〇サルソウル・レコーズ・ミニ特集~ダブル・エクスポージャー、ヴィンス・モンタナ、ロリータ・ハロウェイ評伝
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〇 サルソウル・レコーズ・ミニ特集
【Salsoul Records 】
2020年7月22日にリリースされる『ハッピー・ディスコ3~サルソウル・ナイト』に関連して、『レディオ・ディスコ』内であまりその話ができなかったので、サルソウル関連のブログをまとめてみました。まず、訃報時の評伝を3本お届けします。
1. ジェームス・ウィリアムズ(ダブル・エクスポージャーのリード・シンガー)訃報と評伝
2. ヴィンス・モンタナ訃報・評伝
3. ロリータ・ハロウェイ訃報・評伝
1. ジェームス・ウィリアムズ(ダブル・エクスポージャーのリード・シンガー)訃報と評伝
ダブル・エクスポージャーのリード・シンガー、ジミー・ウィリアムス死去
2016年11月03日(木)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12215633085.html
●ダブル・エクスポージャーのリード・シンガー、ジミー・ウィリアムス死去
【Jimmy Williams, Lead Singer Of Double Exposure Dies】
訃報。
1976年、一般市場に売り出された初の12インチ・シングルとなった「テン・パーセント」の大ヒットを放った4人組ヴォーカル・グループ、ダブル・エクスポージャーのリード・ヴォーカリスト、ジミー・ウィリアムスが2016年10月31日午前6時頃、フィラデルフィアのVAメディカル・センターで家族に見守られながら死去した。癌を患っていた。年齢は、まだ発表されていないが、1946年頃の生まれとみられ、70歳前後とみられる。
(ジミーは一番右)
ジミー・ウィリアムス。Jimmy Williams, Double Exposure
ジミーの娘ジェイダさんが、葬儀費用等をクラウド・ファウンディングで募集中。https://goo.gl/LL4SeY これは亡くなる前から、医療費などを募っていたもの。
(左からレオナード・バッチ・デイヴィス、チャーリー・ウイッティングトン、ジョー・ハリス、ジミー・ウィリアムス)
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評伝。
ダブル・エクスポージャーは、もともとフィラデルフィアで1962年頃結成されたR&Bヴォーカル・グループ、ユナイテッド・イメージが母体。これは、ジミー・ウィリアムズをリード・ヴォーカルに、ジョー・ハリス、チャック・ウイッティングトン、レオナード・バッチ・デイヴィスの4人組。結成に関しては、これまで1964年頃とみられていたが、下記記事で1961年頃ともされているが、本人たちは1962年結成としている。ジミー・ウィリアムスは、1946年(頃)9月17日生まれ。70歳前後。
ユナイテッド・イメージは、地元フィラデルフィアのエニグマティック・プロダクションでレコーディング。その「ラヴズ・クリーピング・アップ・オン・ミー」が、1971年8月にメンフィスのスタックス・レコード(ヴォルト・レーベル)からリリースされた。
UNITED IMAGE - LOVE'S CREEPING UP ON ME.
