(生)林檎博’24-景気の回復- コンセプト考察 アンドロイドは仏陀の夢を見るか
みなさんは椎名林檎さんの(生)林檎博’24-景気の回復-をご覧になっただろうか。いや、よかったよねガチで。
さて、今回の実演ではOPとEDに印象的な映像が使われていた。その映像を初めて見たときに、どういった意味でその映像を使ったのか、どういうコンセプト・思いを彼女はこの実演にぶつけたのか、本投稿ではそこを深掘りしていく。深掘りにあたって今回はセットリストやその時に現場で流れた映像をベースにそのコンセプトをゆんぐ的視点で考えていく。
こういった記事をきっかけに、みなさんにも彼女のライブを楽しみながら、彼女が我々(地球の皆様)に託したメッセージや思いをより感じてほしい。
そんな一助となれば、ゆんぐも幸せである。
※曲自体の解釈や実演自体の考察にはゆんぐ自身の感情が多く含まれます。
そういったものが苦手な方はブラウザバック推奨。
※仏教的な解釈が多くなるが、当方は宗教的な理解が浅いので、ミス等に関しては優しい目で4649。
本稿の構成は以下の通り、まずはOP/EDについてまとめる。そのあと宗教感を理解するために、三毒および放生会について振り返る。
そこから、今回のセットリストに基づいて、ゆんぐの考えをまとめていく。
長丁場になるがどうかよろしくお願いする。
1 OP/EDについて
OP
今回の実演のOPではまず坊主5人が映し出されたあと、四角錘の各頂点へと移動していく。映される御厨子のような建物。非常に宗教的なスタートである。
そのあと、場面は切り替わり宇宙へ。
地球を見下ろすような画面から林檎さん映し出される。
金髪ではあるが、衣装は真っ白でさながらアンドロイドを彷彿とさせる機械的な外観であった。
※本稿では人型の機械生命体をアンドロイドと呼称し、読みやすさのため厳密にAIなどとは区別しない。
イメージでいえば時間遡行/空間転移を想像する映像とともに次曲へ。
そして宇宙の記憶が始まるとき、林檎さんはこういうのだ。
「地球のみなさま、ごきげんよう」と。
ED 2◯45
2◯45に合わせて、映像が流れる。
そこには、砂漠化がすすみ、荒廃した世界が映し出される。その世界には林檎博で使われたシーン(冒頭のお寺や野球場、猫の目の招き猫など)が映し出されるが、どれも荒れ果てており、現在使われているようには見えない。
そして最後に林檎さんの顔(冒頭同様のメイク)が映るも、身体はアンドロイドとなっており、最後にその首が落ちる。
そのあと、2045と表示されたところから、冒頭の坊主が三角形を描き2024へと戻る。(ここは時間遡行の描写だろう)
2◯45という曲の世界観もこの情景に非常にリンクしている。昔人類が〜とあるようにそれは人間ではない何かの感情なのだろうが、その生命体が、人間の関わりに対して理解は示せていないまでも、興味を示しているようなテイストだ。
ゆんぐはこの2◯45を聴いている時に、この歌詞が気になった。
誰もが一度は興味を惹かれる 昔人類が耽った不合理な陶酔
誰もが一度は興味を惹かれる 太古の人類が溺れた或る倒錯
これの歌詞はどちらとも「誰もが興味惹かれる」と言っている。
誰もが興味惹かれる陶酔/倒錯とはなんだろうか?
それは、ゆんぐは永劫の命、不老不死ではないかと思う。しかも、誰もが〜ということはアンドロイドでさえ思うというのだ。
そう考えると、この映像での歌詞の意味は、この世界が滅びてしまったアンドロイドたちが太古の人類が抱いた不老不死に思いを馳せるシーンなのではないか。
また2045とアンドロイドといえば、現代の2024年にも問題提起されている所謂2045年問題である。
2045年問題とはアンドロイドの知能が人類の知能を超える年とされていて、雇用や人間の働き方に影響があるとされている問題であるが、本稿で重要なのは人間が生み出したアンドロイドの知能が人間を超えるということである。
それを踏まえると、この世界観は人間が生み出したアンドロイドが人間の知能を超えた世界であったのだが、アンドロイドの造った世界は荒廃してしまう。荒廃して死を悟ったアンドロイドたちは昔人類が耽った不老不死に縋る。そんなストーリーではないだろうか。
そう考えると、この映像はエンディングで流れた映像であるが、物語の始まりにも思える。というかそう考える方が自然ではないだろうか。
そう考えるのにはもう1つ根拠がある。それは繋がる鶏と蛇と豚の曲について椎名林檎さんによる三毒史リリース時のインタビューの中のある一節だ。
──アルバムの幕開けと締めくくりについては、どう考えていましたか?
