っている様子を見る限り、誰の目にも2人の間の確執はもうなくなっていたかのように見えた。
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8.インセパラブル~離れられない永遠のライヴァル
インセパラブル。
アリーサにトリビュートするナタリー。それを受け入れたアリーサ。それから9年余を経て、そのナタリーの死を迎えてアリーサがナタリーにトリビュートを返した。それが、1月1日のコンサートでの一幕だった。
アリーサは1942年生まれ、ナタリーは1950年生まれ。8歳の年の差がある。
8歳年下の後輩が自分に追い付き、ある瞬間、追い越していった。しかしそのライヴァルは頂上からドラッグなどで落ちていく。それが父親の歌を発見し、再度這い上がり、後輩が先輩へトリビュートする。しかし、今回、後輩が先に旅立ってしまい、それを先輩がおくる形でトリビュートした。歴史が回転していた。
アリーサが「インセパラブル」を弾き語りで歌っている間、ひょっとしたらその脳裏には様々なことが走馬灯のように浮かんでいたかもしれない。
この曲は私がボツにして歌わなかった曲。それを若きナタリーが歌いヒットさせ、スターになり、自分の指定席だった名誉ある場所を奪っていった。だがその彼女も紆余曲折苦労をし、カンバックしたが、体を壊し、自分より先に逝ってしまった。
最初は怒りや嫉妬だったかもしれないものが、時の流れと深まるお互いの理解とともに徐々に友情と尊敬に変わっていく。
一流中の一流の歌手たちだけが歌を通じて繰り広げる火花散る熱きソウルの戦い。2016年1月1日、ナタリー死去の翌日に、ステージでアリーサが、かつては自身が却下したかもしれないナタリーの作品を歌ったことで、ひとつの物語が完結したといえるのかもしれない。
アリーサが歌うナタリーの「インセパラブル」。ナタリーのデビューからアリーサとはお互い永遠のライヴァルになっていた。だが、アリーサがナタリーの死の翌日ステージで「インセパラブル」を歌ったことによって、永遠のライヴァルは、ついに決して切り離せない「インセパラブル」な一つのソウルになったのだ。
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「Inseparable
That's how we'll always be
Inseparable
Just you and me
It's so wonderful
To know you'll always be around me
(インセパラブル~引き裂けないもの、切り離せないもの。私たちは、ずっとこれからも離れられないもの。インセパラブル~あなたと私、あなたがずっと私のそばにいてくれるってどれほど素晴らしいことでしょう)」
アリーサは、曲のエンディングで「素晴らしい音楽をありがとう、ナタリー」と付け加えると、観客席からは終わらない拍手が続いた。
Queen of Soul Aretha Franklin Remembers the late Natalie Cole
https://www.youtube.com/watch?v=5wWqHl309rM
(左・ナタリー・コール、右・アリーサ・フランクリン)
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ENT>ARTIST>Franklin, Aretha & Cole, Natalie
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