https://www.youtube.com/watch?v=QXAqODpym08
https://www.youtube.com/watch?v=ZyfutnzFFDI
その後、1975年、ニューヨークのサルソウル・レコードと契約。このときにグループ名をダブル・エクスポージャーとしてデビュー作「テン・パーセント」をリリース。これが、ディスコ、ソウル・チャートで大ヒット。
「テン・パーセント」は、当時、初めての一般発売された12インチ・シングルとして音楽業界で注目され、12インチが50万枚以上売れた。
サルソウルで3枚のアルバムを出したが、デビュー作を超えるヒットは生まれず、メンバーはそれぞれ自らの活動へ。
音楽的には、迫力あるヴォーカルが、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのテディー・ペンダーグラス、オージェイズのエディー・リヴァートを思わせるソウルフルなもので人気となった。
1983年、サルソウルからソロ・シングルをリリース、1987年にもイギリスのレーベルからシングルを発売。その後、同じくフィリーのグループ、トランプスのリード・シンガーに就任した。なお、トランプスは、80年代中期以降にふたつのトランプスに分裂。ひとつは、アール・ヤングのトランプス、もうひとつはスタンリーとハロルド・ドック・ウェイド兄弟、ロバート・アップチャーチのトランプスで、ジミー・ウィリアムスは後者のトランプスに参加した。当初は、アール・ヤングのトランプスに同グループのリード・シンガー、ジミー・エリスの後釜として参加し、その後、トランプスが分裂したときに、ウェイド兄弟のトランプスに移籍したようだ。
ダブル・エクスポージャーは2010年3月に再結成し、ニューヨークでカンバック・コンサートを行った。2012年にレコーディング。この時期、ジミー・ウィリアムスは、ダブル・エクスポージャーとスタン・ウェイドのトランプスの両者を掛け持ちしていた。
ただダブル・エクスポージャーとしては、フィラデルフィアのグループとしてはこれまで唯一メンバー・チェンジなしに54年以上、オリジナル・メンバーだけで続けてきた長期政権のグループだった。
(このダブル・エクスポージャーについては、もう少し続く)
スタン・ウェイドのトランプスのページ
Double Exposure - Ten Percent
https://www.youtube.com/watch?v=BUj8NlnHPbA
Double Exposure – My Love Is Free
https://www.youtube.com/watch?v=NyQVwkHjygo
アール・ヤングのトランプスのページ
http://thetrammps.net/index.html
OBITUARY>Williams, Jimmy ( September 17, 1946[circa] - October 31, 2016, 70 year-old(?) )
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マイ・ラヴ・イズ・フリー~ザ・ベスト・オブ・ダブルエクスポージャー
解説・吉岡正晴 (ダブル・エクスポージャーのヒストリーを詳細に書いてあります)
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●ダブル・エクスポージャー、その光と影
2016年11月04日(金)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12216009154.html
【Light And Shadow Of Double Exposure】
二重露光。
リード・ヴォーカル、ジミー・ウィリアムスの逝去に関連して、ダブル・エクスポージャーについて、もう少し。
(一番右がジミー)
サルソウル・レコードから発売されたダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」が大ヒットしたのは1976年夏のこと。ちょうど40年前のことだ。最初、12インチ・シングルが出て、しばらくしてアルバムがリリースされた。日本では当時フォノグラム・レコードがサルソウル・レコードの販売権を獲得し、このアルバムを1976年11月にリリースした。そのライナーノーツを9月に書いた。
そのライナーノーツでは、サルソウル・レコードが日本初登場ということ、サルソウル・レコードの簡単な紹介、デビュー作であるためダブル・エクスポージャーの簡単なバイオグラフィー、そして、「テン・パーセント」が初めて全米で一般発売された12インチとなったこと、当時はまだなじみがなかった12インチ・シングルについての解説を書いた。