いつも通り、1曲目がエピローグで、13曲目がプロローグです。
椎名林檎さんは三毒史というアルバムの中でこの曲をエピローグとして扱っていた。このライブでも必ずしもそうだとは言い切れないかもしれないが、今回もそう考えていてもおかしくない。
そういった理由から、エンディングがこのストーリーのスタートだとゆんぐは考えた。
では、滅びを悟ったアンドロイドはなぜ2024までタイムスリップしたのだろうか。それはもちろん滅びからの逃れを過去に求めたからだ。なぜ?
この滅びる世界に足りなかったものを知るためではないか。
滅びるということは何かが足りなかったから滅びたのであり、その原因を創造主たる人間の生活から探るのは自然なように思える。
だって、人間は数千年の歴史があるのに対し、アンドロイドは20年程度で世界を荒廃させたのだから。
さて、時間遡行したアンドロイドは何を見たのだろうか。
その答えが、今回の林檎博の中身になるのだろう。
では、ここからセットリストを振り返り、中身を考えていこう。
これからの解釈に必要となるため、そのまえに少しだけ、三毒史、放生会について簡単に振り返る。
〈余談〉
エンディングには以下の画像が一瞬表示された。vivisionのそのツイートの中身はEXPO 24 B.C.
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つまり紀元前にも林檎博をやっていたということになる。そういう観点では、時間遡行は現代だけではなく、過去も行った可能性がある。
また、林檎博というもの自体も博覧会という名前ではあるもののアンドロイドからすれば、日頃の我らの日常生活もまた博覧会のように見える可能性もあり、林檎博=人間の日常くらいの認識の可能性もある。
2 三毒史と放生会 そこから見える輪廻。
三毒史って?
今回の景気の回復は放生会というアルバムの実演ともいえるが、そのひとつ前のアルバムは三毒史というアルバムでどちらも仏教感の強いタイトルが並んでいる。
三毒史は三毒(蛇・豚・鶏)をそれぞれ瞋(怒り)・痴(無知)・貪(欲深い)という仏教における根本的な煩悩をタイトルに冠したものである。仏教ではその三毒から解放されることで自分たちの持っている感覚にとらわれないという理想”色即是空”へと到達される(=解脱)といわれている。
以下に示すナタリーインタビュー記事でも、一人の架空の主格に対しての人生を描いたもので、人が生まれた時から持っている三毒との向き合い方=生き方を描いたものと語っている
https://natalie.mu/music/pp/sheenaringo0
放生会って?
動物を殺生するのを戒める宗教儀式で、インド由来の六道輪廻説と中国の孝が一体化したものである。
六道輪廻?
六道と呼ばれる6つの世界を輪廻転生し続ける、そんな宗教的考え方。
その輪廻のループから抜け出すには解脱(煩悩から解放されること)する必要がある。
つまり、人間の根本にある三毒から解放されることが、輪廻という輪からの解放を意味している。
輪廻は限りなく生と死を繰り返すことから、インドの思想ではそこからの解放を目指す。
結局、、、
三毒史という人間の三毒にフォーカスを当てたアルバムから、放生会という六道という世界のなかを輪廻するという背景を持つお祭りを冠したアルバムへの流れ。しかも、六道の世界を輪廻するのは三毒が原因だといわれている。
え、それって、関係ないわけなくない、、?
