●D.J.ロジャース72歳で死去~ゴスペル界からソウル界へ
●D.J.ロジャース72歳で死去
【D.J.Rogers Dies At 72】
(本作・本文は約5000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、10分から5分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと17分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)
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●D.J.ロジャース72歳で死去
【D.J.Rogers Dies At 72】
訃報。
ロスアンジェルスをベースに活躍してきたソウル・シンガー、D.J.ロジャースが2020年8月22日までに死去した。死因・死去場所などは不明、72歳。第一報は、ウェッブサイト、ソウルトラックスが報じた。
D.J.は本名のドゥエイン・ジュリアスの頭文字をとってのもの。シェルター、RCA、コロンビアなどでアルバムをだしてきた。ゴスペルからソウルに転じつつも、ゴスペルの素養を残した作品を出した。
1975年の大ヒット「セイ・ユー・ラヴ・ミー」がもっともよく知られているが、日本では残念ながらリアルタイムではほとんどリリースされず、知名度はでなかった。ただしファースト・アルバムは当時、シェルター・レコーズを配給していた日本フォノグラムから出た。
D.J.Rogers – Say You Love Me
https://www.youtube.com/watch?v=xsOpaC5ytNo
この曲はのちにナタリー・コールもカヴァーする。
Natalie Cole – Say You Love Me
https://www.youtube.com/watch?v=FbBdd8arpME
すでにチャッキー・ブッカー、ソウル・ミュージック関連のジャーナリストのデイヴィッド・ネイサン、A・スコット・ギャロウェイなどが長文の追悼文をだしている。
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評伝。
D.J.ロジャースは、1948年(昭和23年)5月9日ロスアンジェルス生まれ。父親が牧師だったこともあり、幼少時代から親に連れられ地元の教会に出入りするようになり音楽に親しんだ。3歳の頃から教会で歌っていたという。そしてクワイア―に自然に参加、12歳になる頃にはクワイア―を指揮していた。その頃「音楽こそ自分の進む道」と考えていたが、それはゴスペルであり、コマーシャル音楽(世俗的なR&B)ではなかった。1968年までは全米をクワイア―でツアー。そして1969年9月にブラザー・ヘンダーソンによって結成されたワッツ・コミュニティー・クワイア―に参加。すぐにコミュニティーの音楽ディレクターになった。
その中には、今ではそうそうたる名前と言える人達が入っていた。ビリー・プレストン、スライ・ストーン、ボビー・ウォーマック、グローリア・ジョーンズらがいたのだ。このほかに、ゴスペル界の大御所ジェームス・クリーヴランドらとも接点を持っていた。どれほど、D.J.が地元のゴスペル音楽界で人徳があったか、そうした若手をまとめる力があったかがわかる。
この時期にサヴォイで5枚ほどアルバムを録音したというのだが、ちょっと見つからなかった。ひょっとしたら、ジェームス・クリーヴランドが多数のアルバムをサヴォイで出しているので、その5枚に参加したのかもしれない。ただ、ワッツ・コミュニティー・クワイア―のアルバムは一枚あり、そこにはD.J.ロジャースの名前もあった。
(ジェームス・クリーヴランド)
1. We Need More Love – Fabulous Watts Community Choir (Provcerb 503) (1970)
https://www.youtube.com/watch?v=Vh4wRHhzWL0
D.J.ロジャースが書いた作品。
このアルバムに収録されているバカラックの「世界は愛を求めている」。
https://www.youtube.com/watch?v=4OlUrRwCGQg
ひょっとするとこのキーボードかオルガンがD.J.ロジャースかもしれない。この曲のシングルのB面はD.J.ロジャースの作品。
こうしてゴスペル界ではある程度の地位を築いたが、より幅広い層に自分のメッセージなどを伝えたいと思うようになり、徐々にゴスペルを超え、世俗的な音楽の世界にアプローチするようになる。
そこで1970年、著作権管理団体ASCAPとソングライターとして契約。ソングライターとして音楽業界で動いているうちに、いくつかのレーベルからシェルター・レコーズが、自分の方向性とあっているように感じ、シェルターと契約した。シェルター・レコーズは1969年、レオン・ラッセルとデニー・コーデルによって設立したインディ・レーベル。レオンの生まれ故郷、オクラホマ州タルサとロスアンジェルスにオフィースがあった。レオンの地元では、教会を改築したスタジオをホームスタジオのように使っていた。
D.J.によると、「レイ・チャールズのスタジオで録音したデモテープをもってタルサ・オクラホマにレオン・ラッセルに会いにヒッチハイクで行こうと思っていたところ、シェルターの人間の方から電話があった」という。
そのデモ・テープはすぐに認められ、単発ながらアルバムを録音することになる。シェルターはタルサにスタジオをもっていたので、そこで録音が行われた。