その12インチは日本盤も出た。それは、日本で初めての12インチ・シングルのリリースとなり、ジャンボ・シングルといって、45回転当時900円の定価がついた。(当時7インチ・シングルは600円)
12インチ・シングルはレコードの溝が広くとれるために、音のダイナミック・レンジが大きく、いい音で再生できるという触れ込みだった。実際、特に低音の響きは7インチ・シングルと比べて圧巻だった。
12インチ(30センチ)・シングルは、LPの大きさと同じで1曲か2曲しか入っていないもの。1974年くらいから、アメリカのディスコに積極的にプロモーションするレコード会社がこの音のいい12インチをディスコDJに非売品として配りだした。
長いヴァージョンが収録できることもあり、一般発売されている7インチ(17センチ)シングル(いわゆるドーナツ盤)とは違うテイクが収録され、それらがディスコでかかると、一般のお客がその12インチに興味を持ちだすようになった。元々はDJ用の非売品だったが、これにプレミアの値段が付いて流通するようになった。当時アルバムは5~6ドル前後だったが、非売品の12インチにそれこそ3ドルから5ドル、もっと高い10ドル以上の値段がつくこともあった。
そうした12インチへの渇望が1975年暮れころから大きくなり、その様子を見ていたサルソウル・レコードがその12インチを一般発売することになった。その記念すべき一般発売された12インチ・シングルの3枚のうちの1枚が、彼らダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」だった。
これは、当時のニューヨークのディスコを中心に瞬く間に大ヒット。最終的には12インチ・シングルが50万枚も売れるセールスを記録するにいたった。これを機に、各社は12インチ・シングルを次々とリリースするようになった。当時アメリカでの12インチの定価(のようなもの)は2ドル98セント、アルバムは5ドル98セントから6ドル98セントで、1ドル300円換算だとだいたい900円で、事実フォノグラムからは900円で売り出された。このとき、サルソウル・オーケストラとモーメント・オブ・トゥルースの計3タイトルが同時にリリースされた。
日本にもやっと12インチが登場したということで、初の一般発売された12インチというのは、とても感慨深いものがあった。
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不変。
それから27年後。2003年1月に、僕はダブル・エクスポージャーのベスト・アルバムのライナーノーツを書いた。1976年時点よりはるかに多くの資料が揃い、なかなか詳細なライナーになった。(下記にそのリンクを紹介してあります)
それからも13年経っているが、今回の訃報に接していろいろ再度調べてみると、さらにおもしろいことがわかった。
それは彼らが1962年頃の結成から40年以上もメンバーの変更なしにグループとして続いている、ということだ。しかも、彼ら4人はグループの一員である以前に幼馴染の仲のいい友人同士であるということ。だからこそ、グループ活動のあるなしの時期もあったが、40年以上メンバーを入れ替えることなく、続いてきたわけだ。
グループ名は、彼らがユナイテッド・イメージと名乗ってライヴをしているときに、その頃バンドメンバーに白人が混ざっていて、それで遠目に見ると白黒混合で二重露光しているように見えたから、それをそのまま新しいグループ名にしたという。
また、彼らはサルソウルに3枚のアルバムを残したが、サルソウルに対しては、自分たちのディスコっぽい曲しか宣伝してくれなかった、という不満もあったようだ。彼らはストリートでドゥワップを歌い始め、ソウルのヴォーカル・グループになり、しかし、ディスコでヒットを出したために、ディスコ・グループとしてくくられることになってしまった。
2枚目『フォープレイ』(1978年)のアルバムでは、1作目で大ヒットした「テン・パーセント」「マイ・ラヴ・イズ・フリー」などを書いたアラン・フェルダー(故人)が参加していないが、これは、プロデューサーのノーマン・ハリス(故人)と喧嘩をして、ハリスがフェルダーをプロジェクトから外したからだという。フェルダー作品は大ヒット要因であっただけに、それが外されてしまって、売れているもののチームは変えるな、という鉄則からすると、ある種のマジックが消えた可能性は大きい。
3作目の『ロッカー・ルーム』は1979年にリリースされるが、これはヴィレッジ・ピープルが流行っていて、それを真似た。また翌年の1980年がオリンピックがあるために、「スポーツ」をテーマにしたアルバムを作ろうということから、こういうジャケットになったという。