さて、そんな話を踏まえてセットリストを確認しよう。
3 セットリスト
ゆんぐ的に考えて意味のあるまとまりを以下のように便宜上ナンバリングした。
No.1
1.鶏と蛇と豚
2.宇宙の記憶
3.永遠の不在証明
4.静かなる逆襲
5.秘密
6.浴室
7.命の帳
8.TOKYO
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No.2
9.さらば純情
10.おとなの掟
11.MOON (REBECCAカバー)
12.ありきたりな女
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No.3
13.生者の行進
14.ジプシー (あっぱカバー) ※歌詞変更
15.人間として
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No.4
16.望遠鏡の外の景色
17.茫然も自失
18.ちりぬるを (w/イッキュウ)
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No.5
19.ドラ1独走
20.タッチ (岩崎良美カバー w/Daoko)
21.青春の瞬き
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No.6
22.自由へ道連れ (w/イッキュウ)
23.余裕の凱旋 (w/Daoko)
24.ほぼ水の泡 (w/もも)
25.私は猫の目 (w/ももイッキュウDaoko)
【アンコール】
26.初KO勝ち(w/のっち)
27.ちちんぷいぷい
【エンドロール】
28.2○45
先に述べた通り、この林檎博は崩壊した世界からやってきたアンドロイドが自分たちに足りなかったものを過去の私たちに求めたライブという立ち位置だ。宇宙の記憶の時にはアカシックレコードを書き換えているような映像もあったし、そういった根拠からもそう考える。
ゆんぐは、ナンバリングしたそれぞれでコンセプトがあって、それぞれのブロックがアンドロイドに対して、なんらかの影響を及ぼしたという解釈をした。
そのため、それぞれの曲に対しての解釈は行わず、基本的には各ブロックに対しての考察とする。
ゆんぐが考える
アンドロイドがこのライブ全体で知ったものは大きく分けて2つ
1つは我ら地球のみなさん(の人生/様子)
2つめは一人の女性の人生だと思った。その理由を述べていく。
3-1 OP~TOKYO
ゆんぐ的にはこのNo.1のコンセプトは三毒/人間臭さだろうと思う。
鶏と蛇と豚は言わずもがな三毒を象徴しているが、その他の曲にも三毒を意識するフレーズ/ニュアンスが含まれている気がしたからだ。
例えば以下のような感じで。
静かなる逆襲
「美味しそうな今美味しそうな旬を」
「愛すべき今愛すべき人と」
自分の感覚重視で色即是空とはかけ離れている・・・痴(無知)
浴室
この曲のコンセプトは生死を超えた融合(以下注釈参考)
08林檎博でもあった包丁を用いたシーンも今回あり、その包丁を自分に突き立てるような演出もあった。
つまり、凡庸な言葉で言い換えるなら、自分という人間を比喩ではなく、”食べて”ほしい。そしてあなたと融合して一つになりたい。というカニバリ的思考を愛ととらえるような曲。
背景ではいろいろな形の図形がいっしょくたになりながら、ごちゃごちゃになる様子が描かれているが、それはこのイメージか?
このアルバムの中で、一番好きな曲かもしれない。去年の夏ぐらいからこういう雰囲気というか、こういうキレイさが気持ちいいんですよ。〈キチンと召し上がれ〉っていう詞は、男の人が聴くと「ヤッちゃっていいよ」ってことだと思うみたいなんだけど(笑)、言葉の通り「本当に食べて欲しい」ということなんです。「生死とかを超越した融合を実現したい」って欲望と提案の曲。だから、「性行為とかよりも、もっと素晴らしいものを探そう」という話なんです。私はよく「情念系」って言われたりするけど、この曲を見てると「そうなんだろうな」って思っちゃいますよね。だって、全然理性的じゃないもん。
命の帳
「しかし自分の欲しい答えなんていつも一つだった(中略)
無言にこめて欲しいじゃなきゃ触んないで」
