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ジェリー・ゴールドスティーンとロニー・ジョーダンに軽くインタヴュー
(トップ写真↑ ロニー・ジョーダンと『ホワイ・キャント・ウィ・ビー・フレンズ』のアルバムを持って)
ジェリー・ゴールドスティーンとロニー・ジョーダンに軽くインタヴュー
【Interview With Lonnie Jordan And Jerry Goldstein】
インタヴュー。
金曜日(2025年2月7日)ブルーノート東京でロニー・ジョーダンのウォーのライヴを見て、さっそくそのライヴ・レポートを書き、昨日(2月8日)出した。そのとき、『ライヴ・イン・ジャパン1974』のライナーノーツを書いたので、CDを手渡すということになったのだが、CD自体はワーナーの担当の方が、先に渡したので、表敬挨拶だけすることになった。
実はそのときまで、「あの」ジェリー・ゴールドスティーンがグループに帯同していることを知らず、会場についてから、どうやら来ているらしいとわかり、驚嘆。ライヴ後に名刺交換をし、そのときは時間があまりなかったので、翌日、軽く話はできるかと尋ねたら、「いいよ」というので、翌日(2月8日)午後、ランチをしながら話が聴けることになった。
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ゴールドスティーンは、なんと、1970年代はレコード・ビジネスで年に3-4回も来日していたそうだが、今回は1992年以来33年ぶりの来日とのこと。1974年12月のウォー初来日が、彼もマネージャーとして初来日していた。
彼はニューヨーク・ブルックリンに1940年2月17日生まれた。現在84歳。来週17日に85歳になる。話をしていても、頭脳明晰、シャープで昔のことはすらすらと出てくる。なんと2月17日と知って、びっくり。僕の誕生日が16日で、一日違いだったから。
ロニー・ジョーダンがあまり時間がないということで、軽く話を聞き、ラジオ用のIDをもらった後、ジェリーとしばらくインタヴューというか、雑談をした。
ロニーに「ホワイ・キャント・ウィ・ビー・フレンズ」をここ日本でインスピレーションを得て、書いたという話を聞いていると、途中からジェリーがそこにはいってきたりして、楽しい会話になった。
やはり、こうした人物たちの話は、どれもおもしろい。詳しい内容は、後日、きちんとインタヴューをまとめて起こしたいと思うが、いくつかのポイントを紹介しておきたい。
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ライヴ中断。
今度出た『ライヴ・イン・ジャパン1974』にも、武道館のものが一曲(「ジプシー・マン」)入っているが、2025年2月2日(日)のインターFM『パラカン・ビート』で、バラカンさんがかつて日本で見たウォーのライヴの話をした。それが、コンサートの途中で事件が起きた。音が出なくなり、コンサートが中断した、という話だった。ただこれがいつのものだったか、記憶が定かではなく、武道館か後楽園か、よく覚えてない。誰か正確なことをご存じの方がいたら、教えてください、とのことだった。
そこで、金曜日に「武道館のコンサートは途中、機材トラブルで、中断され、キャンセルされたのでしょう?」とふったところ、「それは、この1974年のものではないと思う。私もはっきり覚えてないが、70年代中期のものだった、武道館か後楽園か。理由はわからないが、ブーンというハウリング音がして、一旦、演奏を辞めさせたんだが、その音が復旧せず、結局、以後続けられなくなった。あの頃は、アメリカでもああいう機材トラブルはときどきあった。ただ、途中で(コンサートを)中止にしたので、おそらくタツ永島(当時キョードー東京の社長)は、チケットを払い戻したんじゃないかな」と語った。これを聞いて、あ、当時のウォーのライヴはキョードーさんがやってたんだとわかった。
僕もいま、いろいろウォーの来日履歴を調べているのだが、まだ正確なことがわからないのだが、後楽園は1977年のようだ。これは「ミラージュ・ボール」というイヴェントで、前座にゴダイゴがでていて、ウォーがトリだった。
インタヴューの骨子は、ジェリーが音楽業界にどのようにはいってきたか、1960年代初頭の音楽業界のこと、ウォーとの出会い、スライ・ストーンとの出会いなどだ。いずれも興味深かかった。
スライ・ストーンとは、1967~8年頃、彼が最初のヒットを出した頃から知り合っていた。当時、ジェリーは音楽ビジネスの他に、ミュージシャンのコンサート・ポスターやコンサートでのツアー・ブック(日本でいうプログラム)などを一手に引き受け、売っていて、かなり儲けたという。それこそ、ローリング・ストーンズ、ドアーズあらゆるコンサートのポスターやツアー・ブックをてがけていたそうだ。そんな中で、スライ・ストーンのポスターとツアー・ブックをてがけることで知り合った。
当時はポスターは1ドルで売られ、ツアー・ブックは5ドル。貨幣価値が今とはかなり違うのでなんとも換算のしようがないが、当時は1ドル360円だから、ポスター1枚360円、ツアー・パンフ1800円程度だったか。1970年代、日本のツアー・パンフも1000円から2000円くらいだった。
当時はコンサートに来たファンの半分以上がポスターかツアー・ブックなどを買っていったというから、すごい。ロスのフォーラム(キャパ2万人くらい)ではたとえば、8000枚ほどのポスターが文字通り飛ぶように売れたそうだ。
そのため、腕のいいカメラマンも数人、デザイナーも数人、オフィースにも多くのスタッフを抱えていたそうだ。
スライとは60年代に知り合っていたが、1989年頃から、彼を助けようという意味合いでサポートをし始めたそうだ。そういえば、クエスト・ラヴがスライのドキュメンタリーを作っているが、インタヴューは受けたか、と尋ねると、「受けてない。なぜか、私のところには話を聞きに来なかった。みんな、あんまり、私のところにインタヴューに来ないんだな」と笑った。
彼が60年代初期に結成していたザ・ストレンジラヴズというグループの「アイ・ウォント・キャンディ」は今でも、映画やCM、カヴァーされたりして、けっこうなお金を生んでいるという。
I Want Candy – The Strangeloves
ジェリーがソングライターとして参加した初期のヒット曲。
My Boyfriend’s Back – The Angels
余談だが、以前は今回大火のあったパリセイズに住んでいたそうで、その昔住んでた家は今回焼けてしまったそう。また、その前に住んでいたマリブの家も山火事で焼けてしまい、過去かかわった2軒の家が山火事で焼けてしまったそうだ。
ロニーの話と、ジェリーの話は、改めて、詳細を近いうちにまとめます。
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ウォー: ライヴ・イン・ジャパン1974
THE WORLD IS A GHETTO: THE COMPLETE SESSIONS
WAR (アーティスト)
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ENT>INTERVIEW>Jordan, Lonnie & Goldstein, Jerry
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