またサウンド的には一足先にヒットを出していたインスタント・ファンク路線のちょっとファンク系になっていた。
リード・シンガーのジミーは、死の床で「俺の代わりを見つけて、グループをずっと続けてくれ」とメンバーに言ったという。
歴史に「もし」はないのだが、彼らのスロー・バラードが1曲でも大ヒットしていれば、彼らは単なるディスコ・グループという枠組みから、正統派の「ソウル・ヴォーカル・グループ」という立ち位置を獲得することができたかもしれない。
そういう意味で、残念だったが、40年以上同一メンバーでがんばってきた彼らに、お疲れさまと言いたい。きっとこういう様々な悩みは、多かれ少なかれ、どんなグループにもあるのだろう、と感じた。まさに、グループ、ダブル・エクスポージャー(二重露光)の光と影を垣間見る思いだ。
OBITUARY>Williams, Jimmy Lee, (September 17, 1946 [Circa] – October 31, 2016, 70 year old)
マイ・ラヴ・イズ・フリー~ザ・ベスト・オブ・ダブルエクスポージャー
ダブル・エクスポージャー Double Exposure/Salsoul Orchestra
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2. ヴィンス・モンタナ訃報・評伝
●ヴィンス・モンタナ85歳で死去~フィラデルフィアのヴァイブ奏者
2013年04月15日(月)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11511276987.html
【Vincent Montana Dies At 85】
訃報。
フィラデルフィアを本拠にヴィブラホン奏者、パーカッション奏者、アレンジャー、プロデューサーとして1960年代から活躍していたヴィンセント・モンタナ・ジュニアが2013年4月13日、フィラデルフィア近郊で死去した。85歳。しばらく体調を崩していたが、近親者に看取られ静かに息を引き取ったという。
ヴィンス・モンタナは、ヴィブラホン奏者としてフィラデルフィアのライヴ・ハウスやスタジオで活躍。1960年代から同地の作品のレコーディングに参加。いわゆるフィリー・ソウルのさきがけとなるソウル・サヴァイヴァーズ、デルフォニックスなどの作品でもプレイ。1971年、同地の有力プロデューサー、ケニー・ギャンブル&リオン・ハフが設立したフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(以下PIR)でも活躍。ギャンブル&ハフが作った同地のスタジオ・ミュージシャンを集めた集合体MFSBにも参加。その後、モンタナがリーダーとなり同じようなサルソウル・オーケストラを結成。これらが次々とヒット。さらに、よりディスコっぽいグッディー・グッディーなどの作品を発表。最近ではロリータ・ハロウェイ/ニューヨリカン・ソウルの「ランアウェイ」の大ヒットが記憶に新しい。
第一報。
http://soulfuldetroit.com/showthread.php?8703-R-I-P-VINCE-MONTANA-Original-Member-of-MFSB
評伝。
ヴィンス・モンタナは1928年2月12日フィラデルフィア生まれ。両親は1900年にイタリアからアメリカに来た移民。ヴィンスはイタリア系アメリカ人。3人兄弟の末っ子で上に姉2人。子供の頃ドラムスに興味を持ち、ドラムを叩き始めるが、まもなくヴァイブ、パーカッションに興味をもち、転向。同地のライヴ・ハウス(クラブ)に幼少の頃から出入りし、ミュージシャンとして活動を始めた。1959年には、同地のシンガー、フランキー・アヴァロンの大ヒット「ヴィーナス」でレコーディングに参加。その後もソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレスウェイ・トゥ・ユア・ハート」(1967年)、クリフ・ノーブルスの「ザ・ホース」(1968年)、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」(1969年)、デルフォニックスの「ララ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」ほか一連のヒット、イントゥルーダーズの一連のヒットなどフィラデルフィア・ソウル、フィラデルフィア録音作品に多数参加した。