自分を欲してくれないことへの苛立ち・不満・・・瞋
TOKYO
このパートでは最もリアルで人間臭い曲だとゆんぐは思う。
つらい、しんどいという感覚・・・痴
愛されたいという欲・・・貪
現実逃避=うまくいかず、現実を受け入れられない苛立ち・・・瞋
このように捉えると、三毒を凝縮したような曲なのかもしれない。
「飲み込んでTOKYO」とともに、林檎さんはステージ下へゆっくりと。
まさに入水自殺してしまったかのような演出
ここでアンドロイドは三毒や人間らしさを知ったのだと思う。
2045では人間の感情に理解はできなかったのに、である。
3-2 さらば純情~ありきたりな女
ゆんぐ的にはこのNo.2のコンセプトは愛/結婚・出産だと思った。
このブロックの流れは
前半 さらば純情/おとなの掟
~~新若旦那のセリフ~~
後半 MOON/ありきたりな女
という流れである。
前半部分は大人になっていく過程を示し、後半は母目線で前半部へのアンサーとしているのかなと感じた。その中に新若旦那のセリフを挿入することで、母になる前後の対比がより強く見える。
また、新若旦那のセリフを借りると
「姉が林檎さんのお腹にいる頃に、感銘を受けた曲」と紹介していた。
これは後半部が母としてのパートであることを一層強く表現しているのではないかと感じた。
3-3 聖者の行進~人間として
ゆんぐ的にはこのNo.3のコンセプトは生命の広がり/育児だと思った。
個人的にそれを一番感じたのはジプシーのダンスである。ジプシーのダンスはキャリーバッグを持ってのダンスだったが、ゆんぐはそのキャリーバッグを旅行時に持ち歩くものというイメージから生命の広がりの暗示ととった。
また聖者の行進という生命力のある曲の存在もこのコンセプトとした大きな理由の一つである。
<余談>
さらば純情~ありきたりな女では海の中の演出
聖者の行進~人間としてではサバンナ/獣の衣装。
これは~TOKYOまで人として生きていて死んだ命が
人→海の生物→サバンナ?の生き物へと輪廻転生しているというイメージなのでは?これ以降は人に戻ると考えてよさそうだし、ループは形成されていそう。
※このときの貝の演出は大発見リリース時のスぺシャでのインタビュー(わっちの発言)から?
ちなみにこの時は、アマテラスのような存在ってわっちは言ってるが、、果たして今回はどんなイメージだったのだろうか。
わっちのイメージはボッティチェリが描いたヴィーナスの誕生なんだろうなきっと。
3-4 茫然と自失~ちりぬるを
ゆんぐ的にはこのNo.4のコンセプトは死だと思った。
この2曲はどちらも失うことへの恐怖や、失ったことへの悲しさを特に述べていると感じる。そういったことから、椎名林檎さんの死生観が最も出ているブロックともいえる。
ちりぬるを時のバックダンサーの映像は左右対称の振りとなっていた。それは現世とあの世の対比をイメージしていたのかなと思案。
3-5 ドラ1独走~青春の瞬き
ゆんぐ的にはこのNo.5のコンセプトは青春だと思った。
青春は安直かもしれないが、野球は甲子園のイメージではないか?
青春のイメージは青春期を迎えた人間の視点と、それを見つめる母の目線2パターンが考えられるのかなと考える。
3-6 自由への道連れ~ちちんぷいぷい
ゆんぐ的にはこのNo.6のコンセプトは楽しさだと思った。
このブロックはすべてだれかと一緒に歌う曲が並ぶ。演出としても目抜き通りを彷彿とさせる煌びやかな展開で、実演としても盛り上がりはピークに達する。そういった展開・演出の面からここのブロックのコンセプトは楽しさであろうと考えた。
<余談>
① 私は猫の目で出てくる招き猫は機械化していて景気回復ビームを打つ。現代にはもちろん機械化している招き猫なんていないのだが、それは時代が進んでアンドロイド化が進んでいる(EDがOPに続くという前提では)ことの暗示でもあるのだろうか?
② ちちんぷいぷいの冒頭「そう確かに何でも持っている この世はおよそ私のもの」これって、こんなかわいい女性陣を散々集めて、踊らせて、歌わせてきた椎名林檎さん歌うと、すごい説得力がある鳥肌が立つセリフにこの実演では化けてるなと思うのだが、アンドロイド化しているという観点で見ると、人間を超えている知能を得ているから出たセリフともとれる。そういうダブルミーニング?