D.J.はすでにゴスペル時代から知りあっていたミュージシャンをロスやニューヨークからタルサに呼び寄せ、デビュー作を録音。作品『D.J.ロジャーズ』はそこそこの評価を得るが、ちょうどシェルターの配給元キャピトルが、レオン・ラッセル以外のアーティストをカットすることになり、D.J.ロジャースのアルバムなどもほとんど実質的に配給されずに終わってしまった。
https://open.spotify.com/album/0sL8OFDo2QNS6ODj2NJBpg?si=q2fDrVRnStun4NmZ64p56Q
このアルバムは残念ながらヒットには至らなかったが、シェルター所属のスライ・ストーンの妹メリー・マクリアリーのアルバム制作にもかかわった。
その後、シェルターは新たな配給元としてMCAと契約するが、当時MCAはブラック・ミュージックをまったくリリースしていなかったために、D.J.はこことは相いれず、結局、その後紆余曲折を経てRCAへ移籍。このころちょうど、コロンビア(CBS)からもオファーがあったが、熟考しRCAと契約したという。
当初は4曲だけの契約(シングル2枚)、プラス・1年のオプションだったが、レコーディングを始め何曲か聞いたところ、RCAはすぐにオプションを行使し、アルバム制作に進んだ。アルバム『イッツ・グッド・トゥ・ビー・アライヴ』を1976年リリース。すると、アルバムからの最初のシングル「セイ・ユー・ラヴ・ミー」が同年3月からヒット。特にロスアンジェルス地区では大ヒットとなり、ビルボード・ソウル・チャートでも51位を記録するに至った。とはいえ全米的な大ヒットではなかった。
その後もシングル・ヒットは出すが、いずれもソウル・チャートでさえもトップ10入りは果たしていない。
ちょうどこのころ、マネージメント問題で悩んでいたところ、ロスのトータル・エクスペリエンスというナイトクラブを経営していた黒人起業家ロニー・シモンズと意気投合し、彼にマネージメントを任せることになる。それだけでなく、ロニーが設立したトータル・エクスペリエンス・レコーズとシンガーとして契約。D.J.のレコードはトータル・エクスペリエンスから出ることになり、これをメジャーのRCAが配給することになった。このロニーはすでにこのころから、ギャップ・バンドのメンバーをマネージしており、彼らをスターの座に押し上げる立役者となるが、その後問題を起こし、彼らはロニーと手を切ることになる。
(ロニー・シモンズ)
D.J.は1976年2月のイギリスのブルーズ&ソウル誌のインタヴューで「俺はブルーズは歌いたくない、自分自身でその答えがわからない限りにおいて。だから俺は希望と、自分自身が経験してきたことしか歌にできないんだ。『セイ・ユー・ラヴ・ミー』は、誰もが、どの時代にでも聞きたい言葉だと思う。ベッドに入るとき、誰かがどこかで君のことを愛しているということはとても大事なことだ」という。
https://open.spotify.com/album/0AA9zs7QYsQwQ4cVdo3ULT?si=Mb795cJSRRuqwQ6bLDa1bA
その後、RCAで計3枚のアルバムを出すが、1977年の2作目にはスティーヴィー・ワンダーのバック・コーラスもして、のちに自身の名前で売れるデニース・ウィリアムスもバック・コーラスで参加していた。
1978年、いちどオファーを受けていたコロンビア(CBS)レコーズと契約。3枚のアルバムをリリース。うち後半2枚はモーリス・ホワイトが持つARCレコーズからのリリースとなり、日本でもアース・ファン、日本でいうAORファンなどからもちょっとした支持を集めた。
(1978年7月リリース『ラヴ・ブロート・ミー・バック』のタイトル曲)
ソフトでスムーズな歌声は、1980年代には「クワイエット・ストーム」のフォーマットなどでもプレイされ、またいくつかの楽曲がヒップホップ系アーティストにサンプリングされてちょっとした再評価を受けたこともあった。また、息子のD.J.ロジャース・ジュニアも音楽業界で活動をしている。
最近はゴスペル界に戻り、ゴスペルを歌っていたという。
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主なアルバム・リストは次の通り。
① D.J.Rogers (Shelter 8915) 1973
② It’s Good To Be Alive (RCA 1099) 1975/3
③ On The Road Again (RCA 1697) 1976/9
④ Love, Music And Life (RCA) 1977
⑤ Love Brought Me Back (Columbia 35393) 1978/7
⑥ Trust Me (ARC/Columbia 36002) 1979
⑦ The Message Is Still The Same (ARC/Columbia 36376) 1980
⑧ Hope Songs Vol.1 (Hope Song Records 2000) 1982
⑨ Talking Truth (Electra 61525-2) (1993)
⑩ Golden Classics (Collectables ) (1996/11)
The Message Man (Sony Legacy ) (1998/2) コロンビア時代の3枚のアルバムから編纂されたもの
このあとも、ゴスペル系のアルバムを出したらしいが上記1枚しか確認できなかった。ただ、2015年こんな曲があった。
https://www.youtube.com/watch?v=Sw5pmuSPVyc
LOVE BROUGHT ME BACK: EXPANDED EDITION
D.J.ロジャース
D.J.Rogers (1973)
ちょっとCDの値段があがってますが、MP3やストリーミングで聴けます。
ご冥福をお祈りします。
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