さらに、1971年同地で活躍する旧知のプロデューサー、ギャンブル&ハフが設立したフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)のハウス・バンド的に結成されたオーケストラMFSBの一員に。このMFSBがディスコなどでもヒットしたことから、今度は自身がリーダーとなったサルサとソウルをあわせたオーケストラ、サルソウル・オーケストラを作り、1976年、ニューヨークのサルソウル・レコードからデビュー作「ナイス・ン・ナスティー」をリリース。これもさらにディスコなどで大ヒット。一躍売れっ子ヴィブラホン、パーカッション奏者だけでなく、アレンジャー、プロデューサーとしても注目されることになった。
サルソウル・オーケストラは、基本的にはインストゥルメンタルのディスコ・オーケストラだが、ヴォーカル入りのよりディスコ色の強いグッディー・グッディーというグループをアトランティックからデビューさせ、ヒットさせた。
その後、ディスコ、クラブ周辺のミックス、プロデュースなどで実績を作ったマスターズ・アット・ワークらとコラボレーション。ニューヨーリカン・ソウル・フィーチャリング・ロリータ・ハロウェイ名義で「ランアウェイ」の大ヒットが出た。
ヴィンスは1999年11月、自作CDのプロモーションのために来日したことがある。
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ヴィンス・モンタナ80歳のときにモンタナ・ジュニア(息子の方)が作ったトリビュート動画。これらの作品にヴィンスはすべてかかわっている。
The Salsoul Orchestra Featuring Loleatta Holloway "Runaway"
3分09秒あたり「C’mon Vince, play vibes」の声からヴィンスのソロ
Vince Montana, Jr. "Warp Factor II" - The Steel Pier Show (1978)
The Salsoul Orchestra Nice 'N' Naasty (Disco 70s)
HAROLD MELVIN & THE BLUE NOTES - Bad Luck
これの4分45秒あたりからのヴァイヴ、モンタナ。(情報・林剛さんから、感謝)
https://www.youtube.com/watch?v=mykhgDJvp6g
■ サルソウル・オーケストラ・ベスト (詳細なヴィンス・モンタナ・ストーリー解説・吉岡正晴)(2枚組み) 現在廃盤ですが、中古が安く入手できます
サウンド・オブ・サルソウル~ザ・ベスト・オブ・サルソウル・オーケストラ
サウンド・オブ・サルソウル~ザ・ベスト・オブ・サルソウル・オーケストラ
https://amzn.to/3fhKr26
ザ・サルソウル・オーケストラ
EMIミュージック・ジャパン (2003-02-26)
■ ベスト・オブ・ロリータ・ハロウェイ (中古はまだ安く買えます) 「ランアウェイ」も収録されているベストがなかなかないので、これは便利
グレイテスト・パフォーマンス・オブ・マイ・ライフ~ザ・ベスト・オブ・ロリータ・ハロウェイ
https://amzn.to/2DwJ3dX
ロリータ・ハロウェイ
EMIミュージック・ジャパン (2003-02-26)
OBITUARY>Montana, Jr., Vincent (February 12, 1928 – April 13, 2013, 85 year old)
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3 ロリータ・ハロウェイ訃報・評伝
●ロリータ・ハロウェイ、64歳で死去~ソウル・ディスコ・ディーヴァ
2011年03月24日(木)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10838913635.html
【Loleatta Holloway Dies At 64】
訃報。
ゴスペル・シンガーからソウル・シンガーへ転じ、その後、ディスコ・ヒットも生み出したロリータ・ハロウェイが2011年3月21日(月)シカゴの病院で死去した。64歳だった。しばらく前に心臓の疾患で入院、2-3日前から昏睡状態になっていた。
ハロウェイには4人の子供、9人の孫がおり、近日中にシカゴのジェシー・ジャクソン教会でメモリアルが行われる。
各界から弔辞が寄せられている。イギリスのアシッド・ジャズ創始者ジャイルス・ピーターソンは、ロリータの「ヒット・アンド・ラン」が好きだと前置きし、「この曲にはソウル、感情、ディスコ、ロリータのすべてが一曲の中に込められているから」と述べた。