4 まとめ
4-1 アンドロイドはどう変わったのか
アンドロイドは上記のような生活を目の当たりにして、三毒を知り、人間を知った。冒頭では(実際はエンディングだが)、何も人間らしい感覚など持ち合わせていなかったアンドロイドはずっと人間らしくなった。
しかし、ここで1つ疑問が生じる。
アンドロイドは元来人間が生み出した三毒を知らないものであったはずだ。それは仏教的視点でとらえれば解脱した存在と言え、人間とは一線を画した存在であったはずだ。しかし、今三毒を知り、人間を理解したアンドロイドはもう解脱した存在とは言えない。輪廻転生を繰り返す人間と同等の存在へとなり下がった(成り下がったという表現が正しいかは不明だが)。
また、そんなアンドロイドはもうアンドロイドという呼称よりも、いわば人間といっても差支えのない存在となってしまっているように感じる。
つまり、アンドロイドも人間同様に輪廻転生を繰り返す存在となってしまった。と考えるべきではないか。
そう考えると、前提として存在した2045年問題の「人間をも凌駕した知能」は過去へと”ループ”して足りないものを確認したという行為は、仏教的解釈では輪廻転生のループと捉えられないだろうか。厳密に生まれ変わったわけではないが、無限に生死を繰り返す輪廻転生のように時間軸を行ったり来たりする姿は酷似しているように見える。
4-2 ゆんぐが考える林檎博で林檎さんが伝えたかったこと
4-1節で述べた通り、アンドロイドは解脱した存在であったにも関わらず、輪廻の対象となってしまった。
アンドロイドが輪廻の対象になったということは、言い換えれば
「解脱した存在というのはいわば仏陀のような仏様に近い存在と捉えられると思うが、そんな存在ですら人間同等になった」と考えられる。
人間が造った神様仏様同等の存在ですら、逃れられない輪廻。
人間はそんなものからは到底逃れられることはできない。
=つまり人は必ず死ぬし、その絶対的な条件は揺るがない。
そこに悲観すればいいのだろうか?
いや、その回答が「景気の回復」なのだろう。
経済学的な景気ではなく、この景気という言葉がもつ本当の意味は活気がいいさまを示すものではないか?
そんな死からの恐怖に対して悲観するのではなく、それを受け入れてだったら楽しく生きようよ。そんなメッセージを伝えたかったのではないだろうか。
<余談>
①アンドロイドに支配された世界は滅びてしまったような描写もあったことからも、アンドロイドに支配された世界ではなく、”生”身の重要性も伝えたいのかな。
②上記のコラムの中に入れ込めなかったのだが、今回の実演前や実演には”Turritopsis”という文字列がよく見られる。(ほぼ水の泡のMVとか、今回の音楽隊のジャージとか)
ご存じの通りこれはベニクラゲ属(=紅海月)の学名?であるが、そのクラゲは不老不死として知られている。そのコンセプトがアンドロイドと近いのもあるが、多くの死を経験した林檎さん的には、そういったものを比喩に、失った悲しみとまた別のいきものとして生まれ変わってまた会おうという惜別の意味も込められているのかもしれない。
③実演前半には林檎博ロゴの三角形が多く表示されるが、後半は丸のイメージが多いような気がした。
三角形は三毒、丸は輪廻転生のイメージなのかな?
5 さいごに
非常に長い文章となってしまったが、ここまで読んでいただいた地球の皆様には感謝申し上げる。アリガット!
ゆんぐはこの解釈が絶対的に正しいとは思っていない。でもゆんぐはこのような印象をこの実演から受けたのは紛れもない事実である。林檎さんは自身の実演に対して三毒史のインタビュー記事で以下のように述べている。
──今回のアルバム自体では、どのような人生の流れを描きたいと思っていましたか? 曲間はあまりなく、前の曲のアウトロから次の曲の1音目が詰まっていますよね。その意図も聞かせてください。
(中略)シングル曲がアルバム内で違った匂いを発するよう、意図して構成するとき、「これこそが私の本業の終点だ」と感じたりします。まあ、ライブ演出の際も、ですかしら。
林檎さんはこれまでの曲たちに実演という別軸のストーリーに合うように改めて、曲を変え演出を変え、メッセージを伝えてくれている。
受け取り方は人それぞれでいいだろう。愛好家諸兄諸姉はこの実演でどんな彼女のメッセージを受け取っただろうか。そんなことをぜひ、考えてみてほしい。
2024.12.27 化仔猫Jung