サルソウル・レコードのレーベルメイトであるキャロル・ウィリアムスは、ロリータのレコーディング様子のエピソードを語る。「普通、シンガーは(レコーディングでは)みんなマイクに近づくのよ。でも、ロリータは1フィートくらい離れてるのよ」 それだけ声量があったということだ。
リンダ・クリフォード。「彼女はとても大切な友人でした。ずっと彼女のことを愛します」
キャンディ・ステイトン。「本当に残念です。ロリータは、本当に素晴らしい声、ビッグ・ヴォイスを持ったシンガーのひとり。個人的には彼女はとっても楽しい人物で、人生を思い切り楽しんでいた。彼女のことをずっと思い続けるわ。音楽もずっと残り続けます」
マネージャーのロン・リチャードソンによれば、ロリータはとてもスイートな人物だが、またとても傷つきやすい人物でもあったと振り返る。彼女の1980年の大ヒット「ラヴ・センセーション」は後に1989年イギリスのブラックボックスがサンプリングし、「ライド・オン・タイム」というタイトルで大ヒットさせた。しかも、プロモーション用ビデオでは、モデルのキャサリン・クイノールを前面に押し出し、あたかもキャサリンが歌っているかのように見せ、ロリータのクレジットは載せなかった。結局、これは裁判でロリータ側の全面勝利となるが、彼女にとっては苦い経験になったようだ。
その後、マーキー・マークが「グッド・ヴァイブレーション」で彼女を正式に起用、これもヒット。また、最近ではロリータの「ウィアー・ゲッティング・ストロンガー」を、ホイットニー・ヒューストンが「ミリオン・ダラー・ビル」でサンプリングしている。
彼女の傑作曲である「クライ・トゥ・ミー」だが、これと同名異曲の「クライ・トゥ・ミー」を歌ったソウル・レジェンド、ソロモン・バークの誕生日が奇しくも1940年の3月21日、ロリータ・ハロウェイの命日となった。運命のめぐり合わせか。
★ Loleatta の日本語表記について
「ロレッタ」は明らかな間違いで「ロリータ」が正しい。コロンビア時代はロリータだった。Lorettaならロレッタになるが、leaがくるので、ロリータになる。アクセントが「リー」に来るので、「リータ・ハロウェイ」と聴こえることもある。単純にレコード会社の担当がロリータだとロリータ趣味と勘違いされそうなので、わざと正しい発音を無視しロレッタにしたという信じられない話。ハロウェイかホロウェイかは、どちらでもいいが、Hollywood(ハリウッド)と同様に考えれば、ハロウェイでよいだろう。
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ゴスペル~ソウル~ディスコ~ガレージ:進化したロリータ・ハロウェイの64年
評伝。
ロリータ・ハロウェイは、1946年11月5日イリノイ州シカゴ生まれ。母親がハロウェイ・ゴスペル・シンガーズという自身のグループのゴスペル・シンガーだったことから幼少の頃よりゴスペルを歌い始める。母親はゴスペル名門グループ、キャラヴァンズのアルバーティナ・ウォーカーと接点があり、ロリータは早くからキャラヴァンズでレコーディングを経験した。
1971年、ロリータが24歳ごろ、プロデューサーのフロイド・スミス(1917年1月25日生まれ、1982年3月29日死去、65歳)と知り合い、フロイドのプロデュースで「レインボウ71」を録音。これは、カーティス・メイフィールド作品でジーン・チャンドラーがヒットさせたもののカヴァー。インディから出て少しだけヒットした。ちなみに、フロイドとロリータは1970年代に結婚するが、その年の差は29歳だ。
その後、フロイドがアトランタに本拠を置くGRC(General Recording Company)傘下のアウェア・レコードとロリータの契約をまとめ、アルバム2枚を録音。これが、『ロリータ』(1973年)と『クライ・トゥ・ミー』(1975年)で、どちらもソウル・ファンからひじょうに高い支持を集め、傑作と呼ばれるようになった。ロリータのゴスペルに根付いたソウルフルな歌唱が圧倒的で魅力を出していた。日本でも当時はコロンビア・レコードからリリースされた。だが、このアウェアがまもなく倒産。ロリータは、フィラデルフィアのサルソウル・レコード傘下にできたゴールド・マインドと契約。
このアウェアの親会社GRCを取り仕切っていたのはマイケル・セヴィス(1932年ノースキャロライナ生まれ)という人物。彼は実は大物ギャングで、全米のポルノ産業を一手に牛耳っていた男だった。小さなポルノ雑誌の発売から始めて、いわゆるピープショー(覗き部屋)などのポルノショップを経営、これが大当たりし、一時期1970年代には年商1億ドル(当時のレートで360億円)をあげていたといわれる。しかし、殺人、脱税などでFBIに目を付けられ、1976年に逮捕。アウェアの倒産もそれと関連している。
サルソウルに移籍してからは、フィリーのプロデューサー、ノーマン・ハリスらのプロデュースで軽快なフィリー・サウンドの作品が作られ、いわゆるディスコ作品というジャンルにカテゴライズされ、実際ディスコ・チャートでもたくさんのヒットを生み出した。「ヒット・アンド・ラン」(1977年)、「ラン・アウェイ」(1977年)、「ラヴ・センセーション」(1980年)などだ。ダン・ハートマンの「リライト・マイ・ファイアー」(1979年)の客演もこの時期。いずれもディスコで大ヒットしたため、「ディスコ・ディーヴァ」の名前をほしいままにした。
1989年、イギリスのディスコ・プロデューサーが作ったブラックボックスというグループが「ラヴ・センセーション」をロリータのクレジットなしでサンプリングして「ライド・オン・タイム」というタイトルでリリース、これを大ヒットさせた。プロモ・ビデオでモデルを全面にだし、あたかもそのモデルが歌っているかのように見せたため、問題となり、ロリータ側が訴え、ロリータ側が実質的な勝訴(正確には示談)となった。
その後、マーキー・マーク(マーク・ウォールバーグ)&ザ・ファンキー・バンチが正式にロリータをフィーチャード・シンガーとして起用し、「グッド・ヴァイブレーション」が1991年ポップチャートで1位に輝いた。もちろん、これはクレジットも得て、ロイヤリティーも得ることができ、ロリータ最大のヒットになった。
さらに、2000年には日本のハウス・チーム、GTSの「ホワット・ゴーズ・アラウンド・カムズ・アラウンド」でロリータが起用されている。(リリースは2001年)
最近では、ホイットニー・ヒューストンがロリータの1976年の作品「ウィアー・ゲッティング・ストロンガー」を、「ミリオン・ダラー・ベイビー」でサンプリングしている。
ロリータのキャリアを振り返ると、ゴスペルから始まり、ソウルに転じ、さらに、ディスコ、ダンス・ミュージック、そして、ガレージ、ハウスへ変化していった。
オリジナル・アルバムは、アウェアで2枚、サルソウル(ゴールド・マインド)で4枚、ストリートワイズで1枚。そのほかオムニバス、コンピレーション、ベストものなど多数。
Loleatta (Aware 2003 - 1973)
Cry To Me (Aware 2008 - 1975)
Loleatta (Gold Mind 7500 - 1976)
Queen of the Night (Gold Mind 9501 - 1978)
Loleatta Holloway (Gold Mind 9504 -1979)
Love Sensation (Gold Mind 9506 - 1980)
Crash Goes Love (Street Wise 2230 – 1984)
1990年9月に初来日。このときは有明MZAでライヴを行った。1994年12月、西麻布イエロー。2002年12月29日、新木場アゲハのオープニング・パーティーでジョスリン・ブラウンとライヴを行っている。
■ 過去関連記事
2002/12/31
Ageha : Journal To Death
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200212/diary20021231.html
アゲハ・オープニングに登場。
2003/01/29 (Wed)
Loleatta Holloway 表記。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200301/diary20030129.html
上記、「ロリータ」表記の話。
■ ロリータ・ハロウェイYoutube
Cry To Me Show Must Go On
Love Sensation
■ ロリータ・ハロウェイCD
ロレッタ+3(紙ジャケット仕様)
ロレッタ・ハロウェイ
ビクターエンタテインメント (2008-09-24)
グレイテスト・パフォーマンス・オブ・マイ・ライフ~ザ・ベスト・オブ・ロレッタ・ハロウェイ
ロレッタ・ハロウェイ
EMIミュージック・ジャパン (2003-02-26)
Cry to Me: Golden Classics of the 70's
Loleatta Holloway
Collectables (1992-11-30)
Hotlanta Soul Vol.1
Loleatta Holloway
Kent Records UK (2002-09-03)
OBITUARY>Holloway, Loleatta (November 5, 1946 to March 21, 2011, 64 year-old)
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